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「暴力批判論」 その2

2007-09-04 19:44:58 | Weblog
 釧路駅前の和商市場です。以前は、木造の汚い長屋のような建物でしたが、10数年前に新築されてからは、すっかり観光客向けの近代的な市場に変身しました。

 昔の面影を残していたのは、道路を挟んだ向かい側の「駅前市場」でしたが、数年前に姿を消しました。



 『暴力批判論』(太田昌国著 太田出版 2007年刊) その2

 著者の現在の到達点は以下のようである。(要約した。)

 「民衆の対抗暴力」は、「国家の暴力」がある以上は当然のこと、とする段階に思考の水準を留めず、その先を展開したい。



 私の暴力のイメージは、拳、銃、刃物、爆弾・・と自分の肉体を使うものに限定したい。マスコミ、告訴・・など間接的なものは想定しない。
 私も、むやみな暴力の行使には反対であるが、圧倒的な力による抑圧に対しては、最後の、渾身の、一撃としての暴力行使は留保したい。

 生徒と教師、「信頼関係が構築されていれば体罰も肯定される」などという教師側(権力側)からのおごりある言葉には、最後の手段として、生徒が牢獄の看守のような教師を殴ることを留保したい。

 会社で、度重なる理不尽な上司(権力側)の命令に耐え切れなくなった時は、首を覚悟で横っ面を殴ればいい。

 被差別、非抑圧されて出口のない迷路に入り込んでいる存在の、権力に対する最終手段の行使を留保したい。



 著者の到達点にもどる。

①「敵の先制攻勢がある以上、これに武力で対抗することは不可避で、必然的だ。」に留まってはいけない。それは、「なぜ」「いかにして」「いつまで」という問いを封じ込め、「その選択は暴力の応酬の、無限の連鎖」であるから。

②著者の場合、解放軍、ゲリラ軍、人民軍など第3世界へのロマンティシズムを付与して捉える傾向が強かった。しかし、本来的には、軍の廃絶、兵士のいない社会、戦争のない社会を、未来から展望するという視点を手放さないことが重要。

 これらに到る著者の情況認識としては、ベトナム、中国における革命後の幹部の汚職・不正、ニカラグア革命後の疲れきった民衆の姿、ソ連崩壊後の諦念、この国の民衆の意欲の消失などに、追い詰められているためであろうか。

 かすかな希望は、著者が紹介している考古学者佐原真の、「人類がチンパンジーから分かれた600万年の人類史の中で、推定される最古の戦争は、1万4千年以降のことであり、ヒトの歴史を6mとすると、戦争の歴史は1センチ強にすぎず、「戦うことが人間の本性」とする戦争不可避論は誤り」という言葉だ。


 

 

 

コメント
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