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GW最終日、南郷通り万生公園の桜を見てきました。例年は中旬にならないと咲かない八重桜が咲いていました。毎年僕の花見は近間でこの程度です。
エコロジスト論
吉本は、エコロジストを一貫して非難してきた。農業を守れ、緑を守れ、健康に悪影響などを主張し、近年では脱原発などを掲げる人々に氏は妥協しない。
エコロジストの提起する「死につつある自然」という概念は、「生きている自然」という概念なしには存在しない。「死につつある自然」が理念や運動となるのは、「不死なる自然」が目指されている目標であることを意味する。
「死につつある自然」という命題の立て方は、民衆に心理的な脅迫と強要を押し付け、大衆の日常生活を圧迫する。それを運動の理念にすれば、社会ファシストと農村ファシストの跳梁になってしまうことは半世紀前(戦前)に体験済なのだ。
*(*印は僕の感想部分)誰しも安心で安全な日常生活を送りたいと願っている。巷は誰にも反対のできないスローガンが満ち溢れている。交通安全、健康、長生き、若さの維持、禁煙、清潔、景観、自然保護、自然食・・・これら見かけ上の正しさを否定するのは相当な困難を伴う。しかし、水戸黄門の印籠と同様に面前に掲げられると皆がひざまずく様な権力性を帯びた言葉である。
吉本は、これらと闘うことができなければファシズムやスターリニズムとは戦えないと言う。私たちは、理念として自由、平等、公平、友愛、公正、ヒューマニズムなどを掲げて理想社会を目指す運動が実際には変質し、グロテスクな社会を作ってしまった歴史を経験している。
エコロジストたちは、一方で文明を批判しながら、その果実は享受し、拒否しないという一貫性に欠ける行動をとっている。吉本は、なぜ過疎地域や山岳地帯、砂漠地帯に彼らが理想と考える人工都市や農村を作って見せるという発想をとらないか不思議だと言う。
*エコロジストが反動だというのは、僕には中々ストンと落ちなかったのだが、ある金曜日の夜に道庁前で行われていた脱原発行動での法華の団扇太鼓を見た瞬間から、非常な違和を感じたと同時にこれは理念に基づくものでは無く祈りだと感じた。
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