3月31日(水)
関東には普通にあるのに、関西ではほとんどみられないものが時々あります。
その一つが「筋子」。ちょっと生臭くて塩辛いのですが、酒のつまみにもなるし、あつあつのご飯に乗せるとたまりません。関西ではどのお店にも「イクラ」はいくらでもあるのですが、「筋子」は見たことがありませんでした。聞いてみると、「正月前に置くことがあるけれど、ふだんはねぇ」という返事でした。
「関東になかったり、関西になかったり」という話題については別の機会にしますが、先日、あるスーパーの魚介類売り場に「筋子」を見つけました。さっそく買い求めたのですが、やはり関西では口にする人が少ないのでしょうか、パックにこんな表示がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/d5/862264a9d7a4fd5ba64d798a9074b033.jpg)
「食べれます」。意味は通じますが、典型的な「ら抜きことば」です。
方言の中で「ら抜きことば」が定着していることがあるという話を聞いたことがあります。もしかすると、関西弁もその中に入っているのでしょうか。でも、昨今は標準語の世界で若い人を中心に頻繁に使われるのでよくわかりません。
つい最近、テレビのアナウンサーが子どもに「ボクはピーマンは食べれるかな?」と話しかけていて苦笑してしまいました。
また、かつてジャイアンツの監督だった方がテレビ解説で「このピッチャー、若いのにいい変化球が投げれますからね。期待できますよ」と言っていました。出身地の方言のせいなのか、ことば遣いを勉強する間がなかったのか、いずれにしてもずっと野球の世界で自分を磨いてきたわけですから、そんなことはどうでもいいでしょう。
実はこの解説者、時々若い世代の人の中には首をかしげる人も多いかもしれないような、なかなか味のあることばを披露するのです。
こんなふうに。
「ここは1点勝負ですから、堅く走者を進めるものと思っていましたが、あにはからんや、意外な作戦に出ましたね」(あにはからんや)
とか、
「今日のダルビッシュは120パーセントと言っても過言ではないくらい完璧な内容でしたがね、惜しむらくはあの一球、コースが微妙に甘かった」(惜しむらくは)
とか、
「ここはまず同点に追いつくという局面だったのですが、あわよくば逆転もという期待があったのでしょうね」(あわよくば)
とか。
どなただかわかりますか、ここでは名前は出しませんけど。まあ、還暦を過ぎているので「年の功」とも言えますが、こういう表現が自然に出てくる一方で「投げれる」という言い方も身に付いている。ということはそれだけ「ら抜きことば」が一般化しているということなのでしょうか。
さて、そろそろ本題へ
私は、違和感があるので「ら抜きことば」は使いません。でも、他人の表現には頓着しないことにしています。こういう表現が生れてくる理由はそれなりにあるし、そのことでことばの解釈がしやすくなっている面があるからです。
「思わ・れる」の「れる」、「着・られる」の「られる」は助動詞で、五段活用の動詞には「れる」、一段活用系の動詞には「られる」が付くことになっています。「ら抜きことば」というのは、「られる」を使わなければならない後者の時に、「ら」を省いた「れる」を付けてしまう表現なのです。
「このサイズで着られるかなあ」と言わないで「着れるかなあ」と言うように。
ところが、例えば「食べる」という動詞にこの助動詞を付ける時に、「食べれる」という「ら抜きことば」の表現にすると、「食べることができる」という「可能」の意味に限定されるのです。「受身」の時に「赤ずきんちゃんが狼に食べれる」とは絶対に言いません。この場合は誰もが「食べられる」と言います。
実は、この助動詞には「受身」「尊敬」「可能」「自発」と意味がいくつもあるのです。「思われる」を例にすると「人から思われる」「お思いになる」「そのように思うことができる」「思わないではいられない」というように。
これらの意味の違いはその時の状況から読み取るわけですが、「この布団、よく寝れるよ」と言えば、「可能」の意味でしか受け取れませんから、そのぶん誤解が少なくなっているのかもしれないのです。「寝られる」と正しく言うと、「おやすみになる」とか「先に寝られていびきがうるさい」とかの意味も浮かんできます。「投げれる」は「投げることができる」という意味ですが、「投げられる」となると、「受身」や「尊敬」の意味が浮かんでくるのと同じです。
それでは、なぜ「可能」の時にこういう表現が生れてきたのかというと、それにはちゃんとわけがあるのです。
上に「思わ・れる」という例を出しましたが、五段活用動詞の場合は、エ段の「思え」に「る」を付ける「思え・る」という可能動詞が別にあるのです。「書く」に対して「書ける」、「読む」に対して「読める」、「座る」に対して「座れる」というように。
この「エ段」に「る」が付くと「可能」になるという言い方が影響して、一段活用系の動詞でも、「られる」ではなく「れる」を付けたくなるのです。「外に出れる」「本が借りれた」のようにです。「速く走れる」(五段活用「走る」の可能動詞)という言い方があると、つい「早く起きれる」(一段活用「起きる」のら抜きことば)と言いたくなるのもわかるような気がします。
ことばは日々変化して行きます。そして変化した表現が、その時代の人の中で通用するようになれば、それは新しい表現として認めなければなりません。成立の過程に根拠があって、効用もあるとすればなおさらのことです。したがって、「ら抜きことば」は正しい表現として認めるべきだという考えは受け容れざるを得ないのかもしれません。
それでも、やっぱり「このままで食べれます」と書かれると考えてしまいます。
ひとつ。話しことばであれば許容できるのかもしれません。でも、ことばは話しことばが変わると、次は書きことばに波及してくるのは避けられません。国語の教師を辞めてよかったかな。作文の添削で「ら抜きことば」を直すと「古くさい」と言われる時代になるのかもしれません。
もうひとつ。同じ一段系の動詞でも、「ら抜きことば」にならないのもありそうなのです。「タバコがなかなかやめれない」「僕なら泥棒を追いかけれる」って変ではないですか。でも、「そんなのはその人の感じ方に過ぎず、私は変だと思わない」という人がいたりすると一蹴されそうですね。
そこで、少しは根拠のありそうなことを。これは詳しく分析したわけではないので、絶対的な自信はありませんが、実は、語幹が2音以上の時は「ら抜きことば」が成立しないのではないかと思っています。例えば、「調べる」「教える」「答える」「数える」などはどうでしょうか。これらもいつかは「ら抜きことば」が成立するようになって、「可能」の時は、「図書館へ行けば調べれる」、「英語なら教えれる」、「彼なら答えれる」、「一から十までなら数えれる」と言うようになるのでしょうか。とてもそうなるとは思えないのですが、仮にそれが変化の必然だとしても、あと数十年は優にかかりそうです。私はそれまで生きていないのでちょっと安心。
最後はどこか話題が「地球温暖化」と同じような、自分がお墓の中に入ったあとの心配事になってしまいました。
センバツに出れて投げれてヒーローに 弁人
【追記】
昨日、逗子の町を歩いていて、こんな表示に出会いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/3b/e32a6bbd6f1fb9a96ad31eb0028a5aef.jpg)
「カマ上げ」は「釜上げ」にしてほしかったのですが、「食べられます」は実に自然できれいな日本語ではないですか。
きっと古くさい人間になってしまったのでしょう、こういうことばに出会うと、ちょっとばかりほっとしてしまうのです。
「おいらの住んでいる所はちゃんとした日本語だぜぇ」っていう感じ。
でも、あと何十年か経つとですよ、
「こういう場合はですね、『ら』が入っているので、ひじきが人間に食べられるというふうに『受身』で解釈しないといけませんね」
とか教えている先生がいるのかもしれません。
(記 4月5日)
関東には普通にあるのに、関西ではほとんどみられないものが時々あります。
その一つが「筋子」。ちょっと生臭くて塩辛いのですが、酒のつまみにもなるし、あつあつのご飯に乗せるとたまりません。関西ではどのお店にも「イクラ」はいくらでもあるのですが、「筋子」は見たことがありませんでした。聞いてみると、「正月前に置くことがあるけれど、ふだんはねぇ」という返事でした。
「関東になかったり、関西になかったり」という話題については別の機会にしますが、先日、あるスーパーの魚介類売り場に「筋子」を見つけました。さっそく買い求めたのですが、やはり関西では口にする人が少ないのでしょうか、パックにこんな表示がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/d5/862264a9d7a4fd5ba64d798a9074b033.jpg)
「食べれます」。意味は通じますが、典型的な「ら抜きことば」です。
方言の中で「ら抜きことば」が定着していることがあるという話を聞いたことがあります。もしかすると、関西弁もその中に入っているのでしょうか。でも、昨今は標準語の世界で若い人を中心に頻繁に使われるのでよくわかりません。
つい最近、テレビのアナウンサーが子どもに「ボクはピーマンは食べれるかな?」と話しかけていて苦笑してしまいました。
また、かつてジャイアンツの監督だった方がテレビ解説で「このピッチャー、若いのにいい変化球が投げれますからね。期待できますよ」と言っていました。出身地の方言のせいなのか、ことば遣いを勉強する間がなかったのか、いずれにしてもずっと野球の世界で自分を磨いてきたわけですから、そんなことはどうでもいいでしょう。
実はこの解説者、時々若い世代の人の中には首をかしげる人も多いかもしれないような、なかなか味のあることばを披露するのです。
こんなふうに。
「ここは1点勝負ですから、堅く走者を進めるものと思っていましたが、あにはからんや、意外な作戦に出ましたね」(あにはからんや)
とか、
「今日のダルビッシュは120パーセントと言っても過言ではないくらい完璧な内容でしたがね、惜しむらくはあの一球、コースが微妙に甘かった」(惜しむらくは)
とか、
「ここはまず同点に追いつくという局面だったのですが、あわよくば逆転もという期待があったのでしょうね」(あわよくば)
とか。
どなただかわかりますか、ここでは名前は出しませんけど。まあ、還暦を過ぎているので「年の功」とも言えますが、こういう表現が自然に出てくる一方で「投げれる」という言い方も身に付いている。ということはそれだけ「ら抜きことば」が一般化しているということなのでしょうか。
さて、そろそろ本題へ
私は、違和感があるので「ら抜きことば」は使いません。でも、他人の表現には頓着しないことにしています。こういう表現が生れてくる理由はそれなりにあるし、そのことでことばの解釈がしやすくなっている面があるからです。
「思わ・れる」の「れる」、「着・られる」の「られる」は助動詞で、五段活用の動詞には「れる」、一段活用系の動詞には「られる」が付くことになっています。「ら抜きことば」というのは、「られる」を使わなければならない後者の時に、「ら」を省いた「れる」を付けてしまう表現なのです。
「このサイズで着られるかなあ」と言わないで「着れるかなあ」と言うように。
ところが、例えば「食べる」という動詞にこの助動詞を付ける時に、「食べれる」という「ら抜きことば」の表現にすると、「食べることができる」という「可能」の意味に限定されるのです。「受身」の時に「赤ずきんちゃんが狼に食べれる」とは絶対に言いません。この場合は誰もが「食べられる」と言います。
実は、この助動詞には「受身」「尊敬」「可能」「自発」と意味がいくつもあるのです。「思われる」を例にすると「人から思われる」「お思いになる」「そのように思うことができる」「思わないではいられない」というように。
これらの意味の違いはその時の状況から読み取るわけですが、「この布団、よく寝れるよ」と言えば、「可能」の意味でしか受け取れませんから、そのぶん誤解が少なくなっているのかもしれないのです。「寝られる」と正しく言うと、「おやすみになる」とか「先に寝られていびきがうるさい」とかの意味も浮かんできます。「投げれる」は「投げることができる」という意味ですが、「投げられる」となると、「受身」や「尊敬」の意味が浮かんでくるのと同じです。
それでは、なぜ「可能」の時にこういう表現が生れてきたのかというと、それにはちゃんとわけがあるのです。
上に「思わ・れる」という例を出しましたが、五段活用動詞の場合は、エ段の「思え」に「る」を付ける「思え・る」という可能動詞が別にあるのです。「書く」に対して「書ける」、「読む」に対して「読める」、「座る」に対して「座れる」というように。
この「エ段」に「る」が付くと「可能」になるという言い方が影響して、一段活用系の動詞でも、「られる」ではなく「れる」を付けたくなるのです。「外に出れる」「本が借りれた」のようにです。「速く走れる」(五段活用「走る」の可能動詞)という言い方があると、つい「早く起きれる」(一段活用「起きる」のら抜きことば)と言いたくなるのもわかるような気がします。
ことばは日々変化して行きます。そして変化した表現が、その時代の人の中で通用するようになれば、それは新しい表現として認めなければなりません。成立の過程に根拠があって、効用もあるとすればなおさらのことです。したがって、「ら抜きことば」は正しい表現として認めるべきだという考えは受け容れざるを得ないのかもしれません。
それでも、やっぱり「このままで食べれます」と書かれると考えてしまいます。
ひとつ。話しことばであれば許容できるのかもしれません。でも、ことばは話しことばが変わると、次は書きことばに波及してくるのは避けられません。国語の教師を辞めてよかったかな。作文の添削で「ら抜きことば」を直すと「古くさい」と言われる時代になるのかもしれません。
もうひとつ。同じ一段系の動詞でも、「ら抜きことば」にならないのもありそうなのです。「タバコがなかなかやめれない」「僕なら泥棒を追いかけれる」って変ではないですか。でも、「そんなのはその人の感じ方に過ぎず、私は変だと思わない」という人がいたりすると一蹴されそうですね。
そこで、少しは根拠のありそうなことを。これは詳しく分析したわけではないので、絶対的な自信はありませんが、実は、語幹が2音以上の時は「ら抜きことば」が成立しないのではないかと思っています。例えば、「調べる」「教える」「答える」「数える」などはどうでしょうか。これらもいつかは「ら抜きことば」が成立するようになって、「可能」の時は、「図書館へ行けば調べれる」、「英語なら教えれる」、「彼なら答えれる」、「一から十までなら数えれる」と言うようになるのでしょうか。とてもそうなるとは思えないのですが、仮にそれが変化の必然だとしても、あと数十年は優にかかりそうです。私はそれまで生きていないのでちょっと安心。
最後はどこか話題が「地球温暖化」と同じような、自分がお墓の中に入ったあとの心配事になってしまいました。
センバツに出れて投げれてヒーローに 弁人
【追記】
昨日、逗子の町を歩いていて、こんな表示に出会いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/3b/e32a6bbd6f1fb9a96ad31eb0028a5aef.jpg)
「カマ上げ」は「釜上げ」にしてほしかったのですが、「食べられます」は実に自然できれいな日本語ではないですか。
きっと古くさい人間になってしまったのでしょう、こういうことばに出会うと、ちょっとばかりほっとしてしまうのです。
「おいらの住んでいる所はちゃんとした日本語だぜぇ」っていう感じ。
でも、あと何十年か経つとですよ、
「こういう場合はですね、『ら』が入っているので、ひじきが人間に食べられるというふうに『受身』で解釈しないといけませんね」
とか教えている先生がいるのかもしれません。
(記 4月5日)