チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

「字の練習」、試行錯誤のプロセス

2014-07-18 11:04:09 | ことば・あれこれ
7月18日(金)

 4月半ばの記事で、年長さんになったKAZU君、保育園でお習字の練習を始めたということを載せました。

 時々、保育園の壁に作品が貼ってあるのを目にして、感心したり苦笑したりしますが、KAZU君はいつも「うまいやろ」と言うので、「おうちに帰ったら、練習しような、もっともっと上手に書けるようになるで」と、向上心をくすぐったりします。

 クリスマスかお正月か、お友達からメッセージをもらって、「KAZU君もお手紙書きたい」と言ったのがきっかけでした。2月ごろから字を書く練習を始めて、数カ月が経ちます。

 先週、字の練習が終わると、KAZU君が私のカメラを手に取って、「カーくんの書いた字をな、写真に撮ってな、おばあちゃんに見せんとあかんからな」と、シャッターを切り出しました。部屋の中なので、うまく撮れずに私が撮り直したのも何枚かありますが、今回は、その写真を眺めながら、この間のプロセスを載せたいと思います。


 一年くらい前からでしょうか、リビングの壁に五十音図の表が貼ってあって、ずいぶん前から、ひらがなもカタカナも読めるようにはなっていました。ところが、実際、紙に書くとなると、なかなか簡単にはいきません。

 大人は誰だって、小学一年生になったのは、ずいぶん昔のことですから、その記憶が鮮明ということは珍しいでしょう。でも、国語の教科書の最初はひらがなだったということは覚えているかもしれません。「さくら、さくら・・・」とか、「はなが・・・」とか。私の場合は「はと、はと・・・」でした。

 したがって、当然、まずひらがなが書けるようにと思いますが、これが実は難しい。とにかく曲線ばかりですから。
 だいたい、最初の「あ」からして実にややこしい筆運びで、ここでつまずいていると、いっぺんに勉強嫌いになりそうです。

 そこで考えたのは、まず曲線の書き方から始めようということでした。

 文字を書く前に、画用紙に○と△や□の図形でお絵描きをして、次に波線という具合です。
 そして、いよいよなのですが、やはり、「あ」はまだ難しいので、始めは曲線の多い数字を書くことにしました。もちろん、すぐに書けるはずはありませんから、薄い鉛筆で書いた点線をなぞるわけですが、

 「100」までは勘定できるので、
  行けるところまで
  

 「10」以降は、同じ数字を10回連続(1の位を含めると11回)書くことになるので、「0」から「9」を繰り返すよりいいかもしれません。

 さて、数字の練習をしていると、KAZU君が「明日は英語やで」と言い出しました。「まだ早いよ」と言うと、「だってな、カーくんな、Nって書けるんやで。ほら、N700(系)や。だからほかの英語も書けるようにならなあかんやろ」と、もっともらしいことを言うのです。
 こういう取り組みは、子どもに興味がなければ続きません。まあ、アルファベットにも曲線があるからいいかも、それじゃあ、「ABCの歌」を覚えさせてからと思って歌い出すと、「歌の練習やないで、字を書かな」と相手にしてくれません。大人の考える順番なんか子どもには通用しないのでした。

 本人の仰せのとおり、
  小文字まで
  
 鉄道の本か何かで見たのでしょうか、なぜか小文字の「e」を知っていて,「こういう字もあるのに、なんでや」と言うのです。それに、昔、私が小学生になった頃、なぜかローマ字を知っていたことを思い出し、それじゃあと、小文字も書かせてみました。

 さあ、いよいよ
  カナ文字です
  

 壁に貼ってある五十音表は、カタカナも一緒になっているので、両方いっぺんに書くことにしたのですが、迷ったのはノートの書き方。日本のカナは縦書きを基本としてできた文字なのですが、数字も英語も横書きで練習してきました。それに、鉛筆を右手に持つと、左から書く方がスムーズなのです。この辺も日本語の書き方の難しいところです。

 KAZU君の知っている
  駅の名前を書いてみました
  

 駅名となると、少しは漢字も頭の中にあるようで、ある日「今日は漢字を書こうな」と言い出しました。
 大人は一段階ずつきちんとなどと考えますが、子どもの欲求というのは、とにかくどんどん飛躍して行きます。

  うまく書けるはずはないのですが
  

 「漢字は難しいやろ、やっぱり、ひらがなをちゃんと書けるようになってからやな」と、その次の時(写真左)に「あいうえお」に戻りましたが、こういう単純作業はおもしろくないのです。「字書くの、しんどくなった。もうイヤや」と言い出してしまいました。

 やはり、ひらがなを単調に書いていくのは勉強嫌いを助長するだけなのでした。しばらく練習を止めていると、ある時、画用紙を広げて、「ベンガルトラとアムールトラとスマトラトラと・・・・・」と、図鑑を見て覚えた虎の名前を書いて得意気に見せてくれました。
 「そうだよな、やっぱりカタカナだよ」

 どうして気づかなかったのでしょうか。「まず、ひらがな」という現代人の固定観念にとらわれてしまっていました。誰が考えたって、ひらがなより単純で曲線が少ないカタカナのほうが書きやすいのですから。

 私もいちおう戦後生まれなので、一年生の教科書、ひらがなから始まったと記しましたが、実は、戦前の教科書を見ると、カタカナが最初だったのです。昔の法令なんかもひらがなは使われていません。一般に広く読まれる新聞や文学作品はひらがなで書かれていますが、もともと、ひらがなは女性の文字という文化伝統が根強くあって、公文書などは漢字とカタカナにこだわっていたのです。
 長い間、太平洋戦争が終わるまで存在していたカタカナ表記、軍国主義の時代と重なるのでしょうか、「赤紙」と言われる召集令状なんかも、当然、漢字とカタカナだったはずで、おそらく、戦後の新しい社会の中では、忌ま忌ましくいかめしい感じが拭えなかったのでしょう、教科書も法令も漢字とひらがな表記に変わったのです。

 結果、今は、初心者にはやっかいな「ひらがな」が優先になって、子どもたちを手こずらせているのかもしれません。
 外来語の氾濫する現代社会、戦争を知る世代も少なくなりつつあります。カタカナに対する意識も変わっています。古い時代に戻るということではなくて、字を書く練習はカタカナから入るのがいいのではと思います。

 ところで、最近のKAZU君、5月の連休の頃も、そんな様子は全く見せなかったのですが、二ヶ月ほど前から、急にウルトラマンに夢中になりました。
 絵本を見ると、いろいろなウルトラマンがいることにびっくりしますが、KAZU君は全部覚えているのです。

 そこで最近は、
  その名前を書く練習です
  

 全部カタカナなので書きやすい。書いているうちに、「リ」と「ソ」と「ン」、「シ」と「ツ」が紛らわしいことにも気がつき始め、これから、練習嫌いにならないよう、いかに書き分けられるようになるかが課題ですが、今のところは、なにしろ大好きなウルトラマンです。

 名前が書けるようになるんですから、
  気合も入ります
  


   覚束なき鉛筆の先夏の夕   弁人


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「暑いのは好きくない」と言う人もおり

2011-07-15 11:31:42 | ことば・あれこれ
7月15日(金)

 KAZU君も大きくなって、よくおしゃべりするようになりました。それにしても、子どもの成長はすさまじく、お話をすることばの数がどんどんと増えて行きます。

 ことばの数が増えると、自己主張が強くなって手こずることもある半面、ことばで言い聞かせられる場面も多くなります。


 ところで、KAZU君がどのようにことばを身に付けて行くのかということに興味を持って接していると、「なーるほど」と思ってしまうことがよくあります。

 赤ちゃんが最初に覚える単語はもちろん名詞です。「ママ・パパ」「マンマ」「バイバイ」・・・
 2年くらい前の記事で書いたような記憶がありますが、単語になる前はほとんど母音のみの発声。単語になっても初めは上の名詞のように、子音は両唇音系の「ハ行」「マ行」「バ行」「パ行」で、母音は「ア段音」が主の発音でした。。
 とにかく「カ行」「サ行」「タ行」「ラ行」などの子音の発音を習得するのはとても難しいのです。したがって、「パイパイ」が「ミルク」になるにはかなり時間が必要でした。KAZU君は「パパ・ママ」を「おとうさん・おかあさん」と教えられていたので、それよりも先に「ハンシンデンシャ」と言ったのにはびっくりしましたが、その発音は、実は「ハンチンジェンチャ」くらいだったのです。

 さて、物の名前が言えるようになると、次は「それがどうした」とか「どうなんだ」と伝えたくなります。
 私は、KAZU君が次に覚えることばは「来た」とか「見た」とかの動詞だろうと思っていたところ、その予測は見事に外れました。

 「お茶、あっちい」「おいしい」「からい」「まずい」「ほしい」等々、ほとんどが形容詞だったのです。中学生の時に「形容詞ってやつは活用が覚えにくくて訳わからん」と文法が嫌いになったことがありました。文語文法の「○・く・し・き・けれ・○」に出会って、少しわかったような気になりましたが、実は形容詞というのは大事な品詞だったのです。幼児が名詞の次に身に付けることばだったのですから。

 もちろん、「ジュース、飲みたい」とか「お父さん、帰って来ないねぇ」とか「電車行っちゃった」とか、動詞を使った表現もだんだん言えるようになるのですが、動詞の場合は、単独で用いられることはまずなく、上の例のように、希望や打消や過去や完了の助動詞が付いてきます。助動詞などと言うと、またやっかいな品詞の登場ということになってしまいますが、おそらくそんな事情もあって、単独で使える形容詞が先に出て来るのかもしれません。

 そんなことを考えたりしながらKAZU君とお話していると、次々と新しい発見にめぐり合います。
 その例が何回か前の記事の中にあった会話。
 「カーくん、危ないよ、走っちゃダメよ」
 「ダメくないの!」

 「ダメ」の反対は「イイ」くらいでしょうか。そもそも子どもとやり取りをしていると、まあ、注意、催促、制止の場面のいかに多いことか。そして、そのかなりの場面で大人の気持ちと子供の意識や欲求が対立するので、どうしても反対の表現が必要になるのです。

 そこで、反対の概念のことばとなるのですが、例えば、形容詞なら、「からい」-「あまい」、「おいしい」-「まずい」、「さむい」-「あつい」。動詞でも、「行く」-「帰る・来る」、「立つ」-「座る」、「乗る」-「降りる」というように、ことばにはそれぞれ対立する意味のことばが存在します。
 ところが、実際の日常会話では、逆の気持ちを表す場合にいちいち反対語を持ち出すことは滅多になく、下に「ない」を付けて済ませてしまうことがほとんどです。「からい?」「からくない」とか、「こわい?」「こわくない」とかいうように。動詞の「行く」だって「降りる」だって、いやな時は「行かない」「降りない」と言うのが自然です。それに適当な反対語がなく「ない」を付けざるを得ない時もあります。「食べる」の反対?「する」の反対?となると、「食べない」「しない」ぐらいしか浮かんで来ません。

 ここで、動詞に付く「ない」が助動詞で、形容詞に付く「ない」は形容詞で・・・などと解説しても始まりませんが、とにかく動詞でも形容詞でも「ない」を続けると簡単に反対の概念になるので頻繁に使われることになるのです。「ない」は、動詞には未然形に、形容詞には連用形に続きます。形容詞の場合、連用形は全て「・・(し)く」となるので、反対の概念は「・・・くない」という言い方になります。
 さらに、動詞の表現に出て来た「見たい」「行きたい」「乗りたい」の「たい」も活用は形容詞型なので、逆の気持ちを伝える時は「見たくない」「帰りたくない」のように、同じ「・・・くない」という言い方になってこれも多用されます。

 このように、子どもにとっても、「・・・くない」という表現はとても便利で、使う頻度も自然に多くなります。そうすると「それはちがうよ」と言われた時に、思わず「ちがくないよ」と言ったりしてしまうのです。「違う」は動詞なので「・・・くない」とはならないのです。
 最初の「ダメくない」の「ダメ」は形容動詞の語幹なので、名詞に「ない」を付けるのと同様に「ダメじゃない」と言うのが正しく、例えば「好き」を否定する時に、「好かない」「好きじゃない」と言わずに、この記事のタイトルのごとく「好きくない」と言ったりするのと同じなのです。

 「だから文法なんて大嫌いだ」と思ってしまうか、「ことばの仕組みも少しは知っておいたほうがいいかもしれない」と感じるかどうかは脇に置いといて、そんなことには無関係の子どもにとっても、日本語にはややっこしいところがいっぱいあるので大変です。

 KAZU君と遊んでいて、「あと一回でおしまいだよ」と言うと、今のところ「おしまい、しない」と言いますが、そのうち「おしまくないの!」と言ったりするのではないかと内心期待をしちゃったりする、ちょっと意地悪なおじいちゃんのお話でした。


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数字の読み方

2011-05-21 11:56:02 | ことば・あれこれ
5月21日(土)

 先日京都へ行った時のことです。北野白梅町から西大路通りを下がるバスに乗りました。「次は七条(シチジョウ)通りだな」と思っていると、下の動画のように車内案内放送が流れました。「七条(ななジョウ)」??

  

  バスを降りて、バス停を見ると
  

  堀川通りを過ぎたところで振り返ると
  
 道路の看板は「西大路七条(シチジョウ)」になっています。このほうが正しいと思うのですが。

  京都駅から北へちょっと歩いたところの「烏丸七条」では
  
 東本願寺のすぐ手前です。信号には「烏丸七条(シチジョウ」と表示されていますが。

  ここでもバス停は「烏丸七条(ななジョウ)」と
  


 「4」と「7」の読み方では、こういうことがよくあります。

 例えば、テイクアウト専門のお寿司屋さんに「三条、四条、五条・・・」というメニューがあって、「四条(シジョウ)一つお願いします」と言うと、「はーい、四条(よんジョウ)ですね。少々お待ち下さい」という声が返って来たりします。京都で「四条」を「よんじょう」という人は誰もいないでしょう。

 日本語で漢字を読む時には「音読み」と「訓読み」の二通りがあるので当たり前のことですが、数字の読み方も二通りになります。
〔音〕 イチ ・ ニ  ・ サン ・ シ ・  ゴ  ・
    ロク ・ シチ ・ ハチ ・ ク ・  ジュウ
〔訓〕ひ(とつ)ふ(たつ)み(っつ)よ(っつ)いつ(つ)
   む(っつ)なな(つ)や(っつ)ここ(のつ)とお

 日本人は無意識のうちに二通りの読み方を使い分けているのですが、どうも「4」と「7」の「音読み」を嫌う傾向があります。
 「マンションの4(よん)階、7(なな)階」・「45(よんジュウゴ)才、72(ななジュウニ)才」等々。

 説得力があるとは思えないのですが、一説に、「シ」音が「死」を連想させるので、いわゆる「忌み詞」として「シ」と「シチ」が避けられたという見解を目にしたことがあります。
 でも、「四月」「弦楽四重奏」「七分袖」「七面鳥」などを「よん・なな」と訓読する人はいません。一方で、「四死球」などと「シ音」に全くこだわっていないかのような野球の世界でも「四回表(よんカイおもて)」と訓読したりします。

 二つの数字のこのような読み方について、私は、どうも数学の世界での言い方が強く影響しているのではないかと思って来ました。例えば「4x+3y」の「4(よん)」、「7の3乗」の「7(なな)」。
 数学の世界では、「3+5(サンたすゴ)」のように、数字は音読みが原則ですが、「4」と「7」だけは訓で読みます。誰でも小学校の時から「4+7=(よんたすななは?)」と言われて勉強しているので、漢字を読む時にこの二つの数字が出てくると混乱してしまうのも無理はありません。
 そういえば、昔、数学の教師に「あんた方の言い方がおかしいから国語の教師が困るのだ」と冗談を言ったことがありました。

 それはともかく、若い人が、壺井栄の小説を「二十四(ニジュウよん)の瞳」と言ったり、赤穂浪士が「四十七(よんジュウなな)士」になったりした時に、ある意味では仕方ないのかなという思いがよぎってしまうのです。

 なぜ数学の世界で「忌み詞」のように「シ」や「シチ」と言わないのかということは、頭のどこかに引っかかって来たのですが、特にこれだという答えを持たないままになっていました。
 ところが、先日「七条通り」の読み方について、京都のバス会社に問い合わせたところ、妙に説得力のある回答が返って来たのです。

 「『一条(イチジョウ)』と『七条(シチジョウ)』・『四条(シジョウ)』と『七条(シチジョウ)』は発音が似ているので、お客様がお間違えにならないよう、当社では『シチジョウ』と言わずに『ななジョウ』と御案内しています」

 本音は「『シチ』だって『なな』だっていいじゃないか、なんでそんなことにこだわるのか」というところかもしれません。でも私は、それなりの理由があるにしても、由緒ある固有名詞の地名をわざわざ誤読するのはやめてほしいと思った次第です。

 ところが、バス会社の「誤解しやすい発音」という理由を、合理性を重視する数学の世界に当てはめてみると、「4」と「7」の読み方に「なーるほど、そんなところから来ているのかもしれない」と、つい納得してしまったのです。

 しかし、やっぱり音訓の区別を踏まえておかないと困る場合もあるのです。実は、KAZU君に数字を教えているのですが、幼児には「音訓」なんて分かりませんから時々混乱します。「7」を「なな」という時と「シチ」という時があるからです。

 KAZU君の数字の絵本。

  「1」は「いちご」が「イッコ」
  

  「2」は「にわとり」が「ニワ」
  
 以下、「さんま」「ゴリラ」「ろうそく」・・・などが登場してくるのですが。

  「4」は「しか」が「シトウ」とはなりません
  

  「7(シチ)」では「なす」が「ななこ」となってしまいます
  

 やはり「7」は「シチ」ではなく「なな」と読んであげないと訳が分からなくなってしまいそうです。でも、そうすると「もうすぐ『七五三』だね」という時に、もし漢字が出てきたら戸惑わないかなと心配です。

 小学生になると掛け算九九を覚えますが、九九は全部「音読み」です。「シシチニジュウハチ」という具合です。つまり、「シ」・「シチ」は「よん」・「なな」のことと気づくまではいくら覚えても役に立たないのです。そんなことは、たぶん自然にわかっていくのでしょうが、頭ごなしに覚えさせられるほうも大変で、九九の暗記から逃げ腰になって、算数嫌いになる子どもの気持ちもわかるような気がします。

 たしかに、自分の意思で勉学に取り組むようになるまでは、いろいろな言い方を機械的に覚えさせるしかないのでしょうが、段階的にそういう教え方も仕方ないとはいえ、ちょっぴり寂しい感じもします。

 そう、KAZU君の誕生日は7月4日です。「シチガツよっか」と言える日も遠くないはずなのですが、子どもはそういうふうに教えておけば、それで済んでしまうのでしょうか。


    三才になる七月が近づけり   弁人



 京都の話に戻ります。下京区の、京都駅から西のほうに「西七条○○町」という地名がいくつもあります。絶対に「ニシシチジョウ・・・」と言ってほしいのに、実際に地元の人に聞いてみると、「ニシななジョウ」と思っている人がけっこう多いのです。バス会社の利用者への配慮が染み込んでしまったのでしょうか、やはり納得できません。


 【補足】
 紛らわしい発音から生じる混乱を避けるということも、状況によってはやはり必要なようで、意図的に「七月」を「ななガツ」と言ったり、「27日」を「ニジュウななにち」と言ったりもします。
 小学生の頃、そろばんを習いましたが、「足すことのォー、『ふたジュウなな円』ではーッ」とかいう声が今でも耳に残っています。「読み上げ算」ということで、聞き間違いのない発音が大事だったのでしょうか。


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梅雨の時期に「水無月」とは?

2010-06-27 18:40:53 | ことば・あれこれ
6月27日(日)

 六月、いわゆる「水無月」もあとわずか。梅雨空の下、今日も一日中湿っぽい南風が吹き続けていました。

 ところで、今月の初めのテレビ番組の中でのやりとりです。

 「今日から水無月ですが、雨の多い六月なのになぜ「水無月」なのかと言うと、実はいくつか説があります。一つは、旧暦の水無月は今で言うと7月の中旬以降、つまり梅雨明けの季節を指しているという説。しかし有力なのは、「みなづき」の「な」は連体修飾の助詞「の」と同じで、「水の月」という意味であるという説です」
 「文法は難しいので、どなたか「連体修飾」という用語についてわかりやすく解説していただけませんか?・・・・どうも全員降参のようですね」

 私は上の二つの説のうちの後者のほうが正しいと思っています。となると、やはり文法的な説明が必要なのでしょうか。
 そこで、簡単に。

 「助詞」というのは単独では意味をなさず、意味を有する語(自立語)に付いて初めて機能を発揮します。「の」とか「が」とか「に」とか「を」とかをそれだけで発しても何を言っているのかわかりません。
 「の」の場合で言うと、体言(名詞)と体言の間で接着剤のように働きます。「学校の階段(怪談)」とか「私の家」とかいうように。
 例えば「ボール」と言ってもいろいろありますが、上に「ゴルフの」とか「サッカーの」と言えばイメージがはっきりします。つまり「ゴルフ」ということばの下に「の」が付くと、二語が一体となって次に来る体言の属性を説明する、これを「修飾」と言いますが、そういう働きを持つようになります。
 正式に言うと、「あることばに付いて、次に続く(連なる)体言を修飾する資格を作る」ということになります。略して「連体修飾格」の用法と言うのです。

 さて、今日の本題です。
 どうも、その昔「な」ということばには、上記の「の」と同じ働きがあったようなのです。

 山上憶良の「子等を思ふ歌」に、
 「・・・ いづくより 来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠
  (やすい)しなさぬ」
とあります。
 「子どもというのはいったいどこからやってきた賜わり物なのだろうか。そのかわいい顔がまぶたのあたりに焼きついて、ぐっすりと寝ることもできない」
という意味です。

 かつて「目」は「ま」と言っていました。「まぶた」「まつげ」「まばたく」「まのあたりにする」と言うように。上の歌の「まなかひ」は「目の交わるあたり」という意味で、「な」は「の」と同じ意味であることがわかります。「まなじりをつり上げる」の「まなじり」も「目の尻」という意味です。

 ことばというのは、初めに発音があって、表記は後からというのが普通です。子どもだって、ことばを習得するのに初めは文字からということはあり得ません。したがって、「水の月」を「みなづき」と発音し、表記する時に「無し」の「無」の字を当てたということは十分に考えられます。

 阪急電車の高槻の先、山崎の手前にこういう名前の駅があります。
  

 ここはかつて後鳥羽上皇の離宮があった所で、伊勢物語にも、惟喬親王が可愛がっていた在原業平らしき右馬頭と一緒に水無瀬の離宮にお出かけになったという話があります。
 一行が離宮へお出ましになって、淀川の対岸で狩りをした時に右馬頭が詠んだ「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という歌が有名です。

 駅から10分ほど歩くと、離宮の跡に鎮座したという水無瀬神宮があります。
  

  名水百選「離宮の水」
   

 「瀬」というのは川の流れの早い所を指します。はたして「水の無い瀬」というのが存在するでしょうか。

  水無瀬神宮の脇を流れる川
  

  一級河川です。「水の無い瀬の川」でないことは明白
  

  振り返ると、新幹線と阪急電車の線路が川を跨いでいました
  


 そういえば、鎌倉の稲村ヶ崎の先に同じような名称の川と橋がありました。
 
 音無川にかかる音無橋
 
   
    

 海岸なので、海水が逆流することもあるでしょうが、とても「流れる音が聞こえない川」とは思えません。旅に出ると、よく「音無の滝」という名の滝に出会いますが、水はちゃんと音をたてて流れ落ちています。


 大和には「神奈備の山」と言われる山がいくつかあって、万葉集にもよく歌われています。意味はもちろん「神様の宿っている山」となります。

 「神奈川」という県名も「神の川」という意味でしょう。横浜駅の隣に京浜急行の「神奈川」という駅があります。その東に神奈川宿がありますが、そのそばを流れている「滝の川」という川が昔「神の川」だったのかもしれません。
 埼玉に「神流川」という川があって「かんながわ」と読みます。また富山には「神通川」があり、これは「じんつうがわ」と音読みしますが、おそらく、みな「神な(の)川」で、「な」を漢字表記する際にそれぞれの漢字が当てられたのだと思います。

 したがって、「水無月」は「水の月」ということになりそうですが、別に梅雨時だからというわけではなさそうです。月の異名の中には、稲作と関係している呼称がいくつかあるようなのです。五月の「皐月」は苗代に早苗が出揃う頃と考えると、「水無月」は田に水を張って田植えをする時期ということなのかもしれません。さらに八月の「葉月」は稲の穂が黄金色になる前の青々とした葉が輝く時期と考えられないでしょうか。

  水無瀬川付近の水無月の水田
  


    水無月や小川の脇の田水満ち   弁人


 さらに十月の「神無月」という呼称ですが、よくテレビなどで「神様が出雲にお集まりになり、全国的には神様の留守の月で『神無月』、それで出雲だけは『神有月(かみありづき)』と言う」と解説したりしますが、これは漢字表記を鵜呑みにしただけの勝手な解釈と言えるでしょう。十月は稲を収穫し田の神に感謝してお祭りを行う月、つまり全国各地で秋祭りが行われる「神の月」なのですから。

 ことばは初めに音声があり、後に文字化されると言いましたが、子どもが絵本を読んだり、学齢に達して教科書で勉強するようになると、気付かないうちに文字化された表記からことばを習得するようになり、やがて、表記された文字をそのまま受け取ってあらぬ解釈をするようになったりするのです。

 因みに、例に挙げた「まつげ」の「つ」も「の」と同じ連体修飾格の助詞で、つまり「目の毛」ということです。古歌によく「天つ風」とか「沖つ白波」とかいうことばが出てきますが同様で、「つ」を「の」に置き換えると解りやすい。相撲部屋の「時津風」という名称も「時代の風に乗って一世を風靡する」という意味です。最近とんでもない事件で世間を騒がしているようで名前が泣いていますが。

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「うれしいです」「楽しかったです」

2010-06-07 14:34:15 | ことば・あれこれ
6月7日(月)

 今回は、表記のタイトルで「ことばあれこれ」の記事にするのですが、もしかすると、「何を話題にするのだろう」と思われる方がいるかもしれません、特に若い世代の人は。

 「です」ということばは、断定の助動詞「だ」の丁寧語です。そこで「です」を「だ」に変えてみてください。「うれしいだ」「楽しかっただ」とは言いませんよね。
 赤塚不二夫の漫画に「これでいいのだ」というセリフがあります。このように、断定の助動詞「だ」「です」の前に「の」を入れると違和感がなくなります。「うれしいのです」「楽しかったのです」というように。
 でも、「ボーナスが出てうれしいのです」や「孫と過ごして楽しかったのです」と言った時に、どうも「の」の入った表現がしっくりしないという状況もあります。こういう時は「うれしいと(うれしく)思います」とか「楽しいひとときでした」「楽しい時間が持てました」くらいにするのがよさそうです。
 あと、文末に「な」や「ね」や「よ」などの終助詞を置くという手もあります。「なかなか渋いですな」「この花きれいですね」「けっこう楽しいですよ」というように。でも、これらは話しことばとしてかろうじて成り立っているとしか思えません。

 まず、文法的な説明をしておきましょう。
 一つ、断定の助動詞は「良い天気だ」とか「私は日本人です」のように、名詞に接続するという原則があります。
 また、助詞の「の」には、「甘いのが好き」というように、体言(名詞)の代用をする「準体格」という用法があって、この「の」に接続させることもできます。「いいのだ」の「の」がそれに当たります。
 要するに、「だ」や「です」は動詞や形容詞や助動詞の後に直接付くことばではなく、そして、そのことを当たり前だと思っていると、表題の「うれしいです」や「楽しかったです」という表現に違和感を覚えることになります。

 上の二例のほかに、形容詞型に活用する希望の助動詞「たい」に「です」を付ける表現にもよく出くわします。「看護士になりたいです」のように。これも「だ」に変えるとおかしい言い方であることがわかります。正しくは「なりたいと思います」でしょう。


 実を言うと、今回の記事は、三週間ほど前の5月22日の朝日新聞がきっかけでした。
  
 土曜日は「be」という別刷りの紙面がありますが、その中のパズルの欄に、上記の誤用と同じ表現がありました。
  拡大すると
     
 「解きやすいです」とありますが、これは誤用で「解きやすくなります」が自然な表現だと思います。
 この欄はクイズ作成会社へ下請けに出していて、新聞社ではチェックしていないのか、それとも、すでに一般に通用する表現になっていると判断しているのか、その辺は不明ですが、やはり新聞では正しい表現にしてほしかった(です?)と思います。


 実は、私は国語教師としての後ろ半分くらいの間、ずっとこういう「です」の使い方に悩まされてきたのです。

 もう20年くらい経つのでしょうか、国語という教科の中に「国語表現」という科目ができました。必履修になったのはたしか2003年からだと記憶していますが。
 この科目は、日本語の正しい使い方を身につけることが目的で、まさに国語の基本なのですが、そのためには、当然多くの名作の美しく優れた表現に触れるということも大切な要素になってきます。
 ところが、この科目ができた背景には、若者の文章力の低下を嘆く声があったので、どうしても、小論文や作文対策のための科目のような位置付けとなって、名文の鑑賞とか、俳句や川柳をひねってみるとか、スピーチの練習などで楽しみながらという授業にはなりませんでした。ちょうど大学受験に推薦入試が広がり、ペーパーテスト中心から小論文や面接による選考が増えてきた時期とも重なっていたので、生徒も、作文を書いて添削してもらえる時間だと思って授業に臨んできました。
 もっとも、作文を読んで点数を付けるだけなら話は簡単なのですが、赤ペンを持って添削し、コメントを入れるとなると、これがけっこう時間がかかるのです。返却したあと書き直して提出させたりすればなおのことです。
 ということで、国語の教師の机の上は、ちょっと気を抜いていると、すぐに作文の山ができてしまうようになりました。出張に出るのも億劫、有給休暇を取っても、翌日の机の上を想像すると気が重くなってしまうという状態でした。

 もちろん、生徒の作品を読むのは仕事としてはそれなりに楽しい時間でもありました。ただ辛いのは、前回の「ら抜きことば」もそうですが、上記の「です」の使い方が何度直しても何度説明しても、次々と目の前に現れて来ることでした。きっと、生徒はふだんから誤用に慣れていて危機感が乏しいからなのでしょう。
 もう一つは自己推薦書や志願理由書の類です。これらの書類は、国語の教師のところに回ってくる前に、担任が一度目を通しているのですが、困るのは、こういう誤用が訂正されないままやって来ることでした。大人の目を一度通過したものを訂正すると、「次も国語の先生に見てもらわないと」という気持ちがさらに強くなります。やがて、教師の記載する推薦書などの点検も仕事に入って来るようになり、そして恐れていたとおり、大人も誤用している。コピーしたものに訂正をしてお返しするのですが、時に怪訝な表情が返って来ることもあり、とてもやりきれない気分に陥ったりします。

 うろ覚えで申し訳ありません。大野晋か丸谷才一か、何かの本で「です」の使い方について、「基本的には誤用であるが、話しことばとしては認めてよいのではないか」というような見解を読んだことがあります。もう20年くらい前のことです。しかし、一般の人、特に言文一致のメールに慣れている若者に対して、「話しことばとしては正しいが、作文の時はダメだ」という指摘は、現実には全く無力な言い方にしかなりません。

 「時の流れだ、もう、気に留めないようにしよう」という気分になった時もありました。そこで、ある大学の文学部の教授のところへ電話で質問をしてみたのです。単刀直入に「入試の小論文にこういう表現がある場合、減点の対象になるか」という質問です。答えは「減点だと一概に言える時代ではないが、複数の人が採点する場合はケースによってマイナスになることもあるかもしれない」ということでした。
 やはり退くに退けないのでした。そして、細かいことにこだわる口うるさい教師と言われるのを覚悟するしかなくなったのです。

 それから十年余り、とうとう大手の新聞の紙面にも大手を振って登場しているのを見て、今日もまた、ちょっとだけ「正しい日本語」とかにこだわってしまった次第です。


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いわゆる「ら抜きことば」について

2010-03-31 22:02:51 | ことば・あれこれ
3月31日(水)

 関東には普通にあるのに、関西ではほとんどみられないものが時々あります。

 その一つが「筋子」。ちょっと生臭くて塩辛いのですが、酒のつまみにもなるし、あつあつのご飯に乗せるとたまりません。関西ではどのお店にも「イクラ」はいくらでもあるのですが、「筋子」は見たことがありませんでした。聞いてみると、「正月前に置くことがあるけれど、ふだんはねぇ」という返事でした。
 「関東になかったり、関西になかったり」という話題については別の機会にしますが、先日、あるスーパーの魚介類売り場に「筋子」を見つけました。さっそく買い求めたのですが、やはり関西では口にする人が少ないのでしょうか、パックにこんな表示がありました。
  
  
 「食べれます」。意味は通じますが、典型的な「ら抜きことば」です。

 方言の中で「ら抜きことば」が定着していることがあるという話を聞いたことがあります。もしかすると、関西弁もその中に入っているのでしょうか。でも、昨今は標準語の世界で若い人を中心に頻繁に使われるのでよくわかりません。

 つい最近、テレビのアナウンサーが子どもに「ボクはピーマンは食べれるかな?」と話しかけていて苦笑してしまいました。

 また、かつてジャイアンツの監督だった方がテレビ解説で「このピッチャー、若いのにいい変化球が投げれますからね。期待できますよ」と言っていました。出身地の方言のせいなのか、ことば遣いを勉強する間がなかったのか、いずれにしてもずっと野球の世界で自分を磨いてきたわけですから、そんなことはどうでもいいでしょう。
 実はこの解説者、時々若い世代の人の中には首をかしげる人も多いかもしれないような、なかなか味のあることばを披露するのです。
 こんなふうに。
 「ここは1点勝負ですから、堅く走者を進めるものと思っていましたが、あにはからんや、意外な作戦に出ましたね」(あにはからんや)
とか、
 「今日のダルビッシュは120パーセントと言っても過言ではないくらい完璧な内容でしたがね、惜しむらくはあの一球、コースが微妙に甘かった」(惜しむらくは)
とか、
 「ここはまず同点に追いつくという局面だったのですが、あわよくば逆転もという期待があったのでしょうね」(あわよくば)
とか。
 どなただかわかりますか、ここでは名前は出しませんけど。まあ、還暦を過ぎているので「年の功」とも言えますが、こういう表現が自然に出てくる一方で「投げれる」という言い方も身に付いている。ということはそれだけ「ら抜きことば」が一般化しているということなのでしょうか。

 さて、そろそろ本題へ

 私は、違和感があるので「ら抜きことば」は使いません。でも、他人の表現には頓着しないことにしています。こういう表現が生れてくる理由はそれなりにあるし、そのことでことばの解釈がしやすくなっている面があるからです。

 「思わ・れる」の「れる」、「着・られる」の「られる」は助動詞で、五段活用の動詞には「れる」、一段活用系の動詞には「られる」が付くことになっています。「ら抜きことば」というのは、「られる」を使わなければならない後者の時に、「ら」を省いた「れる」を付けてしまう表現なのです。
 「このサイズで着られるかなあ」と言わないで「着れるかなあ」と言うように。

 ところが、例えば「食べる」という動詞にこの助動詞を付ける時に、「食べれる」という「ら抜きことば」の表現にすると、「食べることができる」という「可能」の意味に限定されるのです。「受身」の時に「赤ずきんちゃんが狼に食べれる」とは絶対に言いません。この場合は誰もが「食べられる」と言います。

 実は、この助動詞には「受身」「尊敬」「可能」「自発」と意味がいくつもあるのです。「思われる」を例にすると「人から思われる」「お思いになる」「そのように思うことができる」「思わないではいられない」というように。
 これらの意味の違いはその時の状況から読み取るわけですが、「この布団、よく寝れるよ」と言えば、「可能」の意味でしか受け取れませんから、そのぶん誤解が少なくなっているのかもしれないのです。「寝られる」と正しく言うと、「おやすみになる」とか「先に寝られていびきがうるさい」とかの意味も浮かんできます。「投げれる」は「投げることができる」という意味ですが、「投げられる」となると、「受身」や「尊敬」の意味が浮かんでくるのと同じです。

 それでは、なぜ「可能」の時にこういう表現が生れてきたのかというと、それにはちゃんとわけがあるのです。
 上に「思わ・れる」という例を出しましたが、五段活用動詞の場合は、エ段の「思え」に「る」を付ける「思え・る」という可能動詞が別にあるのです。「書く」に対して「書ける」、「読む」に対して「読める」、「座る」に対して「座れる」というように。
 この「エ段」に「る」が付くと「可能」になるという言い方が影響して、一段活用系の動詞でも、「られる」ではなく「れる」を付けたくなるのです。「外に出れる」「本が借りれた」のようにです。「速く走れる」(五段活用「走る」の可能動詞)という言い方があると、つい「早く起きれる」(一段活用「起きる」のら抜きことば)と言いたくなるのもわかるような気がします。

 ことばは日々変化して行きます。そして変化した表現が、その時代の人の中で通用するようになれば、それは新しい表現として認めなければなりません。成立の過程に根拠があって、効用もあるとすればなおさらのことです。したがって、「ら抜きことば」は正しい表現として認めるべきだという考えは受け容れざるを得ないのかもしれません。

 それでも、やっぱり「このままで食べれます」と書かれると考えてしまいます。

 ひとつ。話しことばであれば許容できるのかもしれません。でも、ことばは話しことばが変わると、次は書きことばに波及してくるのは避けられません。国語の教師を辞めてよかったかな。作文の添削で「ら抜きことば」を直すと「古くさい」と言われる時代になるのかもしれません。

 もうひとつ。同じ一段系の動詞でも、「ら抜きことば」にならないのもありそうなのです。「タバコがなかなかやめれない」「僕なら泥棒を追いかけれる」って変ではないですか。でも、「そんなのはその人の感じ方に過ぎず、私は変だと思わない」という人がいたりすると一蹴されそうですね。

 そこで、少しは根拠のありそうなことを。これは詳しく分析したわけではないので、絶対的な自信はありませんが、実は、語幹が2音以上の時は「ら抜きことば」が成立しないのではないかと思っています。例えば、「調べる」「教える」「答える」「数える」などはどうでしょうか。これらもいつかは「ら抜きことば」が成立するようになって、「可能」の時は、「図書館へ行けば調べれる」、「英語なら教えれる」、「彼なら答えれる」、「一から十までなら数えれる」と言うようになるのでしょうか。とてもそうなるとは思えないのですが、仮にそれが変化の必然だとしても、あと数十年は優にかかりそうです。私はそれまで生きていないのでちょっと安心。

 最後はどこか話題が「地球温暖化」と同じような、自分がお墓の中に入ったあとの心配事になってしまいました。


  センバツに出れて投げれてヒーローに  弁人


【追記】
 昨日、逗子の町を歩いていて、こんな表示に出会いました。
  

 「カマ上げ」は「釜上げ」にしてほしかったのですが、「食べられます」は実に自然できれいな日本語ではないですか。
 きっと古くさい人間になってしまったのでしょう、こういうことばに出会うと、ちょっとばかりほっとしてしまうのです。
「おいらの住んでいる所はちゃんとした日本語だぜぇ」っていう感じ。

 でも、あと何十年か経つとですよ、
「こういう場合はですね、『ら』が入っているので、ひじきが人間に食べられるというふうに『受身』で解釈しないといけませんね」
とか教えている先生がいるのかもしれません。
             (記 4月5日)

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「駄洒落」「軽口」「地口」

2009-11-29 15:57:33 | ことば・あれこれ
11月29日(日)

 9月15日の記事で、『「梨」は「無し」と同音なので「有りの実」と言い、こういうことばを「忌み詞」と言う』というお話をしました。
 つまり「忌み詞」というのは、同音異義語を連想したもので、考えてみると、駄洒落と同じ発想です。

 明石公園にこんな看板がありました。
  
 単なる駄洒落にすぎませんが、ほほ笑ましい。もちろん、「帰る」に不穏当な意味はないので「蛙」の呼称を変える必要はなく、つまり「忌み詞」とは関係ありませんが。

 グルメ番組で石ちゃんが「このステーキ、素敵」などと言って笑わせますが、どうも駄洒落というと、近頃は「おやじギャグ」として、若者から「サブイ」とか「オジンクサ」とか言われて馬鹿にされがちです。しかし、ことばの感性を豊かにする遊びとして、けっこう大事ではないかと思っています。

 日本の和歌の修辞技法に「懸け詞」というのがありますが、要するに同音異義語を使って二重の意味を表しているのですから、突きつめれば「駄洒落」と同じ発想と言えるのです。

 「大江山〔いくの〕の道の遠ければまだ〔ふみもみず〕天の橋立」

という歌がいちばんわかりやすいでしょうか。
 〔大江山を通って行く、生野への道のり〕〔足を踏み入れたこともないし、その地にいる母からの文(手紙)を見たこともない〕という具合で、それぞれ二つの意味があるのはご承知のとおりです。

 昔は、娯楽といえば音曲や舞踊くらいで、映画やテレビやゲームなんかはもちろんありませんでした。暇な時間は、もっぱら和歌を中心としたことば遊びに熱中していたらしく、自然とことばに対する感性が豊かになっていたのでしょう、「懸け詞」なんぞはお手のものだったのです。和歌にはいろいろな表現技巧がありますが、そういう何気ないことば遣いが「洒落ている」と言われたのです。でも今では、そんなことばのギャグは「洒落」の前に「ダ」がついてしまって、軽んじられています。


 ビールのつまみに、ときどき「ナビスコ」のクラッカーを買います。クラッカーと言えば、あと「リッツ」も有名でしょうか。

 昨日、スーパーの棚に懐かしいメーカーの名前を発見しました。
  
 「おれがこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー!」

 私が子どもの頃の人気番組「てなもんや三度笠」。スポンサーが前田製菓で、最後のキメの場面で、あんかけの時次郎役の藤田まことが発する台詞でした。
 「あたりまえだ」と「前田のクラッカー」。やっぱり、「懸け詞」です。

 実は、去年の9月、このブログの「No.1」(左のブックマークの2番目「No.1」をクリックすると簡単に見られます)の記事に

 「その手は桑名の焼き蛤」 ということばを載せましたが、全く同じ構造です。
 この手のことば遊びを「軽口(かるくち)」と言います。

 「おそれ入谷の鬼子母神」 というのが有名です。他にも、
 「申し訳有馬温泉」 とか、
 「びっくり下谷の広徳寺」 などがあります。

 この現代版が上の「クラッカー」の台詞や「いないいないバアさん」という類になります。
 それから、子どもがふざけて「お手テンプラ、つないデコちゃん・・・」と歌ったりするのも同じでしょう。

 この「軽口」は「外郎売の口上」にも散りばめられています。
(この話題を載せることは、9月9日の記事の最後のところで予告しました)

「煮ても焼いても喰はれぬものは、五徳鉄きうかな熊童子に、石熊・・・」
   (助詞「かな」と金熊童子の「金」)
「おっと合点だ、心得たんぼの川崎・・・」
   (助詞「た」と田んぼの「田」
「藤沢、平塚、大磯がしや」
   (大磯の「磯」と忙がしいの「忙」)
「ご存じないとは申されまいまいつぶり」
   (カタツムリのことを「まいまいつぶり」と言います)

 「懸け詞」ではなく「尻取り」の軽口もあります。
「早天さうさう、相州小田原透頂香(とうちんかう)」
「まいまいつぶり、角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼、杵、すり鉢、ばちばち、ぐわらぐわらぐわらと」

 脚韻を踏む「駄洒落」も
「小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと・・・」
「そば切り、そうめん、うどんか、愚鈍な小新発知(こしんぽち)」

 話はまた駄洒落に戻ってしまいましたが、駄洒落にもいろいろなパターンがあって、上のように韻を踏むもの、「あたりき、車力、洗面器」とか「驚き、桃の木、山椒の木」などがその例ですが、他にも、全くの同音異義ではなく、似通った発音で茶化すもの、例えば「長嶋監督のカンピューター」なんていうのもあります。

 似通った発音のことば遊びというと、東京下町の千束稲荷神社では、毎年二月の初午になると、境内全体が「万灯(まんどう)」という行灯(あんどん)の明かりで飾られます。そして、一つひとつの行灯に、コミカルな絵とともに、江戸時代から伝わる「地口(ぢぐち)」という洒落ことばが書かれています。諺や慣用句をおもしろ可笑しくもじっていて、昔、コミック雑誌なんかなかった時代の、いわばひとコマ漫画といった具合です。
 以下、写真と一緒に紹介します。

  「七転び八起き」をもじって「花転び矢起き」
  

  「笑ふ門には福来たる」を「笑ふ顔にはフグ来たる」と
  

  「飛んで火に入る夏の虫」は「飛んで湯に入る夏の武士」に
  

  端唄の歌詞「眺め見渡す隅田川」を「眺め見渡す炭俵」に
  

とこんな具合です。



    わけナイトことば遊びの夜長かな   弁人


 今日の話題はやっぱり「さびぃ」でしたでしょうか。私は石ちゃんのたわいないギャグもけっこう好きなんですけどね。

 最後はクイズ形式で。こういうのも「駄洒落」になるかなぁ。

 「オリンピックで愛ちゃんが活躍する種目は?」
 「卓球!」
 「ピンポーン」
                   おあとがよろしいようで


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「ありの実」は「梨」の「忌みことば」

2009-09-15 21:16:52 | ことば・あれこれ
9月15日(火)

 前の記事の最後に「あった、あった、さすが『ありの実』」と記しましたが、若い人の中には「なに?」と思う方もいるようなので、今回は「忌みことば」について。

 葛飾の亀有。「こち亀」で一気に有名になりました。
    
 「亀有」という地名は、元々は「カメナシ」と言って、「亀無」「亀梨」と表記していたものを、江戸時代に「ナシ」は縁起が悪いということで「亀有」になったと言われています。テレビでも時々取り上げられたりするので、聞いたことのある人も多いかもしれません。

 こういうことばを「忌みことば」と言います。

 子どもの頃、周囲の大人が「梨」のことを「アリノミ」と言うのを聞いて、甘くておいしいので「アリンコが好きなんだろうな」と思っていましたが、上のような事情で生まれたことばなので、表記は「有りの実」です。

 以下、「忌みことば」の例を思いつくままに挙げてみます。

○ 「キネマ旬報」という映画雑誌があります。「死ぬ」を忌み嫌って「シネマ」という音を避けたもよう。
      

 「シ」を避けるといえば、数字の「4」を嫌うのも同じ発想でしょう。

 そういえば、私は42才の時1年9組の担任だったのです。厄年でもあるし、「死に行く」という語呂がふと頭に浮かんで、周囲に、笑いながら「今日はどうなるかな」と口走っていました。でも9組はいい子ばかりで、とても楽しい一年間だったのを覚えています。
 昔、本屋で立ち読みしていたら、陸運局では「4219」という車のナンバーを希望のない限り出さないそうで、さもありなんと思っていたら、そのあとに「始終荷が行く」と読んで、運送業者から希望があるということも書いてあって感心しきり。
 要するにものは考えようということですが、それではこの話題が面白くなくなってしまいますね。

○「刺身」の「刺す」、「切り身」の「切る」を嫌って「お造り」と

○「猿」が「去る」に通じるので「得手公(エテコウ)」に

○「するめ」の「スル」が賭け事に負ける意味があるので「当たりめ」に
 (「すり鉢」を「あたり鉢」って言うんだと言っても、若い人には通じないのでしょうか)
                 等々。 

 話を「亀有」に戻します。人気タレントに亀梨クンがいますが、彼は本名で活躍しているそうで、「亀梨」という苗字もあるのです。
 「カメナシ」の語源についてはいろいろな説があるようですが、一説に、大昔に朝鮮半島から移住して来た人に「金(キム)」という姓が多く、漢字で「亀無」と音読みで表記したものを訓読したというのがありました。地名と姓の両方ということになると、この説は説得力があるように思います。今の亀有の辺りに「金(キム)」さんたちが住みついたのかもしれません。

 「亀梨」の二文字を眺めていると、小学生の頃口ずさんだ「山があっても山ナシ県」という語呂が思い出されます。「山梨」の語源も諸説ありそうですが、漢字表記を「山無」と置き換えると、「音無川」や「音無の滝」の「音無」の意味、さらに話が「神無月」・「水無月」の表記にも広がって、今回の「忌みことば」からどんどん離れてしまうので、今日はこのへんにして、「お開き」といたします。

 おっと、そうです。「鏡開き」というのも「割る」を嫌った表現だと思います。
それでは「お開き」に。

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「おむすび」と「おにぎり」

2009-06-25 16:24:33 | ことば・あれこれ
6月25日(木)

 先日、広島へ出向いた時、姫路で新幹線に乗り換えようとコンコースに下りたところ、こんなお店がありました。
   
 おむすび屋さんです。最近は、コンビニでもどこでも「おにぎり」と言うのが一般的なので、ちょっと目にとまりました。
 そして、かつて広島の「むさし」というお店で、やけに大きい三角おむすびを食べた思い出が蘇ってきました。

 そんなことがあって、広島でマツダスタジアムへ行く前に「むさしおむすび」の店に寄ってみました。
  大通り店
  

  球場にもありました。
  

 おかずも入った詰め合わせもいろいろありますが、特大の三角おむすびが私の思い出です。たしか、一辺が15センチぐらいの大きさで3種類の具が入っていたと記憶していました。
 球場からの帰りに居酒屋にでも行こうと思っていたので、試合が始まる前の腹つなぎ用に買いました。
  「山賊むすび」450円
  

 昔の思い出がふくらみ過ぎていたのか、思ったよりは小さく(それでも一辺は優に10センチ以上)、具は昆布と鮭の二種類でした。店員に聞いたところ、「昔のことはわかりませんが、具は以前から二種類だと思います」との返事でした。


    山賊も浴衣の客もむすび顔   弁人


 さて、今日の本題です。

 広島では「おにぎり」のことを「おむすび」と言うのかなとちょっと興味深い。コンビニを覗いてみると、やはりどこにでもあるあの三角形のは「おにぎり」でした。でもその隣に「むさし」のではありませんでしたが、「山賊おむすび」というのも並んでいました。
 翌日の午前中、町を歩きながら、呼び方について何人かの人、駅の売店のおばさんや「むさし」の店番の人、コンビニの店員さんなどに聞いてみました。

 どっちでもいいという人もいましたが、考え込んでくれる人もいました。苦しまぎれの答えもあるでしょうが、言い方の違いについて次のような答えがありました。
 1、むさしのは「おむすび」で、コンビニのが「おにぎり」。
 2、どっちがどっちだかわからないが、たわら型と三角形の違い。
 3、広島では「おむすび」と言う人が多いが、ふつうは「おにぎり」じゃないか。

 印象では、「おむすび」という言い方を好んでいるのは女性のほうに多いような気がしましたが、おおまかに言えば、みなさんよくわからないというところでしょうか。

 「もともとの意味とか由来とかは気になるけれど、実際に世の中で通用していれば、それはすでに正しいことばである」
と私は思っていますので、どちらの言い方とも身の回りにある以上、どう言おうが問題はありません。現に、「おむすび専門店」と名告るお店のウインドウに「こだわりのおにぎり」というのが並んでいる例もあるのです。本屋で「おむすびころりん」の絵本を見ていたら、「おじいさんがにぎり飯を出して云々」という記述もありました。

 しかし、どうでもいいというのではブログの話題にならないので、今回はこだわって調べてみたところ、諸説紛々。以下、いくつかの説を記します。

 1、もともとは「おにぎり」。宮中の女房言葉の中で、より上品で丁寧な言い方として「おむすび」という言葉が生まれた。

 2、天地開闢の際に現れた、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の三柱の神の、あとの二柱の神に共通する「産巣日」という言葉に由来し、その神の力を授かるために米を山型(神の形)にかたどったのが「おむすび」の始まりである。「おにぎり」は形を問わず単にご飯を握って作ったもの。

 3、昔からおにぎりには「鬼を切る」という意味もあり、魔よけの効果があると言われ、鬼退治に握り飯を投げつける民話もある。

 4、言葉の説明ではないのですが、2000年4月の西日本新聞の「目指せおにぎりの鉄人」という記事の中に「九州を含め関西以西はおにぎり、東はおむすびと呼ぶ地域が多い」という解説が。

1について
 接頭語の「お」を取って「にぎり飯」と言うと、たしかに男っぽい響きがありますが、「お」を付ければ女性の言葉として違和感はなさそうです。また「きる」が忌み詞とも考えられますが、「握り」という単語から「切り」を連想するかどうか、ちょっと疑問です。

2について
 「産巣ぶ」は「造り出す」という意味を持っていて、神聖な食べ物として「むすび」という言い方はあるかもしれません。

3について
 「お」が接頭語であることを考えれば、「鬼」という語呂合わせはどう考えても後から発想したものとしか考えられず、こじつけっぽい。

4について
 根拠が不明。むさしのおむすびがいつから売られたのかわからないので何とも言えませんが、広島では「おむすび」と呼ぶ傾向が強く、自動車のマツダではロータリーエンジンの三角形の部分を「おむすび型」と称しているとか。また、「天むす」というおむすびは名古屋で生まれたそうですが、こちらは50年以上前からあるとのこと。そう、冒頭のように姫路にもありましたし。そして、
  明石のスーパーでも
  

 気をつけていると「おむすび」の呼称は関西にもけっこうあるのです。


〔私 見〕
 「拳を握る」「手に汗を握る」「(相手の)手を握る」「赤ちゃんがにぎにぎする」。やはり「握る」は片手の動作です。
 対して、「結ぶ」は「(二人が)結ばれる」「(両国が)手を結ぶ」「紐を結ぶ」というように、二つのもの、つまり手で言えば両手の動作でしょう。

 両手でしっかりと形作るものであるとするなら「おむすび」だと思います。機械が作って量販されるのはどっちでもいいのかもしれません。
 ちなみに、江戸前の寿司を「にぎり」と言います。片手でシャリの形を整えてもう片方の手でネタをのせる。つまり基本的には片手の動作なのかもしれません。だから「にぎり」か。

 したがって、私は「おむすび」派です。「おにぎり」という呼称が席巻している現状をちょっと残念に思っていたので、今回の発見は少しうれしいのです。

  昔話の絵本の表紙
     

 この世界では「おにぎりころりん」という題名は存在しません。


    緑陰やおむすびころりん聞かせたし   弁人


※ 余談
 今では本がありますが、昔話は本来「語り聞かせる」ものです。当然ながら、語り手の舌の回りによって話は変形します。本になっても同じで、何冊かを読み比べてみると微妙に違っています。
 でも、変えてはならない部分が必ずあるのです。これを「話核」とも言います。
 語り継がれる中で「話核」を支えてきた重要な要素が「うた」です。「おむすびころりん」の場合、穴の中でねずみが唄う歌は不可欠なのです。歌詞の記述のない絵本は買わないほうがいいでしょう。
 他にこの話で大事な要素。善良なお爺さんのあと欲張りなお爺さんが登場すること。そして、欲張り爺さんが猫の鳴きまねをしてねずみが消え、真っ暗の土の中でモグラになってしまうことです。
 このように、昔話にはその話が原型に忠実かどうかチェックしなければいけない部分があります。それ以外の部分は語り手や書き手が自由に脚色していいのです。
 「おにぎり」は「鬼を切る」ものだからということで、桃太郎の「きび団子」を「おにぎり」に変えてしまうのは、もし「きび団子」に意味があるとすれば考えものです。追加するぐらいが無難です。

 童心社の昔話の絵本は、私が尊敬する松谷みよ子氏のものですが、おむすびを転がして穴に入るのがお婆さんになっています。あとがきに、西の地方でお婆さんを主人公とする話が伝承されていて、それをもとにしたと書かれていますが、もしKAZUに絵本を買うとしたら、やはりお爺さんのものにしたいと思いました。


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