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「新聞考①:夕刊を購読する意味」夕刊で報じられた大きなニュースが、翌日朝刊にほぼ同じ文面で再掲載されると腹が立つ。電車に片道乗ったのに往復料金を取られたようなものだから。夕刊を読まなくても情報の欠落は無い。ある記者から朝刊だけの購読者が増えていると聞いた。当然のことだと思う。
『万引き家族』(是枝祐和監督・脚本・編集 2018年作品)
第71回 カンヌ国際映画祭(2018)でパルムドールを受賞したということで話題になっている。シネマフロンティア札幌、ユナイテッドシネマ札幌など大手シネコンで上映中。通常ならシアターキノだろう。(キノでも上映すると思う。)
是枝監督は、これまでも子どもの取り違え事件を題材にするなど血をテーマにしてきた。本作品でも、血のつながりとは何かを提起する。作品の中では、血が繋がっていなくても成立する家族(共同生活)があるということを示す。
映画では、それぞれわけありの登場人物たちが、それなりに思いやりを持ち幸せを感じる家族を形成してきたが、あるきっかけから行政、法、常識(警察、児童相談所などの行政、マスコミ報道)によってバラバラにされ、一見すると世間が納得する居場所に落ち着く。そこにある論理は、社会規範としての法律や制度が前提としているのが、家族は血のつながりの中に納まるべきという一種の強制力だ。はたして、それで皆が幸せになったのかという投げかけである。
表面的には平穏無事のように見える家族も、僕らは必死になって維持しているのだ。また、ひとつやふたつ何かしら家族に関わる問題を抱えていることもあるだろう。しかし、家族というのは、病気や不慮の事故などで簡単に壊れてしまう。家族間の折り合い、別居、離婚、加齢、介護、障害、借金、児童・高齢者虐待、里子・施設入所、家庭内暴力(DV)、財産をめぐる係争、・・新聞の社会面にあるような事象は容易に発生している。
この映画を理解するには、吉本隆明『共同幻想論』における「原理的にいえば、ある個体の自己幻想は、その個体が生活している社会の共同幻想に対して〈逆立〉するはずである」(P127)というテーゼが有用だ。個人は、原理的に国家や法や規範などと相いれない幻想形態を持っている。本作品は、これを作品化、映像化したものだということになる。
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