晴走雨読

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『未完のレーニン』 その4 無政府主義

2010-09-11 20:51:55 | Weblog
 たらばガニサンド(札幌市大通西4丁目「REGALO KURA」レガーロ・クラ)、旧梅沢時計店の石造りの建物を改造した店です。ランチセット650円、大きなカニがはさまっていました。お薦め!)



 『未完のレーニン <力>の思想を読む』(白井聡著 講談社選書メチエ 2008年刊)

 その4

 「マルクス主義者と無政府主義者との相違は次の点にある。

 (一)前者は、国家の完全な廃絶を目標として、社会主義革命によって階級が廃絶した後に、国家の死滅に導く社会主義建設の結果として、はじめてこの目標が実現可能となるものと認める。後者は、この廃絶を実現できる条件を理解していないので、今日明日にも、国家を完全に廃絶することを欲する。

 (二)前者は、プロレタリアートが、政権を闘い取った後、旧国家機構を完全に破壊し、それをコミューンの型に基づいた、武装した労働者の組織からなる新しい国家機構と取りかえることが必要だと認める。後者は、国家機構の破壊を主張しながらも、プロレタリアートがそれを何と取りかえるか、また彼らが革命権力をどのように利用するかということについては、まったく不明瞭な考えしか持たない。無政府主義者は、革命的プロレタリアートが国家権力を利用することや、その革命的独裁を、否定しさえする。

 (三)前者は、プロレタリアートが今日の国家を利用して革命を準備することを要求するが、無政府主義者はそれを拒否する。」(『国家と革命』(レーニン)から引用、『未完のレーニン』からの孫引P37)

 以下、白井氏の補足。

 『国家の死滅』という最終目標については一致。無政府主義者の空想性は、国家の死滅に至るまでの過渡期的・中間的段階を認めないところにある。」(P38)

 (一)では、政府主義者は、ブルジョア国家を一撃で破壊できると考えている。しかし、レーニンは、階級を廃し、階級社会を生み出す資本主義社会を廃絶するための過渡期的プロセスが不可欠。(P39)

 (二)では、ブルジョア国家の破壊の後に、プロレタリアートによる「半国家」(コミューン型の国家)は必要。無政府主義者には、プロレタリアートが手に入れた「革命権力」についての考察が存在しない。革命を行なうため、プロレタリアートの<力>が必要だが、無政府主義者は、ブルジョア国家が破壊された後、この<力>はどうなるかということを考えていない。(P39)

 引用が長くなってしまった。ポイントは、過渡的なものを想定するか否か。それを想定しない無政府主義は、国家死滅までの道筋と死滅後の社会の具体的なイメージが無い。

 一方、過渡的なものを想定したマルクス主義、それを現実化したレーニン、そこに現出したソ連社会における国家権力による抑圧体制。

 私は、著者が革命の実践力として評価している<力>にこそ、過渡期的な社会(ソ連)に内在した問題の原因があると考える。また、無政府主義をただ切り捨てるのではなく、その中に問題解決のヒントがあるように感じる。

 柄谷行人氏は、交換様式の諸形態を切り口にして、社会構造を分析し、オルタナティブの試みを続けている。氏は、マルクス主義を否定せず、国家の廃絶を目指すと述べる。そして、国家の廃絶は、世界同時でなければ現実化しないと。

 しかし、オルタナティブの可能性を含んだ当面の運動論として氏が提示するのが、協同組合、地域貨幣では、あまりにもみすぼらし過ぎる。
 
コメント
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