チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

銘酒「神鷹」と幻の名馬「カミタカ」

2009-01-28 23:58:08 | 明石風物
1月28日(水)

 KAZUの保育園のある稲爪神社。

拝殿の前には奉納された菰被りの清酒。
 
 稲爪恵比須神社
  
 明石の岩屋神社
   
 江井ヶ嶋の住吉神社
    

 清酒「神鷹」は100年以上の歴史を誇る、地元明石の「江井ヶ嶋酒造」の銘酒です。
 昔から潮流が激しい海を「灘」と言いますが、この辺では、明石海峡の東のほうを「東灘」、西のほうを「西灘」と言います。東灘のほうに大手の酒造メーカーが密集しているので、灘の酒と言うと神戸の酒を連想しますが、西灘にあたる明石の酒造も江戸時代初期から始まったという歴史を持っています。


 さて、ここで話は大きく変わります。今週の土曜日(31日)の東京競馬場のメインレースは「東京新聞杯」です。
 実は、38年前(1971年)のこのレースに思い出があるのです。「トレンタム」という逃げ馬が勝ったのですが、私がずっと追っかけていた「カミタカ」という馬が2着に入り、万馬券にあと一歩という高額配当を受け取ったからです。

 私がカミタカに注目したのは前年(1970年)の5月頃です。たまたまテレビで見たレースが印象に残ったからでした。次のレースで上位に入ればダービーというところで着外に甘んじてがっかりしましたが、目立たないレースで好成績を収めていました。私はだいたいのレースでこの馬の単勝馬券を買っていたので、この年は3~4回的中したと思います。次第に表舞台へ向かって行き、夢の菊花賞は5着に入賞、着外でしたが有馬記念にも出走しました。

 私はなんとなく、この馬が馬券に絡むのはいつも人気のない時で、人気が出ると惨敗するというパターンを感じ取っていました。年明けの初戦の重賞レースはさすがに有馬記念出走馬ということで人気になりましたが、結果はやはり着外でした。
 そして「東京新聞杯」。予想紙ではほぼ無印で絶対に”買い”なのです。先行馬として絶好の1枠1番、しかし、同枠2番に逃げ馬トレンタムが入り、ハイペースで共倒れというのが大方の見方でした。「まあ、テレビ画面に白い帽子が並んで進むのは間違いないし、前半だけでも楽しめればいいか」ということで、1枠のゾロ目の一点買い。結果、この2頭はとうとう最初から最後までテレビの画面から外れませんでした。まさに「してやったり」。

 その後長期休養に入ってしまい応援できなかったのですが、秋の終わりごろから復帰し、2年連続で有馬記念に出走することになりました。

 1971年の有馬記念はカミタカファンのみならず、少し競馬に詳しい人には有名なレースなのです。
 一つは、有馬記念史上初めて牝馬(トウメイ)が勝ったことです。もう一つは、ちょうど馬のインフルエンザが流行した時期で、レース直前に1番人気アカネテンリュウほか3頭が出走を取り消したのです。実はその中にカミタカが入っていたのです。ところが、カミタカはインフルエンザではなく、同枠の取り消し馬(メジロアサマ?)が人気馬だったため、混乱を回避するための措置であったという噂が流れたのです。
(注 当時は馬番連勝というのがなく、普通は枠番連勝で馬券を買っていたのです。取り消し馬がその枠1頭であれば払い戻しになりますが、2頭以上のうちの1頭だと払い戻さななかったのです)
 たぶんラジオで大橋巨泉氏が、不快感(馬に責任はなく制度が悪いということ)を言っていたように思います。

 結局、このレースは疑惑を秘めた6頭立てという寂しいものになったのですが、実力のある人気馬2頭が消えたこと、カミタカは人気薄だったこと、スローなレース展開で出走馬中1番人気の馬(メジロムサシ?)が末脚を全く使えなかったこと、そして初めて牝馬が勝ったという、いくつもの要素を並べると、カミタカのファンの気持ちとしては、もし出走を取り消されなければ、名馬として語り継がれる存在になったに違いないと想像するのも無理はないでしょう。

 昨年末の有馬記念でダイワスカーレットが勝ち、スポーツニュースでは「37年ぶり2回目の牝馬の勝利」と騒ぎ立てましたが、その時私の脳裏をかすめたのは、トウメイという牝馬とカミタカという幻の名馬でした。
 引退後は、さすがに種牡馬にはなれませんでしたが、殺処分を免れ、東京競馬場の先導馬になりました。就職した年に競馬場に行った時、同行の友人が馬券を買わずに先導馬に注目している私にあきれていました。その後、乗馬用の馬になったという噂を耳にしたのを最後に私の世界から消えて行きました。


   冬枯れの馬場に名馬がよみがえる   弁人


 いつだったか、甲子園へ行った時に阪神電車の窓から「神鷹」の看板を見てうれしくなったことがありました。それ以来、お酒の「カミタカ」は神戸の灘の出なんだとばかり思っていたのです。ともかくそんなこともあって、「明石へ行ったら、酒はカミタカだぞ」と思いながらこっちに来たわけです。

 ところが、お酒の「カミタカ」に出会うまでちょっと時間がかかってしまいました。神社の菰樽は毎日眺めていましたが、店頭ではあまり見かけなかったのです。あるスーパーに安いパック詰めがありましたが、アルコール度数が13度と低いのでやめました。地元での人気は高くないのか、近くの酒屋のご主人は「あまり捌けないんで」と言い、置いてありませんでした。神戸のデパートでも見ませんでした。
 ところが、師走に入って、たまたま立ち寄ったちょっと郊外の大型スーパーに、容量別(ワンカップ等)も含めて20種類以上も並んでいるのに出くわしたのです。

  ということで、ここに晴れてご紹介という段に至りました。
  
 右が普通の吟醸酒で、880円。左は冬限定の「初しぼり」。660円でお買い得?、一升換算で1650円。
 おっと、写真はすべて4合瓶です。

   
 両方とも純米。左は940円で、娘のマンションで食事する時はこれを持っていきます。右は格上の純米吟醸で、1180円。ふだん飲むのにはちょっと贅沢かな。
 
    
 右が大吟醸で2080円します。正月用に買っておいたのですが、こっちへ戻った時にはもう浮かれ気分ではなかったのでまだ封を開けていません。大吟醸の一升瓶は木箱入りで、6000円弱です。
 もちろん、ふだん飲むのは最もリーズナブルな「上撰」の1.8ℓパック(写真左)で、1450円です。


    冬深し祝宴日を求め暦見る  弁人


 温かくなったら、江井ヶ嶋の酒造見学に行こうかなと思っています。


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トンネルもそろそろ出口?

2009-01-25 07:55:21 | KAZU君
1月25日(日)

 風邪でダウンし、気だるく陰鬱な一週間を過ごしてしまいました。

 こっちでの新年の生活が始まって二週めにKAZUがダウン。保育園から呼ばれて午前中から看病したりしました。

  不機嫌な時のKAZU
 
     

 先週末、神戸へ震災の慰霊に出向いた時はKAZUの両親もダウンし、私一人が元気だったのですが、油断大敵、とうとう私も喉痛から発熱してしまいました。

 食料確保の買物以外は薬を飲んで布団にもぐり込むという一週間でした。保育園の迎えも二日間ほど休ませてもらい、なんとか熱は下がったものの、喉の痛みは消えず依然として鬱陶しい状態です。

 昨夜は早く寝たので、さきほど明け方に目が覚めました。このブログを書いたら、今日も一日布団にいようと思います。とにかく今日中に風邪を蹴散らして、明日の朝にはバリバリの状態になるのです。

   大寒やしたたかなるかな孫の風邪   弁人


 時々、箱根駅伝のビデオを見ますが、正月の相模路はほんとうによく晴れています。元日に逗子海岸から仰ぎ見た富士はとても美しく神々しさを感じました。
 ところが、こっちに戻ってからまだ一度も抜けるような青空に出会っていません。

 昔、吉永小百合の「夢千代日記」というドラマの中で、「日本海側の暗くて厳しい荒漠とした冬」と「山陽の晴れやかで開放的な明るさ」が対比されていましたが、湘南の明るさに長年親しんでくると、山陽とはいえ、なかなかそういう雰囲気を実感するに至りません。

 関東平野に空っ風が吹く時は富士もきれいで、寒いながらもマフラーをなびかせて爽快さを味わうこともよくありました。こちらの季節風は北西と言ってもかなり西よりの風で、マンションのドアが開かないぐらい強く吹きます。それでも、上空は「抜けるような」とはなりません。おそらく瀬戸内海の湿気を含みながら、紀伊半島の和歌山方面に吹きつけているのだと思います。大阪湾方面にはいつも雲があるように感じます。
 柿本人麻呂の歌った「大和島」を、そのうち記事にしようと思っているのですが、そんなわけで、冬になってもくっきりとした紀伊半島を見ることはほとんどなくカメラに収められないのです。そして、風の弱い日はどんよりとして雲に覆われた風景になってしまいます。
 こんな具合で
   

 布団から出て外を眺めても、気が晴れるような世界はなかなか広がっていてはくれません。そんな中で、気分も沈みがちの一週間でした。

    冬日和わが吐く息が靄となる  弁人

 今日はここまでと思って窓の外を見るや、なんと雪が降っています。

   


    療養と定めし朝の雪景色   弁人


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鎮魂の祈り

2009-01-17 21:02:55 | 身辺雑記
1月17日(土)

 あれから14年。「阪神淡路大震災」という名称は当時の閣議で決めた俗称で、気象庁の正式名称は「兵庫県南部地震」です。「阪神淡路」だと明石が含まれないということで、こちらでは後者の名称を使うそうです。

 震災からしばらく5時46分で止まったままになっていた明石天文科学館の時計台
      
  
 それはさておき、明石に来てから、心の隅に「1月17日はどうしようかな」という思いがありました。

 先週はKAZUが風邪気味で、早めに迎えに行ったり、木曜日は午前中に引き取ってほぼ一日そばにいました。
 そうこうしてうっかりしているうちに、気がつけば17日、KAZU一家は完全休養になったので、私は神戸の「慰霊のつどい」に行くことにしました。

 会場は市役所の隣の公園です。献花をして、ろうそくに明かりを灯しました。
  

   

    


   鎮魂のメロディ重たく震災忌   弁人


 そっと涙をこらえている人、ハンカチを顔にしてしゃくりあげている人もいます。そういう光景をここぞとばかり映像に収めるカメラマン、メディアのあり方をまたまた考えさせられました。


 ところで、当時、娘(KAZUの母親)は大学生でした。札幌にいたのですが、ボランティアで避難所に出向きました。ひと月以上連絡がなくずいぶん心配しましたが、ある日、神戸の小学校の校長先生から丁重にお礼の電話をいただきました。「ゆっくり休ませてあげてほしい」という話だったのに、娘は次の避難所へ行ってしまい、なかなか帰って来ませんでした。
 帰ったあと、関空から現場に行き着くまでの苦労話はしましたが、避難所での様子は「その場にいなかった人には何も話せない」のひと言でした。とても説得力があるように思い、私はそれ以上何も聞きませんでした。
 
 二年後に、三浦半島地区の「教育フォーラム」を企画した時に、避難所になった神戸の高校の先生を招きました。貴重な話をたくさん聞くことができ、娘のひと言から察した状況をかなり理解できました。


 犠牲者の80パーセントは建物の倒壊によるものです。動けずに焼死したした人が多くいて、その地獄絵をまのあたりにして親を失った子どもたち、もう二十歳くらいでしょうか。町で若者の姿を見ると、ときどきそんなことを思い胸が痛くなります。


   駆けめぐる思いが沈む冬の空   弁人


 今日は橋のイルミネーションも白一色です。
    
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番外 「0系新幹線の思い出」付録

2009-01-16 12:05:11 | 鉄道
1月16日(金)

 12月2日に「0系新幹線の思い出」の記事を載せましたが、「切符や当時の写真」を載せるということになっていました。なにしろ40年以上も前のもの、期待と不安の中で探し出しました。
 やや色褪せてはいるものの、切符は健在。カラー写真は劣化がひどく、モノクロは小型のハーフサイズのカメラで撮っていたので、きれいには写っていませんでした。期待に沿えないかもしれませんが、番外編として写真を並べてみます。

 これが、開通一番列車「ひかり1号」の切符です。2500円で大阪へ行けたのです。現在はエキスプレスカードだと13000円です。
    

 すいません、12月の記事について訂正があります。
 一つ、私が一人で乗ったのは、「駄々をこねた」とありましたが、記憶をたどると、初めは「2枚入るので一緒に行こう」という話だったのが、結局1枚しか手に入らず、大人が譲ったのでした。同じようなものかな。
 次に、「大阪電環行き」と記しましたが、「大阪市内行き」でした。
 もう一つ、「無効」のスタンプを押された駅ですが、「大阪城公園駅」は1983年開設だそうで、当時はなかったのかもしれません。でも、電車を降りて大阪城を歩き、梅田に戻ったのは確かです。

 さて写真です。まずは当日早朝の東京駅ホーム。1時間前に着いていた模様。
  

 左が中学三年の私。右に見送りの母、叔母、姉。
  

 1号車のNHK放送ブース。取り急ぎ準備中。
  

 ホームの先頭に吹奏楽団。その演奏に送られて発進。
  

 ビュッフェにあったアナログ式?スピードメーター。200㌔に到達した時の写真しかありませんでした。210㌔は出さなかったのかもしれません。
    

 約半世紀前の名古屋駅新幹線側のとても信じがたい風景。
  

 新大阪駅セレモニー
  
   

 大阪(梅田)駅前。日本中がオリンピックで盛り上がっていました。
  

 ところで、新幹線の切符と一緒に、こんな切符もありました。当時私は蔵前の中学に通っていたので、浅草橋から往復したのかもしれません。なんと片道20円。東京駅のは記念・保存用で購入したもの。
    

 大阪に戻ります。梅田から地下鉄で道頓堀へ。御堂筋から戎橋方面のおなじみの風景。
  

 先日に撮った写真。グリコの広告は不変です。
  

 今はなくなった道頓堀の松竹朝日座。「本日初日」からこの日の日付がわかります。
    

 帰途は、名古屋まで上本町から憧れの近鉄特急2階建てビスターカー。おそらく当時2階建て列車は近鉄特急だけだったと思います。
   

 名古屋駅にて。この写真は下り線ホームで新大阪行きの列車を撮影したもの。
  

 ひかり26号の切符です。これをどうやって返さずに済んだのかわかりません。裏を見ると、なんと2枚とも「0001」です。10時半頃に新大阪駅で購入したのですが、きっと、名古屋からの切符を買う人はできたての新大阪駅には来なかったのでしょうね。それと、国鉄の改札を出ていないのに購入できています。今もそうなっているのか、今度新大阪へ行った時に確かめます。
  

 余談ですが、1964年10月1日は木曜日でした。念のため、学校をサボったのではありません。10月1日は都民の日で、東京都の学校はお休みなのです。


    初夢はセピアのひかりに乗れりけり  弁人

 - 完 -

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都大路を駆け抜ける

2009-01-12 10:47:38 | スポーツ観戦等
1月11日(日)

 以前から、京都で駅伝を見てみたい、高校駅伝がいいかなと思っていましたが、12月21日当日は逗子へ戻っていたので、テレビ観戦でした。
 今日は風が強く寒いけれども天気は回復、それじゃあ「都道府県対抗女子駅伝」をと西京極陸上競技場へ向かいました。

   

 スタンドからはうっすらと雪化粧した比叡山も
   


     県人会の旗を並べて新年会    弁人

 12:30、スタートの号砲
   

   

 私も駅まで走って、阪急と地下鉄烏丸線で追っかけっこ。

 まずは烏丸丸太町の京都御苑の角。ここは3区中学生区間の残り500m地点。
   


     雪晴や都大路は華模様   弁人

 次は宝ヶ池国際会館前の中継点。写真は後続の選手ですが、岡山がトップで京都と兵庫がデットヒートの展開。
   

 復路に入ると、宝ヶ池通りの正面に比叡山。
   


   ランナーの行く手は比叡の雪化粧   弁人

 西京極に戻って、最終区は五条通り天神橋の残り1㎞地点。
 強い京都、5連覇へまっしぐら。
   

 1分ほど離れて岡山が。
   


   冬の空ラピッドレディの腕まくり  弁人


 20年以上前から、正月の2日に箱根駅伝を追っかけているのですが、片道5時間半以上の長丁場、それに、観戦ポイントや移動のタイミングも心得ているので、5、6ヶ所で応援ができます。
 しかし、今回は全行程2時間余りしかありません。さらに、駅のホームや階段の位置に不案内な上、地下鉄の出口は位置が把握しづらいので、とても苦労しました。
 結論として、京都の駅伝の観戦は、西京極から宝ヶ池を往復するか、どこかのポイントに絞るのが良いようです。
 
 ということで、寒風の中にもかかわらず、私も走って大汗の駅伝観戦でした。

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十日戎「えべっさん」

2009-01-11 01:03:14 | お出かけ・散策
1月10日(土)

 10月の記事で紹介しましたが、KAZUの保育園は神社です。とても由緒のある明石でも有数の神社です。

 水曜日の夕方、保母さんから「初ゑびす」のお祭りの案内をいただきました。
 実は、この稲爪神社の境内には、もう一つ「稲爪濱恵比寿神社」の社殿があり、10日は「初ゑびす」、前日の宵祭りから三日間たいそう盛り上がるのです。
  


    七草粥も笑顔で食す恵比須さま  弁人

 9日の夕方、KAZUを迎えに行こうとする頃、西風に乗って、私の住まいにも雅楽の音色が届いてきました。
 「土曜日はみんなでお祭りに行こう」と話していたのですが、ちょっと寒すぎるし、今週はKAZUも両親も5日間皆勤で疲れもあるだろうと躊躇していました。


 それならばと思いついて、全国的に有名な、大阪の今宮戎神社の「十日戎」に行ってみました。

 難波の商店街から歩いて行くと、
  「年の初めのえべっさん、商売繁昌で笹持って来い」
 というやけに威勢のよい唄の声が近づいてきました。

 神社の境内はどこにでもあるような広さなのですが、周囲1㎞位は、この寒さもなんのその、金魚すくいも含めてありとあらゆる出店が並んでいました。
 東京でいえば、私の実家のそばの「酉の市」のような感じでしょうか。神社の周辺には熊手や籠やざるの飾り物の店が賑やかで、人の波も、参拝する時の賽銭投げも同じでした。
  

  
 
 社殿の脇で、福娘と呼ばれる女性を中心に、笹を配ります。その笹に、小判、米俵、小槌など「吉兆」と呼ばれるものを買い求めて結びつけるのですが、いろいろ付けると、2万円近くにもなるそうです。
  

 本殿の裏に銅鑼が二つあり、参拝を終えた人が手の平で叩くのですが、これがまたすごい混雑。
  

 さて、今日の私鉄は南海電車です。実は一度も乗ったことがなかったので、今宮戎から難波まで一駅だけ乗ってみました。
  

 道頓堀へ向かうと、千日前の商店街に今宮戎の「宝恵駕籠」の行列。
   

 姿を消した「くいだおれ人形」のそば、戎橋の前のスクリーンに私の顔も仲間入り。
  


   関の西寒さ一入初戎   弁人


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2009年.仕事始め

2009-01-05 20:58:03 | KAZU君
1月5日(月)

 昨日、KAZUの一家と明石に戻りました。

   松の内うとうとしている暇もなく  弁人


 まず眼を覚ましてから、


 昼前に逗子を出て、
  

 東京駅から新幹線。


 乗り換えを避けて、西明石直通の「ひかり」号です。
  
       今日は300系でした。
 700系に比べると、トンネル内とすれ違いの時の風圧による揺れの大きさが目立ってしまいます。年末に乗った東北新幹線もこんな感じではありませんでした。
 
 ところで、KAZUは8月に「のぞみ」に乗りましたが、今回初めて「多目的室」というのを使用しました。おむつ替えと授乳のためなので写真はありません。

 それはともかく、KAZUの長旅もようやく終わりました。はたして、一晩で平常の暮らしに戻れるやいなや、私もちょっと心配しながら床につきました。

 
 そして今朝。10日ぶりの保育園でした。大丈夫かなと思いきや、すんなりとベビィベッドに入ったそうで、母親も思わず気が抜けてしまったそうです。
  
   幼子も仕事初めぞ保育園   弁人

 やがて夕方に。寒の入りで気温は低いものの、今日の明石の日の入り時刻は17:03で、確実に日脚が延びています。
 私のマンションの駐車場から歩き始めた時はまだ少し明るい。
  

 でも、「ほら、なあぁ」「アーウー」と会話しながら歩いているうちに暗くなりました。
  


   蛸壺や身も縮むらん寒の入り   弁人

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あけましておめでとうございます

2009-01-01 08:24:45 | 身辺雑記
     謹賀新年
                2009年 元旦

   
    
 とっても静かで穏やかな新年です。やはり我が家は落ち着きます。


    初春や隣の犬の吠ゆる声   弁人

 
 明日への不安を積み残したまま新年を迎えた私たちの社会。人は、今日の青空と陽光と澄んだ空気に何かを感じ取って行動しなければいけませんね。


 さて、孫のKAZU君ですが、暮れの29日に、飛行機で熊本にある父親の実家に行きました。そして、今日の夕方羽田に到着です。
 明日は浅草の私の実家と中野の妻の実家に行く予定になっています。
 4日の日曜日に、私も一緒に両親共々4人で明石に帰りますが、なんと生後6ヶ月にして6泊7日の大旅行です。
 はたして、今日どんな顔をして逗子に現れるのか楽しみにしています。とにかく、疲れを残さないように注意してあげようと思っています。

         


    初富士を越えて童子が飛んでくる   弁人

 
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