チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

はなはだ迷惑、突然の「総選挙」

2014-11-30 08:11:53 | つぶやき
11月30日(日)

 なんでこんな時に? 突然の衆議院選挙。投票日が12月14日になって、ふだん地元を離れている者にとってはなんとも迷惑千万な話です。もう少し早くわかっていれば、それに合わせた予定が立てられたのに。

 ところで、11月初めに、小学校の35人学級を40人学級に戻したいという財務省の見解がニュースになりました。文科相は反対するそうですが、40人学級に戻せば、教職員の人件費が86億円ほど削減できるということでした。

 今回の総選挙、その10倍の800億円ほどかかるそうで、争点がはっきりしている必要不可欠な解散なら仕方ありませんが、「経済政策」と「消費税再引き上げ先送り」という誰も反対しないようなことを掲げてということでは、やはり不可解です。

 過去の「消費税導入」「消費税引き上げ」に関する総選挙では、ことごとく提案した政党が議席を減らしていますが、今回は「引き上げ見送り」を前面に出しての解散ということで、政府自民党としては、今しか勝てないというタイミングだったのでしょう
 やはり、「消費税」というのは、それだけ国民の暮らしに密着した問題ということなのです。現に、アベノミクスとかで表面上上向きかけた景気が、税率を5%から8%に引き上げたとたん、あっという間に減速してしまったのですから。
 そんなことを考えると、いくら財政再建のためにとは言っても、今後10%に引き上げるということは簡単なことではないのです。その前に「消費税」に頼らない財政削減の努力をしなければ国民は納得できないでしょう。

 とはいえ、「定数削減」や「議員歳費や手当て」の問題など、その検討がほとんど進まない現状を見ると、今の政治家に、増税以外の財政再建は望めないのかもしれません。お先真っ暗ですね。

 安倍首相は就任依頼「経済政策」を前面に打ち出していますが、最終的な目標は「憲法改正」らしく、どうも、「集団的自衛権容認」の問題も、「特定秘密保護法」の成立も、「原発再稼働」の問題も全てその一線上にあるようです。
 そういう重要な問題を「消費税再引き上げ先送り」という題目の陰にぼやかしながら安定多数を確立したいというやり方は、いかにも姑息な感じがしてなりません。
 おそらく、経済政策が容認されれば、沖縄県民の意向も無視した「辺野古基地建設」についても、国民から理解を得たという判断を打ち出してくるにちがいありません。

 まあ、一国民として心配なことはたくさんありますが、さすがに師走の突然の選挙となると、そのためにだけ明石から逗子に帰るのも馬鹿馬鹿しく、つい「今回はどうしようかな」という気分にもなってしまいます。
 でも、今までに国政選挙で棄権したことなんてありませんから、なんとかしなければなりません。

 ということで、逗子にいる時に市役所の選管へ出向き、こんな書類をもらって来ました。

 「不在者投票請求書(宣誓書)」です
   

 この書類を選管に提出しておけば、公示日以降に投票用紙が私の所に送られて来ます。それを一式持って明石市役所の選管に出向けば、不在者投票ができるのです。その後、投票用紙が明石の選管から逗子の選管に郵送されるのですが、それが開票前に届かなければ無効となってしまいます。したがって、明石での不在者(期日前)投票は早めに済ませておかなければなりません。

 実は、この書類、明石に戻る前に逗子市の選挙管理委員会へ提出しておきたかったのですが、うまくいきませんでした。解散したのが21日の金曜日の午後で、翌日から三連休になっていたのです。
 ところが、解散して公示日と投票日が確定しないと提出できないのです。私は、解散直後の三連休の最終日に明石に戻ったので、明石から郵送せざるを得ませんでした。

 考えてみれば、解散がもう一週間早かったら、明石に帰る日を二日遅らせれば、期日前投票ができたし、もう一週間遅かったら、投票日が21日になって、次に逗子に帰る予定の日でしたから、ちゃんと通常の投票ができたのです。

 ということで、私にとっては、なんともタイミングの悪い解散総選挙なのですが、一度くらい住民票のない所で有権者の権利を行使するのも、人生の経験としては貴重なことかもしれません。なかなか面倒な手順ですが、投票用紙の到着を待って、明石市の選挙管理委員会へ出向く予定です。


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不気味な孤立感を味わった明石での三日間

2014-11-28 15:11:19 | 身辺雑記
11月28日(金)

 24日の休日に逗子から明石に戻ったのですが、新大阪駅で新幹線から降りて数分後に、ポケットにスマホがないことに気がつきました。

 今は「こだま」のグリーン車が格安なので、時間を気にせずにゆったり乗っていたのですが、米原辺りから新大阪へ着く寸前までウトウトしていて、あわてて降りたことを思い出すと、誰だって、座席に置き忘れてきたと考えます。

 ふり返ると、もともと空いていた車内は、名古屋からさらにがら空きとなり、終点の新大阪では数人しか乗っていませんでした。たしか、私がいちばん最後に降りましたから、おそらく誰も気が付くはずはないし、幸いなことに、新大阪止まりの車両はそのままいったん待避線に回送されたはずなのです。

 「大丈夫、一度清掃があるだろうし、戻って来るはず」と、心に言いきかせて駅の遺失物取扱所に申し出たところ、「小一時間ほど間をおいてほしい」という指示。仕方なく、ふだんあまり歩くことのない駅周辺を散策していました。

 ところが、駅に戻ると、発見されたという報告がまったく届いていないのです。「どうして?」と不審に思いながら、新大阪駅に二時間半ほどいたのですが、結局、「今日は無理なようですから、警察に届を出しておくしかないでしょう」ということばを受け取って、寂しく帰途につきました。

 仮に再びその列車が運行したとしても、誰かが見つけてくれていれば、車掌に渡してくれるはずだし、保管先が名古屋駅であれ東京駅であれ、連絡が来るに違いないと思ってはみたものの、もしかしたら、そんなのはお人好しの甘い考えなのかもしれません。
 世の中には、携帯やスマホの端末を買い取るところもあるのかもしれないなどと考えているうちに、どんどん不安になってきて、明石駅で降りた後、すぐにドコモショップへ飛び込みました。

 とりあえず、遠隔操作で通信通話機能と保存データのロックをしてもらい、次に、GPSによる位置確認をしてもらいましたが、これは反応がありませんでした。さらに、紛失してからロックをかけるまでの数時間の利用状況を調べてもらったところ、利用履歴がなかったので、仮に、盗まれたり持ち去られたりしたとしても、悪用はされないだろうということで一安心。あとは連絡が入って、手元に戻って来ることを待つだけになりました。

 ところがどっこい、問題は山積みなのでした。

 私の部屋には固定電話がありません。携帯はなくなりました。これから数週間、明石でと思って帰って来たのに、紛失物発見の連絡先は逗子の自宅にするしかありません。そして、そのことを妻君に知らせなければなりません。ところが、自宅へ電話をかけると、あいにくの留守電。メッセージを入れたとしても、妻君は私に連絡する術がないのです。

 この時、私が覚えていた電話番号は自宅だけで、妻君の携帯番号もスマホの電話帳の中にあってわかりません。KAZU君の家の電話番号はもちろん、お父さんやお母さんの携帯の番号もわかりません。部屋に戻ればパソコンのメールは打てますが、携帯のアドレスは保存してないのでどうにもなりません。

 夜7時、ようやく自宅に電話が通じ、KAZU君の家の電話番号をメモすることができ、KAZU君のお父さんとも話ができました。

 その後、疲れ果てて部屋に帰りましたが、なにか落ち着かないのです。どこかへ連絡を取ろうとしても、周囲に公衆電話はなく、歩いて数分の駅まで行かなければなりません。そして、自分の所には、どこからも絶対に連絡が入らない状態なのです。なんとも言い難い妙な不安感。不気味な疎外感。一時的であるとはいえ、自分と関わりのある人との関係が完全に遮断されているという孤立感におそわれました。
 テレビをつけると、お馴染みの人がしゃべっています。でも、ふだん自分との関わりがある人ではありませんから、こういう状況だと、ただ耳障りな音声としか聞こえてこないのです。意味のわからない外国語を聞いているのと同じで、言うなれば、一人ニューヨークかなんかの街中に放り出され、ホテルの一室にたどり着いたかのような気分です。

 思えば、携帯電話なるものを手にしてから、まだ20年経っていません。いったい、それ以前はどんな感じで生きていたのでしょうか。ついこのあいだのような気もするのですが、仮にそのころの状態の中で明石に来ていたとしたら、そんじょそこらに公衆電話があったとしても、やっぱり固定電話機は不可欠だったのでしょうね。

 先端技術の新しい物がどんどんと現われて、便利さを求めてそういう物を次々と手にしていく現代人。年寄りだって負けてたまるかと、二年前からスマホと格闘して、ようやく手慣れてきた時に味わった欠落感。時代の流れに乗るというのは、一歩間違えればその波に溺れてしまうということなのかもしれません。スキを見せたらとんでもないことになるということを味わってしまった顛末です。

 やはり、一度手にした便利なものは、麻薬と同じで手離せないということです。大阪から明石へ向かう電車の中では、貴重な電話帳データーが入っている機器なので、しばらくは発見の連絡を待とうかと思っていましたが、異様な孤立感の中で一晩過ごした後、「これはだめだ」と、すぐに次の機種を手に入れるべく手配をし、昨日から、今までの電話番号とメールアドレスのままで復活することができました。

 そこで、昨日さっそく、「おさいふケイタイ機能」である「モバイルスイカ」を再設定したところ、残高がそのまま移行できました。ということは、意図があって持ち去られたのではないのかもしれません。
 もしそうだとすれば、
 見失ってから丸4日。まだどこかに埋もれているのか、さまよっているか、もしかしたら、大切なデーターが戻ってくるのかもしれないと、一縷の望みというか未練がましい気分を拭い去ることができません。なにしろ、新しいスマホには、まだ家族のデーター以外は全く入っていない状況なのですから。

 ・・・・・そこで、お願いがあります・・・・・

 このブログをご覧になった方で、今までに私と携帯で通話やメールを交わしたことのある方がいらっしゃいましたら、電話番号を記したメールをお送りいただけると幸いです。勝手な依頼で恐縮ですが、なにとぞよろしくお願い申し上げます。


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秋の残りを探して、熱海へ

2014-11-23 17:19:30 | お出かけ・散策
11月23日(日)

 通院日が20日だったので、先週末の14日から逗子にいます。

 何日か経ってしまうと、もう師走も目の前で、思わず、首をすくめたりしてしまいますが、朝、青空が広がっていると、この澄んだ空の下に、まだ秋の気配が残っているかもしれないと、つい出かけたくなります。

 18日の火曜日もいい天気でした。大山のケーブルにでも乗ってみようかと思ったのですが、車がないので、逗子から小田急沿線に出るのがちょっとかったるく、11月半ばから熱海の梅園で「もみじまつり」が開かれているという情報もあって、大船から東海道線で、そのまま熱海まで足を延ばしてみました。
 梅園は、伊東線に乗り換えて一駅、来宮駅が最寄り駅です。

 まずは、駅の裏すぐの
  来宮神社へお参り
  

 ご神木の大楠です。
  樹齢2000年以上とか
  

 来宮神社から梅園までは、新幹線の北側の坂道を10分ほど上って行きます。

 坂道の途中に「紫紺野牡丹」が
  鮮やかに咲いていました
  

 熱海の梅園は、たしか、KAZU君のお母さんがまだ小さい頃、日本ランドで雪遊びをしたことがあって、その帰りに寄った記憶がありますが、もしかしたら、それ以来かもしれません。だとすると、30数年ぶりということになります。

 昔とうって変わって、
  ずいぶんきれいに整備されている感じです
  

 カエデの紅葉。
  黄色もきれいです
  

 モミジはちょっと
  早かったのかもしれませんが、
  

 木によっては、
  すっかり色づいていたりします
  

 周囲の丘陵ともマッチして、
  なかなかの秋の風情です
  
   


   錦秋に湯けむりの香も溶け込みて   弁人


 奥の方に「韓国庭園」と銘打った一角があり、上の二枚目の写真は、その築地塀越しに撮ったものです。
 2000年に、森元首相と金大中元大統領の日韓首脳会談が熱海であって、その折に、この庭園ができたらしいのです。そんなこともあって、梅林全体がきれいに整備されたのかもしれません。
 わずか10数年前、日韓関係は今のように、ぎくしゃくはしていなかったのですね。

  その韓国庭園の脇のモミジは真紅に染まっていました
    

   


   行く秋や行く人の頬くれなゐに   弁人


 一月の半ばには梅がほころび始めるという温暖の地。案内によると「日本一遅い紅葉」と謳っていましたが、これからが見頃の所だって、他にもまだまだありそうで、「日本一遅い・・」というのは、少々宣伝文句気味の感じです。
 とにもかくにも、師走に入る前に、これだけ深まり行く秋の色を満喫できできれば文句ありません。


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逗子に帰ると、KANA君がお出ましに

2014-11-18 21:41:55 | KANA君と妹君
11月18日(火)

 先週の金曜日に逗子に帰りました。

 今年は暖冬傾向とか聞いていたのですが、明石では、11月に入って数日経った頃からやけに気温が低くなった感じがして、慌てて冬物を取り出して我が家へ向かいました。
 でも、そう感じるのは関西のほうで、もしかしたら、関東は少し暖かいのかもしれません。

 南側だからでしょうか、富士山の雪が
  思っていたより少ない
    


 そうなんだ、逗子の我が家は明石より過ごしやすいのかもと、のんびりとした気分でいると、玄関のチャイムが鳴って、

 KANA君が、
  「いない、いない、ばぁー!」
  

 8月半ば以来ですが、この時期の子どもの三カ月の成長ぶりというのは、まあ、びっくり、全く目を見張るほどです。

 最初から、
  屈託のない満面の笑顔
  

 7月に会った時も、8月に会った時も、慣れるのにちょっと時間が必要でしたが、今回は、最初から「じいじ、じいじ」と言いながら近寄って来てくれました。

 カメラに気がつくと、
  すかさず「ピース!」
  
 ピースポーズが親指と人指し指なのはご愛嬌ですが、いかにもカメラを意識したかのような、ためらいがちの作り笑いもいじらしい限り。

 とにかく、よくおしゃべりをするようになりました。やっぱり男の子なんですね、明石にいるKAZU君に負けず劣らずの電車好きで、「ドクタイエロー」「はやぶさ」「こまち」「マックス」の新幹線はもちろん、「山手線」「横須賀線」から、東武の「スペーシア」や南海の「ラピート」なんかまで、いろいろと教えてくれます。

 みんなで楽しく夕御飯を食べた後は、鉄道のビデオ画面を食い入るように見ていたのですが、そのうちに、

 風船遊びで
  大はしゃぎになりました。
  
    


   三度目の秋の実りや子の笑顔   弁人


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明石近郊の名刹「太山寺」の秋

2014-11-15 22:28:10 | 明石風物
11月15日(土)

 すぐ近くの所に秘境がありました。

 明石市の北に広がる神戸市西区。神戸市郊外の田園地域ですが、かつては播磨国の旧明石郡に入っていた所です。
 私の所から北へ車で数分走ると県立伊川谷高校があって、さらに1~2キロ先に、地下鉄西神線の伊川谷駅があります。そこから北東に向かうと阪神高速の前開インターがあり、時々利用しますが、そのインターのちょっと東にあるのが、播磨の国の名刹「太山寺(たいさんじ)」です。
 行政区画で言うと、神戸市西区伊川谷町前開。明石駅から伊川沿いを走るバスに乗って30分くらい、車だと20分ほどの所です。

 手前に「なでしこの湯」という
  ラジウム温泉があります
  

 今年は少し冬の訪れが早いのか、明石の朝の冷え込みもけっこうこたえるようになってきました。暦の上では立冬を迎えてから一週間、気がつけば冬支度の時期なのです。
 とはいえ、紅葉の盛りはこれからが本番です。今年はどこへ行こうかなと思っていたのですが、通院の関係で、昨日逗子に帰って来ました。
 でも、逗子に帰る前に、少しでも播磨の晩秋の空気を味わっておこうかという気分があって、買い物に出た折に「太山寺」を訪れてみました。

 1時間に一本のバス停があって、
  すぐその前に仁王門が
  

 石碑には「新西国(観音)二十五番(霊場)」とありますが、「明石西国第二十六番霊場」にもなっています。ということは、御本尊は観音様なのでしょう。

 いいお天気です。
  筆柿が落ちてきそう
  


   天高し渋柿もあるや光りけり   弁人


 石段を上がって
  中門をくぐります
  

  晩秋らしい佇まい
  
 右が国宝の本堂。十一面観音と薬師如来が鎮座しています。左正面は阿弥陀如来がいらっしゃる阿弥陀堂。

 三重塔も
  なかなか風情ある佇まいです
  
   

 三重塔の背後に小高い山並みがあって、その手前に伊川の上流の太山寺川が流れています。その川の向こうに奥の院があるということなので歩いて行くと、

 青空に映える山も
  すがすがしく 
  

 川は渓流になっていて、
  朱塗りの橋が見えました
  

 橋の上からの眺めは、
  まるで深山幽谷の気配
    

 ここは、明石の海から車で30分もかからない所です。でも、とてもそんな近くの世界とは思えません。こんな近くに秘境があったとは。
 だいたい明石の北の神戸市西区は、小高い丘陵はあるものの、全体的には平らな田園地帯という印象だったので少々目を丸くしました。

 余談ですが、この地域が、旧明石郡から神戸市に入った頃、明石も神戸市に編入という話があったそうです。天文科学館は「明石市立天文科学館」というのが正式名で、その名称が正面を飾っています。実は、天文科学館を建てる際、もし明石市が神戸市に編入される時があっても、明石は「市」であったという証を示すために「市立」という二文字にこだわったとかいう話を耳にしたことがあります。

 それはさておき、

 橋を渡ると、そこが奥の院で、
  まず稲荷社がありました
  


    錦繍の寺に秘かに奥の院   弁人


 稲荷社の隣の地蔵堂にお参りして、朱の橋に戻ったのですが、帰ってからパンフレットを見ると、地蔵堂の奥に摩崖仏があったということを知り、がっくり。
 まあ、近くなので、天気のいい日にまた出直すことにして、今回は、明石近郊の名刹で、思いもしなかった晩秋の空気を味わうことができたので良しとしておきましょう。


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人であふれる秋の京都で「鳥獣戯画」鑑賞

2014-11-10 15:50:28 | お出かけ・散策
11月10日(月)

 京都の国立博物館へは、去年の四月に一度行きましたが、その時は本館の北西に新しい展示館を建設中で、本館(明治古都館)で特別展を鑑賞しました。
 その建設中だった新館(平成知新館)は昨年完成したそうですが、一年ほどかけて中の空気を入れ換え、この秋にオープンしたという話題を耳にしました。

 今は出口として利用されている
  風格ある正門
  

 正門から本館に向かって左(北側)にできた
  平成知新館
  

 そのうち行ってみようかと思って調べたところ、オープン記念かどうか、現在、大阪の金剛寺が大修理中で、その本尊の大日如来が期間限定で展示されているとのこと、この機会を逃すまいと気が急いていました。

 ところが、この秋、
  本館ではこんな催しが
  

 修理修復を終えた国宝「鳥獣戯画」の展覧会です。これが大人気で、連日たいそうな人が押し寄せているのです。

 新館だけなら並ばなくても見られそうなのですが、人気の展示を素通りするのも間の抜けた話、それではと、先週6日の木曜日に早起きをして出かけました。

 情報によると、昼間は入館するのに1~2時間、さらに展示室の中で30~1時間並ばないとお目当ての「鳥獣戯画」の前には行けないとのことで、いちかばちか、9時半の開館の30分くらい前に行ってみようと京都へ向かいました。

 博物館へは、京都駅からバスで10分ほど。8時半にバスターミナルに着いてほどなくやって来たバスは、清水寺・八坂神社・平安神宮・銀閣寺方面に向かう路線なので超満員。修学旅行自由行動の中高生もたくさん乗っていて、三十三間堂の前でバスを降りるのも四苦八苦でした。

 8時50分。行列は東大路の
  智積院の前まで延びていました
  

 まもなく行列が前に進んだので、おそらく開館を早めたのでしょう。9時過ぎには本館前まで進みました。

 うしろも長蛇の列。
  開館前に来てよかったようです
  

 9時半過ぎに入館できました。最初に高山寺の展示があって、順路どおりに見ていきましたが、中の通路を知っていれば、後で戻れそうな感じでしたから、さっさとお目当てのほうへ行っておけばよかったのかもしれません。館内で再び30分ほど並んでやっと「鳥獣戯画」とご対面。


   芸術の秋に生き生き漫画の祖   弁人


 残念だったのは、案内やポスターには「一挙公開」とあるのに、これ、実は「看板に偽りあり」なのです。甲巻から丁巻まで全部展示されていましたが、この展覧会、どうも前期と後期に分かれているようで、この日はすでに後期に入っていて、各巻とも後半部分だけしか見られないのです。
 こんなに人が押し寄せているのに、立て続けに京都旅行など難しい遠方からの来館者も多いのに、一回で全部見られないというのはなんとも理解しがたい企画です。

 次、甲巻の前は一列になるので、待たされるのは仕方ありませんが、係員がマイクで、さっさと前に進めとさかんに促します。私は音声ガイドを耳にして、その説明にしたがって進んでいただけなのに、前の人と2メートルほど空いてしまい、気が付いた時にかなり後ろめたい思いをしました。しばしの間立ち止まってみとれていたのなら仕方ありませんが、ガイドに沿って進んでいるのに急かされるのも納得できませんでした。

 もう一つ、係員が指示を出すのは甲巻だけで、乙巻からは自由観覧になっているのです。つまり、一般の展示と同じで、列のうしろから眺めてもいいということなのです。たしかに、うしろにいると、ゆっくり見ている人の前が空いたりするので、絵の前に行くこともできます。でも、きちんと見たい人は前列に行きたいので、自然に長い列ができてしまいます。この自然の列というのがやっかいで、甲巻を見終わった一部の人が自由観覧を理由に列を無視して展示の隙間に入ってしまったりします。
 心配したとおり、観覧者の間でちょっとしたいさかいが生じました。係員が来て、列に並ぶよう指示が出ると、「自由観覧ではないのか」とさらにもめてしまい、とてもとても、国宝をゆっくり鑑賞する状況ではありませんでした。

 昔の話ですが、高校一年生の時、「ミロのビーナス」が上野の近代美術館にやって来ました。美術の先生が授業で「ぜひとも見ておくべきだ」と力説するので、土曜日の午後、友人と行ってみました。あの時もずいぶん並んで、やっと中に入ったら、立ち止まらないで進めという指示の中、前の人を押さんばかりにうしろの人に押されて、あっという間にほぼ一周して出口から出てしまいました。「これは平日に来るしかない」と言い合って、二人で何日か後に、学校に行かないでゆっくり見たことを思い出します。
 初めて、学校をサボって担任から叱られたのですが、私も友人も無言のまま下を向いて、担任の叱責はまったく馬耳東風の体で終えた思い出があります。

 芸術の秋。博物館自体は
  風格があります
  

 このあと、本来の目的の平成知新館に入りました。危惧していたとおり、ここも本館の観覧を終えた人の多くが入館しているので、ゆっくり見る状況ではありませんでした。
 展示室は1階から3階まで多彩で、この状態で全部見るのは無理かなと思いましたが、どうしても拝観したかった仏像のコーナーだけは素通りできません。

 さすがに、金剛寺の大日如来像は見応えがあり、しばし疲れを忘れさせてくれました。京都の西住寺の宝誌和尚立像もユニークでした。写真は載せられませんが、宝誌和尚の顔が左右にわずかに裂けて、その中に頭上面を頂いた観音像が彫られているというやや不気味ながら印象的な木像です。

 仏像を拝観しているうちに気分も落ち着いて、3階までひと通り観覧して外に出ると、昼食も済ませていないのに、もう14時を回っていました。

 博物館西の正門を出て北へ向かうと、秀吉ゆかりの豊国神社と方広寺がありまして、その前の小さなおそば屋さんでお昼を済ませると、もう15時になっていました。でも、この日は保育園の迎えを頼んでいたので、もう少し歩いてみることに。

 秀吉を祀る
  豊国神社
  

 神仏分離で分かれてしまいましたが、隣に大仏があった方広寺があります。博物館の平成知新館の入り口の池の中には、当時の方広寺の柱の礎石の位置を示すオブジェが置かれていますが、創建当時は、国立博物館の敷地を含めて、三十三間堂のほうまでの広さを誇っていたようです。

 神社の境内のすぐ北に、
  方広寺の大梵鐘が今も残っています
  

 これが豊臣家滅亡のきっかけとなった問題の梵鐘です。家康を冒涜したと言われた「国家安康」の銘文がどこかにあるはずなのですが、よくわかりませんでした。

 表通りに出ると、
  大仏殿の石垣が残っています
  

 夕暮れも間近、そろそろ帰ろうかと、七条大橋の東詰まで歩いてバスを待ちましたが、来るバスはみな満員で素通りしてしまいます。紅葉の見ごろには一歩手前とはいえ、秋の京都はほんとうに大変な人出なのでした。


   バス停もあふるる人の古都の秋   弁人


 京都駅まで1キロほどで、タクシーを拾うまでもないと、結局歩いてしまいました。


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JRの鉄道フェアも行かなくちゃね

2014-11-05 13:20:15 | KAZU君
11月5日(水)

 JR西日本の網干総合車両所の「ふれあいフェア」は、毎年11月3日の文化の日に行われます。

 ところで、文化の日はハッピィマンデーにはなりませんから、本当ならKAZU君の両親は、会社の都合があって休みにならないのです。でも、うまい具合に、3年前から、土曜日、日曜日、月曜日と、一日ずつずれて連休になったので、3年続けて、家族そろってお出かけのできる日となりました。

 ということで、KAZU君も数日前から、「月曜日はお休みやからな、網干の電車のお祭りに行こうな、おじいちゃん」と言っていました。

 一週間ほど前にも山陽電車のフェスティバルに行って、内容はだいたい同じようなものなのですが、誰だって興味あるものは何回行っても飽きないものです。特に子どもは、漫画にしてもテレビにしても、同じものを繰り返し楽しむのが面白いのですから。

 大人でも、同じ本を何度も読み返して、その度に感動を新たにするということがありますが、特に、純真な子どもはその傾向が強く、子どもたちがいっぱいの「ドラえもん」の映画館へ行ったりすると、何回も見ている子どもたちから「のび太、危ない!こんどは○○が来るからね!」というような声が一斉にあがったりするものです。かつての時代に、年寄りの語る昔話が連綿と受け継がれてきたのも、こういう純真な子どもらしい興味に支えられていたからなのでしょう。

 「さあ、網干行くで。姫路行きやから、
  姫路で乗り換えなあかんな」
  

  網干駅から送迎バスに乗ります
  

 網干の車両所は三年連続なので慣れたもの。工場の中を歩いて行くと、

 「あっ! おじいちゃん、
  ポイントやで」
  

 「321系ちゃうで、
  207系や」
  
 まあ、見た目は同じ普通電車なのですが、KAZU君は形式ナンバーで区別しないと許してくれません。

  車輪部分の移動作業
  

 途中から自動で動きます。
 「不思議やなぁ、乾電池入っとるのかな?」
  

 作業している方に質問すると、「線路の溝にツメがあって、それで動かしています」と、ちゃんと教えてくれました。

  以下、動画で




 さあ、いつもの
  車体洗浄体験の列車に乗って、
  

 次は、
  線路保守作業車の実演です
  
 この作業車、「マルタイ」(マルチプルタイタンパー)といいます。

 両サイドの鉄の足を
  線路の石(バラスト)に入れて
  
 振動でバラストを整えているもよう

 毎回、同じものを見ているわけではないので、こんなふうに、初めて見る実演作業に出会うのも楽しみの一つです。


    秋深し鉄道工場の文化祭   弁人


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南紀巡り-その3「和歌山の名湯」

2014-11-03 17:37:12 | 旅行
11月3日(休)

 交通の便を考えると、白浜と熊野三山を巡れば三日間は当然の感ですが、せっかくここまで来たからには、和歌山の名湯を訪れないわけにはいきません。

 若いころ、信州のスキー民宿で、小さいお風呂に冷えて疲れ切った身体を沈めている時の快感。
 やがて、「スキーへ行くなら温泉のスキー場でないと」という指向から、「雪がなくても、とにかく温泉」というふうに気持ちが変化して、いつの頃からか、すっかり温泉好きになってしまいました。

 有馬、道後、湯田、別府、雲仙・・・と西日本にもたくさんの有名な温泉がありますが、温泉通が好む秘湯とか一軒宿とかになると、東北、北関東、信越、飛騨・・・と、圧倒的に東日本が多いのです。
 そんな中、温泉に夢中になった30代の頃から、行ってみたいと思っていた西日本の温泉といえば、岡山の美作三湯(湯原・奥津・湯郷)と、和歌山の山あいにある川湯、湯の峰の二つの温泉でした。

 この二つの湯では、どちらかというと、小栗判官の伝説が残る湯の峰温泉のほうがテレビ番組などでよく紹介されて有名になっています。
 昔、地獄から現世に餓鬼阿弥の姿で送り返された小栗判官が元の姿に戻るために浸かったという「つぼ湯」が有名です。若い頃は、変わった温泉はなんでも興味津々だったので、湯の峰温泉にはぜひともと思っていましたが、歳を取ってからは、川の脇の小屋の中にある小さなつぼ湯には、わざわざ入るまでもないかと思うようになって、今回は、川湯温泉に宿をとりました。

 その川湯温泉。熊野本宮大社から車で数分、熊野川の支流の大塔川の畔にあります。木造の温泉宿もありますが、最近は、テーブル席の食事のほうが気楽と思うようになって、鉄筋の大きな旅館にしました。

 8階の部屋からの、
  大塔川沿いの温泉の眺め
  

 河原を掘ると露天風呂になるとかですが、
  下に見えるのは宿専用の風呂
  
 部屋から丸見えですが、腰にタオルを巻いてよしずの下に行けば問題なし。女性には風呂専用の浴衣があります。

 川の少し下流に、水量が少なくなる冬場、ブルドーザーで川を堰止めて巨大な露天風呂ができるそうです。「仙人風呂」と言って、その写真も見たことがありますが、今回は10月下旬ということで、時期が合いませんでした。
 川湯名物の風呂には入れませんでしたが、対岸の深い緑の森とゆるやかな川の流れを前にして浸かる湯は、まさに仙境に入ったかのような快感。温泉の魅力をたっぷりと味わうことができました。


    秋の香も溶けて熊野の河原の湯   弁人


 本当に気持ちの良い温泉だったので、朝食後もゆったりと湯に浸かって、チェックアウト時間までゆっくり過ごしました。
 あとは、宿を出て新宮駅へ戻ってレンタカーを返すだけという気分だったのですが、もう一つの湯の峰温泉もそんなに遠くはないので、温泉の雰囲気だけでも見ておきたいと、ちょっと回り道をして立ち寄ってみました。

 小栗判官ゆかりのお寺の脇に
  公衆浴場があります
  

 手前の川の少し上流に
  「つぼ湯」がありました
  

 河原には野菜もゆでられる湯槽。
  玉子がいくつか
  


    山あいの湯にひとひらの落ち葉かな  弁人


 ちょっと湯に浸かって、ゆで玉子でも頬張る余裕があればよかったのですが、時間がなく、温泉の雰囲気だけを味わって新宮駅へ向かいました。

 ということで、二泊三日の旅も、あとは帰途の列車に乗るだけとなりました。とはいえ、まだ南紀一周は終わっていません。もしかしたら、まだ半分なのかもしれません。これから乗る特急、名古屋まで4時間近くかかるのですから。

 新宮駅12時44分発
  「ワイドビュー南紀」
  

 紀勢本線の東半分は電化されていないのでディーゼル特急です。列車は、発車してまもなく熊野川を渡りますが、

 橋梁に入る所から
  架線がなくなりました
  

 列車は、尾鷲市の先、紀伊長島辺りまでの1時間余りは海沿いを進みますが、そのあとは山間部に入ります。さらに1時間ほどで、伊勢から来る参宮線と合流する多気駅に到着します。
 ここから北へ、松阪、津と大きな町を通って行くので、そろそろ電化区間になるのではと思っていましたが、松阪に来ても津に来ても架線はなく単線のままでした。隣にはJRとは対照的に、複線で頻繁に特急電車が走っている近鉄の線路が平行していて、紀伊半島の東岸、伊勢方面はどう見ても近鉄の独壇場という感じです。

 津駅を出ると、特急「南紀」は亀山へ向かう紀勢本線と別れて、鈴鹿を通って関西本線の河原田駅まで、第三セクターの伊勢鉄道の線路を通ります。この伊勢鉄道も電化されていませんが、途中から複線になっていました。

 複線化されているのに
  架線のない鉄路
  
 単線でも電化されている路線はいくらでもありそうですが、その逆はあまり記憶にありません。もしかしたら珍しいのではないでしょうか、どうでしょう。


    秋草の揺れて気動車すれ違ひ   弁人


 河原田から関西本線に入ると、さすがに名古屋までは電化されていましたが、四日市近辺を除いて、基本的には単線区間がほとんどなのです。この辺りは、今まで近鉄しか乗ったことがなかったので知らなかったのですが、名古屋という大都会の駅を発着する「本線」と呼ばれる路線なのに、すれ違い用の信号場があったりするのには、ちょっとびっくりしました。

 さて、南紀から紀伊半島の東半分を巡った特急「ワイドビュー南紀」は16時10分に名古屋駅に入線しました。

 ここで紀伊半島一周の旅が終わり、新幹線に乗り換えて西明石に戻りましたが、改めて新幹線の速いことに感心してしまいました。まったく、明石と逗子との往復の時に退屈してしまう時があったりするのですが、反省しなければなりません。


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南紀巡り(その2)-メインの「熊野三山」

2014-11-01 14:45:28 | 旅行
11月1日(土)

 時間があったら、難波から南海電車に乗って一度高野山へ行って、その次が「熊野詣で」かなと思っていましたが、順番が逆になったようで、初の和歌山紀行二日目は、いよいよメインの「熊野三山」です。

 白浜から熊野方面へ向かう最初の特急は、前日に新大阪から乗った「くろしお」で、紀伊勝浦や新宮に着くのがお昼近くになってしまいます。
 それではと覚悟を決めて、二日目の朝は宿での朝食をあきらめ、朝一番の白浜駅6時33分発の普通電車に乗り込みました。

 8時前に本州最南端の駅
  串本に着きました
  

 串本を出てまもなく、
  名勝「橋杭岩」
  

 新宮までは電化されている紀勢本線とはいえ、なにしろ単線の鈍行列車。串本からさらに一時間あまり電車に揺られて、終点の新宮には9時過ぎに着きました。

 レンタカーに乗って、まずは、新宮駅に近い
  熊野速玉大社を参拝
  

 次は、勝浦方面に戻って、熊野那智大社を目指します。気になるのは上空の薄暗い雲。

 小雨の中の
  「那智滝」
  

 ずいぶん階段を上りました。
  雨に煙る那智大社
  

 30分ほど雨宿りをしていると、雨が収まり、突然霧が晴れて、

 青岸渡寺の三重塔の先の
  那智滝も姿を現わしました
  


    秋霖に幽かに現はる那智の滝   弁人


 この後天気が回復、下りの参道沿いの景色の良い茶屋で遅めの昼食の滝見そばに舌鼓。新宮に戻り、熊野川沿いの国道を40分ほど北上すると、

  熊野本宮大社に到着
  

 那智大社ほどではありませんが、
  けっこう階段を上りました
  

 本殿は
  四社並んだ荘厳な佇まい
  

 造りは入母屋ですが、西の二つのお社は左右が切り妻に、東の二つのお社は正面が切り妻になっているのはなぜでしょう。

 それはともかく、これで熊野三社を全てお参りしたことになりますが、熊野本宮大社の入り口の鳥居から10分ほど歩いた熊野川の畔に、もう一つお参りするところがあります。

 十数年前に建てられた鳥居。
  大きさは日本一とか
  

 私の記憶では、奈良桜井の大神神社の大鳥居がいちばんと思っていましたが、たしかに、この鳥居のほうが大きいのかもしれません。中央上部に八咫烏が金色に輝き、なかなか壮観です。
 実は、その昔は、この鳥居の向こうの中州の森に熊野坐神社(熊野本宮大社の正式名)が鎮座していたのです。明治22年の大洪水で流出した中四社と下四社をこの地に残し、かろうじて流出を免れた上四社の社殿を今の北東の山に移築、遷座したのです。

 中四社と下四社の石祠が残る
  「大斎原(おおゆのはら)」
  

 ここは、熊野川に音無川と岩田川の二つの川が合流する中州の森です。熊野三山をはじめ、近年「パワースポット」ということばが流行っていますが、ここも熊野のパワースポットとして注目されているそうです。とはいっても、本宮大社とは比べものにならないほど人影がまばらで、たしかに静かで落ち着いた空気に満ちた森になっていました。


    十月の杜(もり)に潜むか八咫烏  弁人


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