晴走雨読

晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日

『失われた<20年>』

2009-05-09 19:44:58 | Weblog
 マス添大臣が待ちに待っていた流感がようやくこの国に侵入した。国から自治体まで、政治家達は自分の政治的パフォーマンスのために「危機」を利用している。



 『失われた<20年>』(朝日新聞「変転経済」取材班編 岩波書店 2009年刊)

 1989年12月29日、1980年代最後の日の東証株価38,915円、思えばこの日がこの国の株価のピークであった。年明けからの1990年代は、栄光の時代となるはずであったが、坂道を転がるように転落していき、現在に至るも未だに回復できないでいる。

 これを称して、「失われた20年」と呼ぶのだそうだ。私自身、10年ほど前、2000年位か、社内文書で「失われた10年」という言葉を使って上司から削除を命じられた記憶があることから、この「失われた・・」という言い方は随分前から使われている言葉であり、今後も「失われた30年、40年・・」と使われる可能性もあるのだろう。

 子どもの頃、学校の教師から世の中の事を知るためには新聞を読めと言われた。少し前には、当時の会社の社長から、新聞ばかり読んでいると馬鹿になるぞと言われた。どちらが、真実か。本書は、朝日新聞に連載された特集記事をまとめたものである。
 
 この20年間の経済的なエポックをコンパクトにまとめている。しかし、本書を読んでも、現象だけを追いかけた皮相的な記述からは経済の本質は何もわからない。なぜなら、この間の経済事象を捉えるための歴史的な視点や哲学が無いからだ。

 「失われた」という言葉の意味するところは、空虚だった20年、無為だった20年、無意味だった20年というようなことなのだろうか。そこからは自ずと、この言葉を用いる者の視点が明らかになる。(決して揺るがないように見えた体制に亀裂が入ってきた、好機到来とは考えない人たち。)

 新聞を作る人たちの苦労も大変なのだろうが、本書のようなまとまった形にしても、どうしようもなく空虚な感じが付きまとうのはなぜだろうか。
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