6月27日(日)
六月、いわゆる「水無月」もあとわずか。梅雨空の下、今日も一日中湿っぽい南風が吹き続けていました。
ところで、今月の初めのテレビ番組の中でのやりとりです。
「今日から水無月ですが、雨の多い六月なのになぜ「水無月」なのかと言うと、実はいくつか説があります。一つは、旧暦の水無月は今で言うと7月の中旬以降、つまり梅雨明けの季節を指しているという説。しかし有力なのは、「みなづき」の「な」は連体修飾の助詞「の」と同じで、「水の月」という意味であるという説です」
「文法は難しいので、どなたか「連体修飾」という用語についてわかりやすく解説していただけませんか?・・・・どうも全員降参のようですね」
私は上の二つの説のうちの後者のほうが正しいと思っています。となると、やはり文法的な説明が必要なのでしょうか。
そこで、簡単に。
「助詞」というのは単独では意味をなさず、意味を有する語(自立語)に付いて初めて機能を発揮します。「の」とか「が」とか「に」とか「を」とかをそれだけで発しても何を言っているのかわかりません。
「の」の場合で言うと、体言(名詞)と体言の間で接着剤のように働きます。「学校の階段(怪談)」とか「私の家」とかいうように。
例えば「ボール」と言ってもいろいろありますが、上に「ゴルフの」とか「サッカーの」と言えばイメージがはっきりします。つまり「ゴルフ」ということばの下に「の」が付くと、二語が一体となって次に来る体言の属性を説明する、これを「修飾」と言いますが、そういう働きを持つようになります。
正式に言うと、「あることばに付いて、次に続く(連なる)体言を修飾する資格を作る」ということになります。略して「連体修飾格」の用法と言うのです。
さて、今日の本題です。
どうも、その昔「な」ということばには、上記の「の」と同じ働きがあったようなのです。
山上憶良の「子等を思ふ歌」に、
「・・・ いづくより 来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠
(やすい)しなさぬ」
とあります。
「子どもというのはいったいどこからやってきた賜わり物なのだろうか。そのかわいい顔がまぶたのあたりに焼きついて、ぐっすりと寝ることもできない」
という意味です。
かつて「目」は「ま」と言っていました。「まぶた」「まつげ」「まばたく」「まのあたりにする」と言うように。上の歌の「まなかひ」は「目の交わるあたり」という意味で、「な」は「の」と同じ意味であることがわかります。「まなじりをつり上げる」の「まなじり」も「目の尻」という意味です。
ことばというのは、初めに発音があって、表記は後からというのが普通です。子どもだって、ことばを習得するのに初めは文字からということはあり得ません。したがって、「水の月」を「みなづき」と発音し、表記する時に「無し」の「無」の字を当てたということは十分に考えられます。
阪急電車の高槻の先、山崎の手前にこういう名前の駅があります。
ここはかつて後鳥羽上皇の離宮があった所で、伊勢物語にも、惟喬親王が可愛がっていた在原業平らしき右馬頭と一緒に水無瀬の離宮にお出かけになったという話があります。
一行が離宮へお出ましになって、淀川の対岸で狩りをした時に右馬頭が詠んだ「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という歌が有名です。
駅から10分ほど歩くと、離宮の跡に鎮座したという水無瀬神宮があります。
名水百選「離宮の水」
「瀬」というのは川の流れの早い所を指します。はたして「水の無い瀬」というのが存在するでしょうか。
水無瀬神宮の脇を流れる川
一級河川です。「水の無い瀬の川」でないことは明白
振り返ると、新幹線と阪急電車の線路が川を跨いでいました
そういえば、鎌倉の稲村ヶ崎の先に同じような名称の川と橋がありました。
音無川にかかる音無橋
海岸なので、海水が逆流することもあるでしょうが、とても「流れる音が聞こえない川」とは思えません。旅に出ると、よく「音無の滝」という名の滝に出会いますが、水はちゃんと音をたてて流れ落ちています。
大和には「神奈備の山」と言われる山がいくつかあって、万葉集にもよく歌われています。意味はもちろん「神様の宿っている山」となります。
「神奈川」という県名も「神の川」という意味でしょう。横浜駅の隣に京浜急行の「神奈川」という駅があります。その東に神奈川宿がありますが、そのそばを流れている「滝の川」という川が昔「神の川」だったのかもしれません。
埼玉に「神流川」という川があって「かんながわ」と読みます。また富山には「神通川」があり、これは「じんつうがわ」と音読みしますが、おそらく、みな「神な(の)川」で、「な」を漢字表記する際にそれぞれの漢字が当てられたのだと思います。
したがって、「水無月」は「水の月」ということになりそうですが、別に梅雨時だからというわけではなさそうです。月の異名の中には、稲作と関係している呼称がいくつかあるようなのです。五月の「皐月」は苗代に早苗が出揃う頃と考えると、「水無月」は田に水を張って田植えをする時期ということなのかもしれません。さらに八月の「葉月」は稲の穂が黄金色になる前の青々とした葉が輝く時期と考えられないでしょうか。
水無瀬川付近の水無月の水田
水無月や小川の脇の田水満ち 弁人
さらに十月の「神無月」という呼称ですが、よくテレビなどで「神様が出雲にお集まりになり、全国的には神様の留守の月で『神無月』、それで出雲だけは『神有月(かみありづき)』と言う」と解説したりしますが、これは漢字表記を鵜呑みにしただけの勝手な解釈と言えるでしょう。十月は稲を収穫し田の神に感謝してお祭りを行う月、つまり全国各地で秋祭りが行われる「神の月」なのですから。
ことばは初めに音声があり、後に文字化されると言いましたが、子どもが絵本を読んだり、学齢に達して教科書で勉強するようになると、気付かないうちに文字化された表記からことばを習得するようになり、やがて、表記された文字をそのまま受け取ってあらぬ解釈をするようになったりするのです。
因みに、例に挙げた「まつげ」の「つ」も「の」と同じ連体修飾格の助詞で、つまり「目の毛」ということです。古歌によく「天つ風」とか「沖つ白波」とかいうことばが出てきますが同様で、「つ」を「の」に置き換えると解りやすい。相撲部屋の「時津風」という名称も「時代の風に乗って一世を風靡する」という意味です。最近とんでもない事件で世間を騒がしているようで名前が泣いていますが。
六月、いわゆる「水無月」もあとわずか。梅雨空の下、今日も一日中湿っぽい南風が吹き続けていました。
ところで、今月の初めのテレビ番組の中でのやりとりです。
「今日から水無月ですが、雨の多い六月なのになぜ「水無月」なのかと言うと、実はいくつか説があります。一つは、旧暦の水無月は今で言うと7月の中旬以降、つまり梅雨明けの季節を指しているという説。しかし有力なのは、「みなづき」の「な」は連体修飾の助詞「の」と同じで、「水の月」という意味であるという説です」
「文法は難しいので、どなたか「連体修飾」という用語についてわかりやすく解説していただけませんか?・・・・どうも全員降参のようですね」
私は上の二つの説のうちの後者のほうが正しいと思っています。となると、やはり文法的な説明が必要なのでしょうか。
そこで、簡単に。
「助詞」というのは単独では意味をなさず、意味を有する語(自立語)に付いて初めて機能を発揮します。「の」とか「が」とか「に」とか「を」とかをそれだけで発しても何を言っているのかわかりません。
「の」の場合で言うと、体言(名詞)と体言の間で接着剤のように働きます。「学校の階段(怪談)」とか「私の家」とかいうように。
例えば「ボール」と言ってもいろいろありますが、上に「ゴルフの」とか「サッカーの」と言えばイメージがはっきりします。つまり「ゴルフ」ということばの下に「の」が付くと、二語が一体となって次に来る体言の属性を説明する、これを「修飾」と言いますが、そういう働きを持つようになります。
正式に言うと、「あることばに付いて、次に続く(連なる)体言を修飾する資格を作る」ということになります。略して「連体修飾格」の用法と言うのです。
さて、今日の本題です。
どうも、その昔「な」ということばには、上記の「の」と同じ働きがあったようなのです。
山上憶良の「子等を思ふ歌」に、
「・・・ いづくより 来たりしものぞ まなかひに もとなかかりて 安眠
(やすい)しなさぬ」
とあります。
「子どもというのはいったいどこからやってきた賜わり物なのだろうか。そのかわいい顔がまぶたのあたりに焼きついて、ぐっすりと寝ることもできない」
という意味です。
かつて「目」は「ま」と言っていました。「まぶた」「まつげ」「まばたく」「まのあたりにする」と言うように。上の歌の「まなかひ」は「目の交わるあたり」という意味で、「な」は「の」と同じ意味であることがわかります。「まなじりをつり上げる」の「まなじり」も「目の尻」という意味です。
ことばというのは、初めに発音があって、表記は後からというのが普通です。子どもだって、ことばを習得するのに初めは文字からということはあり得ません。したがって、「水の月」を「みなづき」と発音し、表記する時に「無し」の「無」の字を当てたということは十分に考えられます。
阪急電車の高槻の先、山崎の手前にこういう名前の駅があります。
ここはかつて後鳥羽上皇の離宮があった所で、伊勢物語にも、惟喬親王が可愛がっていた在原業平らしき右馬頭と一緒に水無瀬の離宮にお出かけになったという話があります。
一行が離宮へお出ましになって、淀川の対岸で狩りをした時に右馬頭が詠んだ「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という歌が有名です。
駅から10分ほど歩くと、離宮の跡に鎮座したという水無瀬神宮があります。
名水百選「離宮の水」
「瀬」というのは川の流れの早い所を指します。はたして「水の無い瀬」というのが存在するでしょうか。
水無瀬神宮の脇を流れる川
一級河川です。「水の無い瀬の川」でないことは明白
振り返ると、新幹線と阪急電車の線路が川を跨いでいました
そういえば、鎌倉の稲村ヶ崎の先に同じような名称の川と橋がありました。
音無川にかかる音無橋
海岸なので、海水が逆流することもあるでしょうが、とても「流れる音が聞こえない川」とは思えません。旅に出ると、よく「音無の滝」という名の滝に出会いますが、水はちゃんと音をたてて流れ落ちています。
大和には「神奈備の山」と言われる山がいくつかあって、万葉集にもよく歌われています。意味はもちろん「神様の宿っている山」となります。
「神奈川」という県名も「神の川」という意味でしょう。横浜駅の隣に京浜急行の「神奈川」という駅があります。その東に神奈川宿がありますが、そのそばを流れている「滝の川」という川が昔「神の川」だったのかもしれません。
埼玉に「神流川」という川があって「かんながわ」と読みます。また富山には「神通川」があり、これは「じんつうがわ」と音読みしますが、おそらく、みな「神な(の)川」で、「な」を漢字表記する際にそれぞれの漢字が当てられたのだと思います。
したがって、「水無月」は「水の月」ということになりそうですが、別に梅雨時だからというわけではなさそうです。月の異名の中には、稲作と関係している呼称がいくつかあるようなのです。五月の「皐月」は苗代に早苗が出揃う頃と考えると、「水無月」は田に水を張って田植えをする時期ということなのかもしれません。さらに八月の「葉月」は稲の穂が黄金色になる前の青々とした葉が輝く時期と考えられないでしょうか。
水無瀬川付近の水無月の水田
水無月や小川の脇の田水満ち 弁人
さらに十月の「神無月」という呼称ですが、よくテレビなどで「神様が出雲にお集まりになり、全国的には神様の留守の月で『神無月』、それで出雲だけは『神有月(かみありづき)』と言う」と解説したりしますが、これは漢字表記を鵜呑みにしただけの勝手な解釈と言えるでしょう。十月は稲を収穫し田の神に感謝してお祭りを行う月、つまり全国各地で秋祭りが行われる「神の月」なのですから。
ことばは初めに音声があり、後に文字化されると言いましたが、子どもが絵本を読んだり、学齢に達して教科書で勉強するようになると、気付かないうちに文字化された表記からことばを習得するようになり、やがて、表記された文字をそのまま受け取ってあらぬ解釈をするようになったりするのです。
因みに、例に挙げた「まつげ」の「つ」も「の」と同じ連体修飾格の助詞で、つまり「目の毛」ということです。古歌によく「天つ風」とか「沖つ白波」とかいうことばが出てきますが同様で、「つ」を「の」に置き換えると解りやすい。相撲部屋の「時津風」という名称も「時代の風に乗って一世を風靡する」という意味です。最近とんでもない事件で世間を騒がしているようで名前が泣いていますが。