晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

吉本隆明の思い出

2006-06-06 20:06:49 | Weblog
 図書館で、吉本隆明「老いの流儀」
(200年NHK出版)を借り読んでいる。
思えば、吉本も歳をとったものだ。近年、
書下ろしはほとんど無く、インタビューを
起こして校正したものばかり。

 思い出すのは、1975年頃、埴谷雄高の
「死霊」の出版記念講演会に、小川国夫、
秋山駿と吉本隆明が来て、それぞれ「死霊」
の評論を述べた。
 講演の最後に聴衆から、「吉本氏の今日の
話は、氏の著作の内容とどうも違うような
気がする。」との問いに、吉本は、「今日は、
埴谷氏の著作に沿う話をしたのであって、
私自身の考えは全然違うんです。」これには、
全体が一瞬あ然。
 「実は、私はこう考えているのです。」と
自らの考えを述べる吉本。じゃ今までの話は
なんだったんだろう。

 その後の話で、一番印象に残っているのは、
「国家権力なんか、廃絶の対象であり、町内会
や学校の掃除当番のように政治や行政は皆で
順番にやればいいのです。国家なんて必要
ないのだ。」
 
 私の国家の廃絶のイメージ=掃除当番は、
30年前のこの時できあがったのでした。

 戦後思想界の巨人、反アカデミズムを貫き、
岩波書店からは著作の無い吉本隆明。どのよう
なことを語っても、哲学がしっかりしているため、
時流に流されず縦横無尽に語れる吉本隆明。


 







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そうきたか (生住滅)
2006-06-07 19:15:10
私たちの性、運動、芸術、消費、自由、思想など所謂日常生活は相対で完結できない観念的な質を獲得していることから、現代思想はこの質を克服すべきものと吉本隆明は書きつづけていた。広松も無し得なかった地平を獲得するのではと、どこかで期待している生住滅がいた。

「ばなな」のために角川に媚びた以降の著作はほとんど読んでいない、この一件以来吉本隆明への幻想は幻想そのものになった。



青(くさい)の時代性が如実に表象されるリトマス試験紙とか、擬制(吉本隆明)の終焉とかに揶揄するのは顰蹙を浴びるのかな・・・



この詩篇の透徹さに賛辞は惜しみません。



  ある抒情



風の衣がきみの鼻さきをかすめると

ちいさな架空な愛になる

それから<つかぬことをうかがいますが>というような

あの挨拶とおなじ言葉で

事務的な嫉妬のまねごとがはじまる

この世界にはひとつの遣り方があって

                   以下 略

   1974ユリイカ臨時増刊9月号

   1974現代詩手帳12月号



薄赤紫のライラックの花を引き寄せ、妖しげで濃密な匂いを感じていると、愛犬はジッーと私を凝視していた。

「どうした」と言うと、「あなたもおいらと同じだ」と得意そうな表情を一瞬して、直ぐに警察犬の真似を始めた。



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