5月30日(金)
「薩摩守忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、・・・」
高校一年生の時の「平家物語」の授業を思い出します。
「キセル(ただ乗り)」をする人のことを「サツマノカミ」と言うのだと、友だちが小声で得意気につぶやいていましたが、今や、「キセル」を使う人も少ないし、自動改札をICカードで通る時代、もうそんなことばは死語になったのでしょうね。
私は
「西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。憂き世に思ひ置くこと候はず」
という一節が妙に頭に残っています。
「沈め・さらせ」は命令形だが、命令の意味ではなく、「どうでもいい」という意味で、こういうのを「放任法」と言うんだという説明がとても印象的で、大人が、よく「うそつきなさい!」と叱るけれど、あれは、命令ではなく「勝手にしろ」という意味なんだとわかって、なるほどと納得したのを覚えています。
その「忠度の都落ち」。有名な話ですから今さらですが、
---死を覚悟して都落ちする忠度が藤原俊成のもとにとって返し、自分の和歌を託します。結果、俊成は千載和歌集に
「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」
という歌を入れたのです。しかし、平家が朝敵となった時代の勅撰和歌集であるがゆえ、「よみ人しらず」という扱いにせざるを得なかった---
という話です。
平忠盛の六男にして清盛の異母末弟の忠度。貴族の文化を色濃く引き継いでいた平氏の武将たちの中でも、ひときわ歌才に秀でた文武両道の風流人として、周囲から一目置かれる存在だったのです。
「平家物語」といえば、教科書には、必ず冒頭の「祇園精舎」があって、その後は「・・・の最期」がほとんどです。「木曽の・・・」「敦盛の・・・」「能登殿の・・・」とか。
どの段も、最期を迎える武将は、みな豪華絢爛。きらびやかな出で立ちと武具をまとい、勇猛果敢に見事に散っていきます。そして、最後はほとんど定番、涙々・・の物語となるのです。
若いころは、勇壮かつ絢爛なところに惹かれたのでしょうか、あるいは歴史ロマンに浸っていたのでしょうか、源平の物語には関心が強く、あの悲惨な俊寛と有王の話なども興味深く読んだものです。でも、大人になるとともに、悲しみにあふれた場面の多さに少々いたたまれなくなって、涙々の集大成のような「平家物語」の世界からは遠ざかっていました。
逗子で世帯を持って40年以上になりますが、田越川の脇にある「六代御前」の墓も、悲しい歴史の場所という思いが強く、いつも通り過ぎてきた感じがします。
それはさておき、源氏に追われる平氏は都を神戸の福原に遷し、清盛の死後、さらに西へ西へと落ちて行きましたので、当然、神戸から須磨や明石にかけては平家の史跡が多くあります。
そんなわけで、「平清盛」が大河ドラマだった一昨年は、明石でも何かにつけて平家の話題で盛り上がりましたが、個人的にはどうもブームに乗れず、ブログの話題にもせずにいたのです。
でも、明石で何気なく歩いている道の脇に「平忠度」の史跡がある。KAZU君がもう少し大きくなったら、「忠度って、どんな人やねん?」と聞いてくるかもしれません。そんな時、「キセルの人や」と冗談を言うだけにもいきませんし、写真のストックもありますので、今回は「忠度」の史跡を取り上げます。
KAZU君の保育園の最寄り駅は
山陽電車の「人丸前」です
大蔵谷駅と明石駅の間にある駅で、ホームの上に標準時子午線が引かれています。前後の駅間の距離がとても短くて、歩いてもたいしたことはありません。
写真左のガードをくぐって北に向かうと、すぐ先に天文科学館がありますが、平行して走っているJRのガード下に、
「両馬川旧跡」という石碑があります。
ここが平忠度の最期の地とされています。
「平家物語-忠度の最期」の段によると、一ノ谷から落ちのびて行く時、ここで、武蔵の住人岡部六弥太忠純に呼び止められ、「御方(味方)だ」と返答したものの、お歯黒をしていたために平家の公達と見破られ、最期の戦いとなります。
今は暗渠になっていますが、ここには、その昔、川が流れていたようで、その川を挟んでの戦いになったので「両馬川」と言うようになったとか。
戦いのもようを本文では
「薩摩の守は聞ゆる熊野育ちの大力、究竟の早業にておはしければ、六弥太を掴うで、・・・・捕つて引寄せ、馬の上にて二刀、落付く所で一刀、三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲へ突入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押へてくび掻かんとし給ふ処に、六弥太が童、おくればせに馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀を拔いて、薩摩の守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつと打落す」
とあり、岡部六弥太忠純の首を取らんとしたところで、あえなく家人の若者に右腕を切り落とされてしまうのでした。
もはやこれまでと観念した忠度は、六弥太を投げ飛ばしてから静かに念仏を唱えますが、その最中に首を落とされます。
この時、えびら(矢筒)に
「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵の主ならまし」
という和歌が結び付けられていたことから首の主が忠度と判明、六弥太は大音声を上げます。それを聞いて、
「あないとほし、武芸にも歌道にも勝れて、よき大將軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞ濡しける」
と、敵も味方も分け隔てなく彼の死を悼むという、ここでも結末は涙々なのであります。
姿なき不如帰の声両馬川 弁人
さて、切り落とされた忠度の右腕ですが、両馬川の旧跡から50メートルほど離れたところの神社にありました。
ちょっとグロテスク?
でも大丈夫
身体の痛いところをさすると、たちどころに痛みが消えるという魔法の腕になっているのです。
その名も腕塚神社。
右手塚神社とも
魔法の右腕は、
誰でも手に取ることができます
雷雲の下に祀らる飛びし腕 弁人
実は、神戸の長田にも、忠度の「腕塚」と「胴塚」と称しているものがあって、「どっちや?」ということになりかねませんが、ここは明石の話題ということで、お社に祀られている忠度のほうにお賽銭を入れておきましょう。
余談ですが、長田のほうは地蔵盆の時にお参りをするということで、地蔵信仰と結びついているようです。「身代わり地蔵」とか「縛られ地蔵」とか「斬られ地蔵」とか言われるお地蔵様は多いので、腕を斬り落とされた忠度が地蔵信仰と結びついたのかもしれません。これも余談ですが、お地蔵様の首がよく落とされたりして、「心ない人の仕業」と非難されたりしますが、あれは、身代わりになってくれるという信仰によるもので、その辺りのことは、首をセメントで付け直している人も心得ているのだと思います。
本題に戻ります。
腕塚神社から、南へ50メートルほどで国道2号線に出ます。そこに子午線郵便局があって、ここでも駐車スペースに東経135度の子午線が引かれています。
うしろは、
人丸山と天文科学館です
郵便局脇の「人丸前」の交差点から、子午線の道を両馬川旧跡とは反対側の南へ向かうと、
こういう案内があります
写真は南側から撮ったものですが、「左ただのり塚」とあります。西に折れてすぐの所に、
忠度のお墓があります
「忠度塚」もお参りの人が絶えないようで、いつ来ても、きれいに掃き清められて、献花が絶えることがありません。
行き暮れて昔ながらの墓所の花 弁人
「薩摩守忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、・・・」
高校一年生の時の「平家物語」の授業を思い出します。
「キセル(ただ乗り)」をする人のことを「サツマノカミ」と言うのだと、友だちが小声で得意気につぶやいていましたが、今や、「キセル」を使う人も少ないし、自動改札をICカードで通る時代、もうそんなことばは死語になったのでしょうね。
私は
「西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。憂き世に思ひ置くこと候はず」
という一節が妙に頭に残っています。
「沈め・さらせ」は命令形だが、命令の意味ではなく、「どうでもいい」という意味で、こういうのを「放任法」と言うんだという説明がとても印象的で、大人が、よく「うそつきなさい!」と叱るけれど、あれは、命令ではなく「勝手にしろ」という意味なんだとわかって、なるほどと納得したのを覚えています。
その「忠度の都落ち」。有名な話ですから今さらですが、
---死を覚悟して都落ちする忠度が藤原俊成のもとにとって返し、自分の和歌を託します。結果、俊成は千載和歌集に
「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」
という歌を入れたのです。しかし、平家が朝敵となった時代の勅撰和歌集であるがゆえ、「よみ人しらず」という扱いにせざるを得なかった---
という話です。
平忠盛の六男にして清盛の異母末弟の忠度。貴族の文化を色濃く引き継いでいた平氏の武将たちの中でも、ひときわ歌才に秀でた文武両道の風流人として、周囲から一目置かれる存在だったのです。
「平家物語」といえば、教科書には、必ず冒頭の「祇園精舎」があって、その後は「・・・の最期」がほとんどです。「木曽の・・・」「敦盛の・・・」「能登殿の・・・」とか。
どの段も、最期を迎える武将は、みな豪華絢爛。きらびやかな出で立ちと武具をまとい、勇猛果敢に見事に散っていきます。そして、最後はほとんど定番、涙々・・の物語となるのです。
若いころは、勇壮かつ絢爛なところに惹かれたのでしょうか、あるいは歴史ロマンに浸っていたのでしょうか、源平の物語には関心が強く、あの悲惨な俊寛と有王の話なども興味深く読んだものです。でも、大人になるとともに、悲しみにあふれた場面の多さに少々いたたまれなくなって、涙々の集大成のような「平家物語」の世界からは遠ざかっていました。
逗子で世帯を持って40年以上になりますが、田越川の脇にある「六代御前」の墓も、悲しい歴史の場所という思いが強く、いつも通り過ぎてきた感じがします。
それはさておき、源氏に追われる平氏は都を神戸の福原に遷し、清盛の死後、さらに西へ西へと落ちて行きましたので、当然、神戸から須磨や明石にかけては平家の史跡が多くあります。
そんなわけで、「平清盛」が大河ドラマだった一昨年は、明石でも何かにつけて平家の話題で盛り上がりましたが、個人的にはどうもブームに乗れず、ブログの話題にもせずにいたのです。
でも、明石で何気なく歩いている道の脇に「平忠度」の史跡がある。KAZU君がもう少し大きくなったら、「忠度って、どんな人やねん?」と聞いてくるかもしれません。そんな時、「キセルの人や」と冗談を言うだけにもいきませんし、写真のストックもありますので、今回は「忠度」の史跡を取り上げます。
KAZU君の保育園の最寄り駅は
山陽電車の「人丸前」です
大蔵谷駅と明石駅の間にある駅で、ホームの上に標準時子午線が引かれています。前後の駅間の距離がとても短くて、歩いてもたいしたことはありません。
写真左のガードをくぐって北に向かうと、すぐ先に天文科学館がありますが、平行して走っているJRのガード下に、
「両馬川旧跡」という石碑があります。
ここが平忠度の最期の地とされています。
「平家物語-忠度の最期」の段によると、一ノ谷から落ちのびて行く時、ここで、武蔵の住人岡部六弥太忠純に呼び止められ、「御方(味方)だ」と返答したものの、お歯黒をしていたために平家の公達と見破られ、最期の戦いとなります。
今は暗渠になっていますが、ここには、その昔、川が流れていたようで、その川を挟んでの戦いになったので「両馬川」と言うようになったとか。
戦いのもようを本文では
「薩摩の守は聞ゆる熊野育ちの大力、究竟の早業にておはしければ、六弥太を掴うで、・・・・捕つて引寄せ、馬の上にて二刀、落付く所で一刀、三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なれば通らず、一刀は内甲へ突入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけるを、取つて押へてくび掻かんとし給ふ処に、六弥太が童、おくればせに馳せ來て、急ぎ馬より飛んで下り、打刀を拔いて、薩摩の守の右のかひなを、ひぢのもとよりふつと打落す」
とあり、岡部六弥太忠純の首を取らんとしたところで、あえなく家人の若者に右腕を切り落とされてしまうのでした。
もはやこれまでと観念した忠度は、六弥太を投げ飛ばしてから静かに念仏を唱えますが、その最中に首を落とされます。
この時、えびら(矢筒)に
「行き暮れて木の下かげを宿とせば花や今宵の主ならまし」
という和歌が結び付けられていたことから首の主が忠度と判明、六弥太は大音声を上げます。それを聞いて、
「あないとほし、武芸にも歌道にも勝れて、よき大將軍にておはしつる人をとて、皆鎧の袖をぞ濡しける」
と、敵も味方も分け隔てなく彼の死を悼むという、ここでも結末は涙々なのであります。
姿なき不如帰の声両馬川 弁人
さて、切り落とされた忠度の右腕ですが、両馬川の旧跡から50メートルほど離れたところの神社にありました。
ちょっとグロテスク?
でも大丈夫
身体の痛いところをさすると、たちどころに痛みが消えるという魔法の腕になっているのです。
その名も腕塚神社。
右手塚神社とも
魔法の右腕は、
誰でも手に取ることができます
雷雲の下に祀らる飛びし腕 弁人
実は、神戸の長田にも、忠度の「腕塚」と「胴塚」と称しているものがあって、「どっちや?」ということになりかねませんが、ここは明石の話題ということで、お社に祀られている忠度のほうにお賽銭を入れておきましょう。
余談ですが、長田のほうは地蔵盆の時にお参りをするということで、地蔵信仰と結びついているようです。「身代わり地蔵」とか「縛られ地蔵」とか「斬られ地蔵」とか言われるお地蔵様は多いので、腕を斬り落とされた忠度が地蔵信仰と結びついたのかもしれません。これも余談ですが、お地蔵様の首がよく落とされたりして、「心ない人の仕業」と非難されたりしますが、あれは、身代わりになってくれるという信仰によるもので、その辺りのことは、首をセメントで付け直している人も心得ているのだと思います。
本題に戻ります。
腕塚神社から、南へ50メートルほどで国道2号線に出ます。そこに子午線郵便局があって、ここでも駐車スペースに東経135度の子午線が引かれています。
うしろは、
人丸山と天文科学館です
郵便局脇の「人丸前」の交差点から、子午線の道を両馬川旧跡とは反対側の南へ向かうと、
こういう案内があります
写真は南側から撮ったものですが、「左ただのり塚」とあります。西に折れてすぐの所に、
忠度のお墓があります
「忠度塚」もお参りの人が絶えないようで、いつ来ても、きれいに掃き清められて、献花が絶えることがありません。
行き暮れて昔ながらの墓所の花 弁人