晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』 その2

2009-06-27 20:53:35 | Weblog
 水穂大橋より札幌テレビ塔を望む。

 本日の最高気温26℃、突然、真夏になったような気分で、真駒内公園、豊平川河川敷サイクリングロードで走り込み。以前は、15分も走ると汗が噴き出したものだが、最近は30分くらいかかる。汗が出るまでが中々苦しい。

 日差しが強く、腕や首が日に焼けて風呂に入る時、ヒリヒリ。でも、これが雪国の長い冬からずっと待ちに待った夏なのだ!



 『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹著 NHKBOOKS 2006年刊) その2

 第2章は、「生産から消費へー「現代思想」の背景」として、第3講「ポストモダンの社会的条件」、第4講「近代知の限界―構造主義からポスト構造主義へ」で、消費資本主義なる資本主義が「現代思想」の登場を促し、フランスにおけるポストモダン思想がこの国の「現代思想」の源泉になったとする。

 (第3講)本書では、大衆消費社会の登場によって資本主義が変容し、それに対応した思想が「現代思想」であるという認識であるが、私は、果たしてそうなのかという疑問は引き続き残っていると考える。大衆消費社会=消費資本主義なる概念が資本主義の本質が変容した新たな段階などではないと考える。

 何となれば、現在の新自由主義をはじめとした資本主義の暴力性が再び露わにになっている現実を見ればわかるのではないか。

 もう一つは、記号論的世界観である。以下、引用する。「大量消費社会に生きる“我々”は、自らの自然な欲求に従って“主体”的にモノを消費しているわけではなく、未開社会の住人と同様に、呪物的な魔力を発揮する象徴的な記号体系の中で特定の「意味」を割り振られているモノ(記号としてのモノ)の消費へと仕向けられている。」

 これも、私にはいささか為にする議論であって、モノはモノであって記号とか意味とかではない。何となれば、貧困、格差現象は、記号の不足などではなく、モノの不足である。

 (第4講)まず、本書に登場するフランス現代思想の人物を羅列しよう。レヴィ=ストロース、バルト、ラカン、アルチュセール、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティ、フーコー、デリダ、ドゥルーズ、ガタリ・・この国では明治以来、いかに早く海外から思想を輸入できるかが、アカデミズム界での評価につながるのである。




コメント (1)
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