晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『日本の難点』

2009-06-06 21:18:32 | Weblog
 今日は、近所の小学校の運動会、朝6時の花火で起こされてしまい、おかげで長い一日になりました。少子化の影響で子どもの数が少なくなっていますが、子どもたちは元気に走っていました。心配された、天気も何とか持って良かったですね。

 明日は、JAL千歳マラソン、どうも天気が怪しいです。



 『日本の難点』(宮台真司著 幻冬舎新書 2009年刊)

 書店の新書コーナーで現在のベストセラーになっている。

 今まで著者の宮台氏の著作を読んだことはないが、援助交際を社会学のフィールドワークのテーマとして研究したことで話題になったことを覚えている。従って、氏の思想的な立ち位置はよくわからない。

 今、『集中講義! 日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』(仲正昌樹著 NHKブックス 2006年刊)を読んでいるが、この書は、戦後日本の思想界が、マルクス主義全盛の後、ポストモダン、構造主義、現代思想、ニューアカデミズムへと変遷を辿る、その戦後思想の見取り図というか鳥瞰図が講義形式で分かりやすく解説されている良書である。

 おそらく読み終えると、宮台氏の立ち位置もわかるのではないだろうか。

 さて、『日本の難点』であるが、『日本の論点』に習い、コミュニケーション論・メディア論、若者論・教育論、幸福論、米国論、日本論に分かれた40数テーマについて楽しく読み通せる。

 おそらく読者のほとんどの人が、全ての問題の捉え方、考え方において、宮台氏の論理における、いわゆる常識とは一線を画した「ズレ」「ズラし」を感じるであろう。

 さて、私にとって衝撃的であったのは、本文の文脈とはほとんど関係の無い「はじめに」であった。ここを立ち読みして本書を購入したのである。

 それは、「はじめに」で述べられていることのキーワードが、「普遍主義」と「境界」であったからだ。この言葉は、今年のGW中の本ブログ2009.5.3「いなほ保育園の十二ヶ月」を読んで、2009.5.7「春眠暁を覚えず」で行き着いた2つのキーワードそのものであったからだ。

 部分引用します。「政治を評価する価値の物差しが収束しつつある。」

 それは、「第1の焦点は、左翼が推奨してきた多文化主義―近代の普遍主義も数多ある文化の一つに過ぎないとして普遍主義を相対化する立場―を否定する。」「第2の焦点は、これこそ普遍的だと言えるものは永久にあり得ない。」まとめると、「普遍主義の理論的不可能性と実践的不可避性」ということ。

 この「不可能性と不可避性のギャップを橋渡しするのが、現代政治哲学の課題」である。

 「収束しつつある物差し」とは、「相対主義の時代の終わり」また、「絶対的なものへのコミットメントを推奨する立場があり得た時代も終った。」

 「境界線の恣意性問題にした二〇世紀的人文知から、コミットメントの恣意性を問題にする二一世紀的人文知へと転回した。」

 「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か、我々とは誰か、日本人とは誰かという線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で相対主義にあたる。」

 「コミットメントの恣意性」とは、「境界線の内側へのコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識である。」

 以上は、私の使った文脈と大分違うのだが、「はじめに」という小文だけでは、著者の真意が良く読み取れないので、ここではメモだけにしておく。いずれ展開したいテーマだ。
 
コメント (2)
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