晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『子どもと哲学を』 その2

2012-09-25 20:47:23 | Weblog

 大通ビッセ2階「徳光珈琲大通店」 、曇硝子の向こうの大通公園を歩く人々を見ながら一休みです。(独り独りの実存を背負いながら歩いています。)

 暑さを感じながらの30km走を終え、何とか距離への不安が和らぎました。気温も下がってきたので、日曜日の旭川マラソン(ハーフ)はきっと大丈夫でしょう。(自分自身の実存を背負いながら'70年代っぽく走ります。)

 

 第二章 実存的問いー「自分」という不思議

 幼年期の存在論的、形而上学的問いに対して、12,3歳ころの思春期と呼ばれる時期から青年期にかけては、実存的問いが発せられる。その問いは、「アル」=幼年期を永遠に失ってしまったという喪失感の中から生成する。

 この私の誕生と、この私の死との間に挟まれた限界をもつ有限の時間=「実存的時間」が引き起こすものは、自分の存在そのものの終わり(死)という想像力の限界を超える事態に対する不安である。幼年期の終わりは、有限な時間を生きる「この私」が目覚める時である。

 人間の特徴は、決して経験することのできない、自分の死を考えることのできる不思議さのうちにある。「自分」は「今」「ここに」しか存在しない。「自分」との出会いは、「今」という時間の新しい発見である。

 「生きるとは何か」、「今」をどう生きれば良いのか、という時間への問いは、生きる、ということへの問いであり、子どもにとっては「大人」になるということへの問いであり、そして最終的には、「人間」であるということへの問いへとつながっている。

 子どもからの問いにおいては、大人とは、生と死の問題を問うことをタブーとし、生を無条件の前提としたうえで、生のための社会を構成し、その社会が維持されるためのさまざまな良識を作り上げてそこに安住する存在である。大人とは、最も本質的な問いを問うことそのものを禁止する存在である。(P93)

 特に、根源的な問いを発したであろう自死した子どもたちの側から見ると、学校や親や世間は、「きれいごと」の言葉を連ねるだけで、まともに向き合ってはくれなかったという思いがあるのではないか。

 


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