6月21日(水)
紫陽花の季節。今年も
ずいぶん撮りました
歳時記の「紫陽花」を見ると、他に「七変化」とか「四葩(よひら)」とか「額の花」とかいう別名が載っていて、その歳時記を参考にしながら、前回の記事に、こんな駄句を載せましたが、
「田の里や耳にせせらぎ目に四葩」
紫陽花は花びら(実は花弁ではなく「顎片」)が4枚であるところから「よひら」と言い、「四片」を「四葩」と、格調のありそうな漢字を当てたのだと思います。
なるほど、ポピュラーな紫陽花は、花びら(顎片)が4枚です。
いわゆる「ホンアジサイ」
「ガクアジサイ」
この「ガクアジサイ」が日本古来の紫陽花で、上の「ホンアジサイ」は西洋で品種改良されて逆輸入されたものとかですが、それはともかく、この鮮やかな色合いから「和歌の世界でもけっこう歌われてきたのだろうな」と思いきや、万葉集にわずか二首載っているだけで、古今集以降の「八代集」には一首も入っていないそうです。
万葉集にある貴重な二首のうちの一つは、
「言問はむ木すら紫陽花
諸弟(もろと)らが練りのらんとにあざむかへけり」
という家持の相聞歌で、前後の歌を並べないと意味がよく読み取れないのですが、
大雑把に言えば、
(普段は物静かな私とはいえ、色の変わりやすい紫陽花ではありせんが、たとえ嘘でも「あなたが私に恋をしている」と言われたら、本気になってしまいますよ。いいですよね)
くらいの意味です。
やはり、紫陽花は「七変化」とも言われ、色が変化しやすく移り気というイメージが強くて、歌の世界では疎んじられていたのかもしれません。
他にはないのかなと調べると、平安後期に二首ありました。出典は異なりますが、藤原俊成とその子定家が一首ずつ詠んでいます。
「夏もなほ心は尽きぬ
あじさゐのよひらの露に月もすみけり」(俊成)
(夏だってしみじみとした趣を感じるものがある。紫陽花の花びらの上の水滴に月影が光っていたりして)
「あじさゐの下葉にすだく蛍をば
よひらの数の添ふかとぞ見る」(定家)
(夕暮れに紫陽花の葉の下に蛍が光り出すと、花びらの数が増えたかのように見える)
二首ともに「よひら」の語が入っていますが、歌の中心は「月」と「蛍」で、紫陽花は引き立て役に甘んじている感じです。
伝統的にマイナスのイメージの強かった紫陽花ということで、和歌の世界では、あまり好まれなかったようですが、近代に入って、新しい俳句が詠まれるようになると、そんなイメージも薄くなって、
ここでは「四葩」を季語とした俳句を挙げてみます。
「湯の滝の飛沫を浴びて四葩咲く」(今泉貞鳳)
「鍛冶の火を浴びて四葩の静かかな」(富安風生)
「老境や四葩を映す水の底」(三橋鷹女)
華やかな色合いとは裏腹に、心静まる風情があって、気分が落ち着きます。
まあ、紫陽花が「鮮やかで美しい」というイメージでとらえられるようになったのは、丸くて玉のような、より見映えのする「ホンアジサイ」が多くなったのも一因でしょうが、品種改良によって、さらに見応えのある園芸種がたくさん登場してきたことも要因なのかもしれません。
ふと目に留まって、「この紫陽花、上品で格別」と思ってよく見ると、花びらが4枚でなく八重咲だったりします。
八重「ガクアジサイ」
八重「ホンアジサイ」
こんな華やかな花がここかしこに咲いてくれると、梅雨の長雨時の鬱陶しさも、思わず吹き飛んでしまいます。
紫陽花が現代人に愛される花になっているのも頷けます。
ということで、紫陽花には一重の四葩と八重の園芸種があると認識して、それでは「カシワバアジサイ」はどうかなと、私のお気に入りの花を見に行くと、
八重でした
いつもの散歩道には、他にも二か所咲いているので行ってみると、やはり八重。
「そうか、もともとカシワバアジサイは八重なのかな」と思っていたら、そんなことはありまおんせん。
見つけました。
四葩の「カシワバアジサイ」
四葩.八重.本.額.柏それぞれに 弁人
ところで、「ガクアジサイ」の「ガク」、漢字では「額」で、小さな花の周りを四葩の「顎」が「額縁」のように囲っているからだそうです。したがって、「額の花」といえば「ガクアジサイ」のこととなります。
でも、丸い「ホンアジサイ」も花びらに見えるのは「顎」ですから、もし「顎の花」という言い方があるとすれば、それは「ガクアジサイ」だけでなく、紫陽花全般のことを指すことになりそうです。
かつて、明石の図書館で「アジサイの花に見えるところは花びらではなく顎である」ということを知って以来、「顎」という語が頭にこびりついて、「ガクアジサイ」は「顎紫陽花」で、自分は「額紫陽花」とは書きたくないと思ってきたのですが、この認識、違っていたようです。
思いつきからくる固定観念。注意しないといけません。
紫陽花の季節。今年も
ずいぶん撮りました
歳時記の「紫陽花」を見ると、他に「七変化」とか「四葩(よひら)」とか「額の花」とかいう別名が載っていて、その歳時記を参考にしながら、前回の記事に、こんな駄句を載せましたが、
「田の里や耳にせせらぎ目に四葩」
紫陽花は花びら(実は花弁ではなく「顎片」)が4枚であるところから「よひら」と言い、「四片」を「四葩」と、格調のありそうな漢字を当てたのだと思います。
なるほど、ポピュラーな紫陽花は、花びら(顎片)が4枚です。
いわゆる「ホンアジサイ」
「ガクアジサイ」
この「ガクアジサイ」が日本古来の紫陽花で、上の「ホンアジサイ」は西洋で品種改良されて逆輸入されたものとかですが、それはともかく、この鮮やかな色合いから「和歌の世界でもけっこう歌われてきたのだろうな」と思いきや、万葉集にわずか二首載っているだけで、古今集以降の「八代集」には一首も入っていないそうです。
万葉集にある貴重な二首のうちの一つは、
「言問はむ木すら紫陽花
諸弟(もろと)らが練りのらんとにあざむかへけり」
という家持の相聞歌で、前後の歌を並べないと意味がよく読み取れないのですが、
大雑把に言えば、
(普段は物静かな私とはいえ、色の変わりやすい紫陽花ではありせんが、たとえ嘘でも「あなたが私に恋をしている」と言われたら、本気になってしまいますよ。いいですよね)
くらいの意味です。
やはり、紫陽花は「七変化」とも言われ、色が変化しやすく移り気というイメージが強くて、歌の世界では疎んじられていたのかもしれません。
他にはないのかなと調べると、平安後期に二首ありました。出典は異なりますが、藤原俊成とその子定家が一首ずつ詠んでいます。
「夏もなほ心は尽きぬ
あじさゐのよひらの露に月もすみけり」(俊成)
(夏だってしみじみとした趣を感じるものがある。紫陽花の花びらの上の水滴に月影が光っていたりして)
「あじさゐの下葉にすだく蛍をば
よひらの数の添ふかとぞ見る」(定家)
(夕暮れに紫陽花の葉の下に蛍が光り出すと、花びらの数が増えたかのように見える)
二首ともに「よひら」の語が入っていますが、歌の中心は「月」と「蛍」で、紫陽花は引き立て役に甘んじている感じです。
伝統的にマイナスのイメージの強かった紫陽花ということで、和歌の世界では、あまり好まれなかったようですが、近代に入って、新しい俳句が詠まれるようになると、そんなイメージも薄くなって、
ここでは「四葩」を季語とした俳句を挙げてみます。
「湯の滝の飛沫を浴びて四葩咲く」(今泉貞鳳)
「鍛冶の火を浴びて四葩の静かかな」(富安風生)
「老境や四葩を映す水の底」(三橋鷹女)
華やかな色合いとは裏腹に、心静まる風情があって、気分が落ち着きます。
まあ、紫陽花が「鮮やかで美しい」というイメージでとらえられるようになったのは、丸くて玉のような、より見映えのする「ホンアジサイ」が多くなったのも一因でしょうが、品種改良によって、さらに見応えのある園芸種がたくさん登場してきたことも要因なのかもしれません。
ふと目に留まって、「この紫陽花、上品で格別」と思ってよく見ると、花びらが4枚でなく八重咲だったりします。
八重「ガクアジサイ」
八重「ホンアジサイ」
こんな華やかな花がここかしこに咲いてくれると、梅雨の長雨時の鬱陶しさも、思わず吹き飛んでしまいます。
紫陽花が現代人に愛される花になっているのも頷けます。
ということで、紫陽花には一重の四葩と八重の園芸種があると認識して、それでは「カシワバアジサイ」はどうかなと、私のお気に入りの花を見に行くと、
八重でした
いつもの散歩道には、他にも二か所咲いているので行ってみると、やはり八重。
「そうか、もともとカシワバアジサイは八重なのかな」と思っていたら、そんなことはありまおんせん。
見つけました。
四葩の「カシワバアジサイ」
四葩.八重.本.額.柏それぞれに 弁人
ところで、「ガクアジサイ」の「ガク」、漢字では「額」で、小さな花の周りを四葩の「顎」が「額縁」のように囲っているからだそうです。したがって、「額の花」といえば「ガクアジサイ」のこととなります。
でも、丸い「ホンアジサイ」も花びらに見えるのは「顎」ですから、もし「顎の花」という言い方があるとすれば、それは「ガクアジサイ」だけでなく、紫陽花全般のことを指すことになりそうです。
かつて、明石の図書館で「アジサイの花に見えるところは花びらではなく顎である」ということを知って以来、「顎」という語が頭にこびりついて、「ガクアジサイ」は「顎紫陽花」で、自分は「額紫陽花」とは書きたくないと思ってきたのですが、この認識、違っていたようです。
思いつきからくる固定観念。注意しないといけません。