チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

夏の終わりの風物詩「地蔵盆」-明石にて

2012-08-29 11:11:26 | 明石風物
8月29日(水)

 明石に来て4回目の夏。何回か8月の下旬に逗子に帰っていたこともあったのかもしれませんが、昨年まで、明石で「地蔵盆」が行われていることに気が付きませんでした。

 一年前の8月の下旬、暑い日差しの中を買い物に出た折のこと。いつも何気なく素通りする駐車場の隅に小さな祠があるのですが、その日は前の扉が外され、きれいな紫の幕が飾られているのが目に留まりました。

  「そうか、お地蔵さんだったんだ」
  

 いつだったか、京都の町の路地を歩いている時に、民家の脇に何気なくお地蔵様の祠があるのを見て、「そういえば、京都には、夏の終わりの風物詩として『地蔵盆』という庶民の行事があると耳にしたことがあったなあ」と思い出し、明石でも「地蔵盆」があるのかなと気になって、通りかかったおばさんに尋ねると、
「昨日で終わりましたよ。あとはお片づけを待っているところでしょう」
とのご返事。まさに「あとの祭り」と言ったところでした。

 ところで、地方に行くと、道の脇に道祖神が立っていたり、馬頭観音や庚申塔などの石仏や石塔によく出会ったりしますが、きっと都会では、そういうものがビルや住居の陰に隠れて目立たないのでしょう。注意して歩いていれば、意外に思いがけない石仏や石塔に出会えるのかもしれません。関東では、住宅のお庭なんかにお稲荷さんが祀ってあるのは時々目に入りますが。

 とにもかくにも、頭の片隅に、関西には「お地蔵様」が多いという認識はあったものの、明石の身近な所で、きれいに飾られた「お地蔵様」を前にし、なおかつ「地蔵盆」は終わった後だと聞いて、それまでの自分の無頓着さを少しばかり反省したことを思い出します。

 考えて見れば、関東でも「六地蔵」や「身代わり地蔵」はいくつもあるし、巣鴨には有名な「とげ抜き地蔵」もあります。逗子の近くの藤沢には、辻堂の北の引地川の近くに「舟地蔵」という交差点があって、いつも車で通過してしまうのですが、脇の公園の中にお地蔵さんが祀られているのです。
 そして、お寺の境内ではない所にある普通の「お地蔵様」は、どこでも近隣の人たちに大切に扱われて信仰を集め、それぞれの所で決まった日に何らかの行事が行われているに違いありません。でも、関東では、七夕や盆踊りのような目立った行事にはなっていないように思います。

 関西で盛んな「地蔵盆」は8月24日ということですが、インターネットで調べると、最近は土日に行う所もあるということで、いづれにしても、今年、その頃に明石にいるかどうかわかりませんでした。
 そこで、7月の下旬に明石にいる時に、とりあえず近所のお地蔵さんを探しておこうかなと、カメラを持って町の路地を歩いてみました。

 さすがに旧西国街道・山陽道の街道筋ということもあって、びっくりするほどたくさん祀られていました。

 いちばん多いのは、
  個人の家の玄関脇にあるお地蔵さんです
  
   


   ひっそりと佇む仏も汗拭い   弁人


 旧街道筋からは少し離れていますが、
  大きな交差点にも
  
 四つ角の脇に鎮座して、雰囲気としては「道祖神」と同じ役目をしているかのような感じです。

 8月23日の朝、
  この交差点を通ると
  
 お地蔵様の祠がきれいに飾られて、テントまで用意されて、どこかのおばちゃんが近所の人とお話をしながら番をしていました。

  お供え物もなかなか豪華です
  

 おばちゃんに、「24日が地蔵盆だって聞いているんだけど、今日の夕方から明日までですか」と聞いたところ、「明日の所もあるかもしれんが、ここは今日一日。せっかくお参りしてくれたのに、まだお菓子の用意ができてなくて」と、申し訳なさそうに言われました。
 「地蔵盆」は子どものお祭りで、この辺りでは、お参りした子どもにお菓子を配るのが慣わしになっているとか。しかし、最近は少子化と都市化が進み、親も一緒にマイカーで巡回する家族や、若いカップルや子連れでない夫婦などもお参りに来るらしく、大人にもお菓子を渡すようになったとかいう話も耳にしていました。

 実は、KAZU君のマンションには管理組合がありますが、町内からのお知らせは住人にはなかなか届かず、私の所も単身者の多い賃貸住宅なので同様で、明石の「地蔵盆」の日がいつなのか、その辺りの情報がさっぱりわからなかったのです。

 いったいいつなんだろうと、二日前の21日にも、明石の観光協会に問い合わせたのですが、町を挙げての行事というよりは、お地蔵さんを管理している個人の家や、その近隣の方々による庶民の行事なので、答えようがないということで埒が開きませんでした。
 翌22日に盆踊りに出向いた時も、年配の方に尋ねてみたのですが、「この盆踊りが、この地区の地蔵盆のお祭りなんじゃ」というばかり。さらに「あっちの道沿いにある地蔵様のことはわからんな」という返答で、結局わからずじまいだったのです。

 それはさておき、交差点のお地蔵様のお祭りが今日一日だとすると、他のお地蔵様も今日なのかもしれないと、地蔵尊の祠がある、前回の記事でKAZU君の写真を撮った家に行ってみると、

 提灯の飾り付け、
  完了していました
  

 こちらの家のお地蔵さんも、
  忙しそうに準備中
  

 狭い路地に佇むお地蔵さんも
  準備万端
  

  「灯台もと暗し」だったか
  
 なんと、私の住まいの近くの公園にもお地蔵様がいらっしゃったのです。

 やっと関係者から話が聞けそうかなと、何ヶ所かで準備をしている人に尋ねているうちに、だいぶ事情がわかってきました。

 やはり、本来「地蔵盆」は24日なのです。お祭りに宵宮があるように、前の日から準備をして「地蔵盆」を祝うのです。この辺りでは土日にこだわることはなく、毎年、平日でも決まった日に行うという話でした。
 かつては、宵盆の翌日の本番の日の朝、つまり24日に、ラジオ体操を終えた子どもたちが近くのお地蔵様にお参りして、ご褒美にお菓子をいただくという慣わしだったのが、だんだんと家族連れで何ヶ所も回る人たちも増え、その車の行き来が多くなって、朝早くから騒がしいのも如何なものかと、近年、前日の夕方にお菓子を配るようになり、23日の夕方から夜にかけてが「地蔵盆」で賑わうということになったようです。
 明石でも地域によっては、今でも24日の朝から子どもたちが集まって来る所もあるという話も聞きました。


 いよいよ、23日の夕方に。日もとっぷりと暮れ、明石の町に「地蔵盆」の宵がやって来ました。今年は風の無い蒸し暑い夕暮れとなりました。

 近くの公園のお地蔵様に
  提灯の灯が入りました
  

 国道2号線を渡ると、ここはすでに
  行列ができています
  

 保育園の近くの「なかよし地蔵」にも
  お参りの列が
  

 旧街道筋の民家のお地蔵さん、どこも
  お参りの人の姿が絶えません
  
   


 買い物用のトートバッグに、貰ったお菓子をたくさん入れている子どもやお母さんもいます。自転車で走り回る子どもたちの、はしゃいだ声が夜の路地に響いていました。


   虫の声ひととき消ゆる地蔵盆   弁人


 今回は私一人だったので、とりあえず、都合十ヶ所ほどのお地蔵様に、「来年、補助輪の取れた自転車に乗ったKAZU君とお地蔵さん参りができますように」とお願いをして、今年の「明石地蔵巡り」を見物させていただいた次第です。

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残暑の厳しさは、もちろん明石も例外ではなく

2012-08-27 12:09:45 | KAZU君
8月27日(月)

 一週間前のことです。お盆休みが明けて、甲子園観戦の帰りにKAZU君の保育園にお迎えに行きました。
 車ではなかったので、山陽電車の駅まで日陰のない道を歩きました。

  大西日の中、やっと駅のホームに着きましたが
  
    
 まさに瀬戸の夕凪、風一つ吹いてくれません。KAZU君もベンチに座り込んでしまう暑さ。

「おじいちゃん、何しとるねん、汗拭いとるんか。電車乗ったら風吹いとるからな」

  それでも、舞子駅で思わずロッテリアに入ってしまいました
  
「明日は車で帰ろうな。カーくん、電車のおもちゃ持っとるからな、大丈夫やで」

 なんとも、気遣いのこもったKAZU君のお言葉です。でも、もしかしたら、これからJRに乗って、また駅からおうちまで歩かなければならないことに気が付いたのかもしれませんが。

 立秋からもう二週間ほど、確かに日は短くなっているのです。それでも、風が止まってしまうと暑いこと暑いこと、これぞ残暑ですね。

  19時過ぎに丘の道を通って帰るのも難しくなってきました
  


   汗ばみて西に三日月浮かびけり  弁人


 ところで、丘の道を歩いていると、どこからか民謡らしき歌声が聞こえてきました。もしかしたら、小学校の校庭で盆踊りなのかもしれないと、足を延ばしてみると。

  なかなかの賑わい。広いグランドいっぱいの人垣
  
 真ん中に櫓が組まれていて盛り上がっていますが、ここは明石市立の公立の小学校のグランドです。そういう所に露店の夜店がたくさん並んでいるというのもなかなかおもしろい。

 その翌日の夕方、遠回りをして小学校の脇を通って、KAZU君に
「今日もな、夜にな、盆踊りのお祭りがあるんやで。お店もいっぱい並んどるやろ、来てみようか」
「カーくん、踊りできへん。夜はあかん、おうちでご飯食べるんやから」

 プラネタリュウムとか花火とか、暗い所が苦手のKAZU君、全く興味を示しませんでした。

 さて、そんなやりとりをしてKAZU君のお家に向かっていると、大蔵町の旧街道筋の家の玄関脇に、お地蔵さんの祠があって、脇に大きな笹に赤・白・青の布が飾られているのが目に入ってきました。
 「これ、なんやねん」
    

「七夕と同じ、子どもたちのお願いごとが書いてあるんや」
「なんで?」
「お地蔵様はなあ、子どもたちのお願いごとを叶えてくれるんやで。もうすぐお地蔵さんのお祭りがあるんや。お菓子貰えるかもしれん、カーくんも来たいやろ」
「なんでや、カーくんはな、夜はあかんで」

 おとなしいKAZU君、ここでも控えめで、あまり興味を示してくれませんでした。

 実は、関西で「地蔵盆」といえば、子どもたちにとっては夏休みの終わりにある、それはそれは楽しみなお祭りなのです。
 連れ出してしまえば喜ぶかもしれないと思いつつ、この界隈では、土日にこだわらず夜に行われるので、保育園通いで早起きをしなければならないことを考えると、やっぱり来年以降でいいのかなと、少々寂しい思いでKAZU君のおうちへ帰りました。


    終わりゆく夏ほんまかいなと西日中  弁人


 ところで、関西の夏の風物詩「地蔵盆」については、次の記事で紹介することにして、今日のところはここまでということにします。

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暑い、熱い「夏の甲子園」でした

2012-08-24 17:49:21 | スポーツ観戦等
8月24日(金)

 何ヶ月かの間、ずっと母の件で取り込んでいましたが、葬儀も済み、納骨まで少し時間が取れたので、気分転換をかねて、一週間ちょっと明石に戻っていました。

 ちょうどお盆休み、KAZU君も保育園をお休みしていてお出かけに夢中。お迎えもないので、甲子園観戦三昧と決め込みました。

 それにしても、近年の甲子園の熱気と人気はすさまじいものがあります。

 そこで、地元関西勢の登場しない日を選び、早起きして第一試合の始まる8時ちょうどに球場に行ってみましたが、すでにネット裏の中央席のチケットは売り切れていました。お盆休みとはいえ、まだ二回戦で、登場するチームはまだ初戦の段階なのに。

 この人気だと、例えば、首都圏から朝一番の新幹線で駆けつけても、いい席で観戦することはもう無理のようです。明石にいる時間の大切さを実感した次第です。
 この日は、第二試合に甲子園に比較的来やすい、岡山の倉敷商業と三重の松阪高校の対戦があって、混んでいたのかもしれませんが。

  真っ白に埋め尽くされた松阪高校のアルプススタンド
  
 我らが郷土の、自慢の学校ということでしょうか、ものすごい熱気です。

 実は、最近、地方の私立のチームに首都圏や関西圏から有望な選手が集まったりする傾向が見られますが、一方で、他県からの入学が難しい公立のチームもけっこう出場していて、判官贔屓というか、つい応援したくなってしまいます。
 特に今年は、この松阪高校をはじめとして、佐賀の佐賀北、熊本の済々黌など県立普通科の伝統校が何校も甲子園に駒を進めていて、たぶん力でねじ伏せるという野球ではないだろうと想像すると、そのプレーぶりに興味がそそられます。


 さて、「いくら早起きしても、6時前に部屋を出るのはなかなか難しいなあ」と溜め息をついて日程を眺めると、関西勢が第三試合まで登場しない、一日3試合の日がありました。
 第一試合は浦和学院対福島の聖光学院で、投手戦の好勝負になりそうという期待もあって、二度目の観戦へ。さすがにこの日は、8時前に到着したところ、とてもいい席に陣取ることができました。
 しかし、試合は投手戦にならず、11-4で浦和学院の勝利。続く、宇部鴻城対佐世保実業の試合も打撃戦となって11-7という大味な試合に。

  その第二試合に、教え子のK君が主審で登場
  


 ところで、今年はどう見ても、春の選抜で決勝戦を戦った大阪桐蔭と青森の光星学院が図抜けている感じでしたが、結局、その二強が順当に勝ち進んで、優勝を争うということになりました。

 そんな中で、すい星のごとく現れて一躍甲子園のスターの頂点に立ってしまったのが桐光学園の二年生投手の松井君。記録尽くめの奪三振ショーで高校野球ファンのド肝を抜きました。。

 神奈川の予選でもけっこう三振を取っていたようですが、まだ二年生の粗削りの投手という印象で、大会前に注目の選手に挙げられることもなく、桐光学園自体も下馬評で評価が高かったとは思えませんでした。

 初戦の今治西戦で22個の三振を取った時は、バッターももう少し工夫すればいいのにと思ってしまって、相手チームに少々不満を抱きましたが、続く常総学院から12個、さらに浦添商業から19個の三振を奪って、とんでもない投手であるということを証明してしまいました。
 身長174センチというと、浪速のダルビッシュと言われる藤浪君より23センチも低いのです。野球の聖地に、まさに「怪童現る」の感。いわば、現代版牛若丸と言ったところでしょうか。


 お盆休みが終わった月曜日。準々決勝の最初の二試合は、その松井君の投げる桐光学園と優勝候補の一角、強打の光星学院との対戦。第二試合には優勝候補筆頭の大阪桐蔭が登場します。
 9時試合開始。7時半ごろまでに球場に着けばなんとか入れるかもしれないと期待して出かけました。
 電車の接続が悪かったのか、予定より15分ほど遅く球場へ行くと、すでに長蛇の列。

  切符を手にするのに30分近く並びました
  

  新ヒーロー松井君、居並ぶ好打者を相手に、この試合でも15奪三振
  


   汗きらり快投疾走涼しげに  弁人


 終盤までの息詰まる投手戦は本当に見応えがありましたが、さすがに連投の疲れか、8回に光星学院の主砲田村君にタイムリーを浴びて0-3の敗戦。とはいっても、敗因は彼の投球というよりも、相手投手を攻略できなかった攻撃なのですから仕方ありません。

  「あっぱれ!! 桐光ナイン」
  


   泣き崩る姿も豪快汗みどろ   弁人


 続く第二試合は、大阪桐蔭が投打に天理を圧倒、8-1で快勝しました。

  大阪桐蔭の藤浪君、次々と投げ込む150キロ代のストレート
  


 やはり、この日勝った二強と思われる二校、強い、強い。準決勝も難なく勝ち抜いて、春に続いて同カードの決勝戦に。結果も春と同様、大阪桐蔭が頂点に立ち、相対した光星学院は3大会連続の銀メダルという結果になりました。
 オリンピックでもよくあるのです。実力はあるのに、なぜか頂点に立てないことが。

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KANA君の「お食い初め」

2012-08-18 21:19:35 | KANA君と妹君
8月18日(土)

 今月初めに、生まれて100日目を迎えたKANA君。

 パパとママが「お食い初め、しなくちゃね」と言っていましたが、ちょうど、ひいおばあちゃんのお葬式で立て込んでいて、それどころではありませんでした。

 やっと少し落ち着いたので、先日、10日余り遅くなりましたが、逗子のお魚屋さんで、尾頭付きの鯛を買って、東京のKANA君のところに出向きました。

  ごろごろしながら、元気な顔を見せてくれました
  

  寝返りだってできるし、首もすわってきました
  


   ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 

 (考えてみれば、4年前の秋、KAZU君も同じころ、保育園に通い始めていて、私の車のチャイルドシートに乗っていたのでした。)
  〔その頃のKAZU君。懐かしい!〕
   

   ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・


  ところで、これがこの日の、KANA君のお献立
  

  「おじいちゃん、抱っこありがとう」???
  
 「アー、ウー」と、何か話しかけてきますが、笑ってくれるだけで、おじいちゃんは幸せです。

  「食べる真似だけだけど、おいしそうなお顔をしてね」
  


    祝い膳夏痩せ無縁の笑顔かな  弁人

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「旅立ちし母」 思い出とともに

2012-08-10 01:10:01 | 身辺雑記
8月10日(金)


  実は、先般、母が亡くなり、見送りを済ませました。


 3月の半ば、今年はまだ梅の花の残る遅い春でした。5月に91歳になろうとしていた母が体調を崩して入院という知らせが舞い込み、しばしKAZU君と別れて、春まだ寒き明石から、スギ花粉の舞う東京の病院へ向かいました。

 「肺に水が溜まって危険な状態。月を越えれば、よく持ちこたえたというところですね。関係の方には連絡を取っておいたほうが・・・」という医師のことば。
 さらに、「病院でなくても、酸素吸入と点滴はできるので、ご家族で看取って差し上げるのがよいのでは」というアドバイスも。

 医師の指示に従い、十日ほどで退院したところ一時回復。しかし、4月半ばに再入院ということになりました。

 初めのうちは、せめて桜の花の咲くまではと励ましていましたが、再入院後、新緑の季節も流れるように過ぎ、梅雨の季節も通り越して、気がつくと夏の盛りになっていました。

 3月半ば以来、ブログには、何げに明石の話題も載せてきましたが、実は、明石での時間は最小限にとどめて、逗子の家からの東京通いの日々が続いていたのです。

 その間、4月の末には、二人目の孫、母にとっては六人目の曾孫となるKANA君の誕生という明るい出来ごともありました。しかし、さすがに、その顔を見て喜ぶという状態にはなく、対面することはありませんでした。

 そして・・・、梅雨も明け、真夏の日差しが照りつける暑い季節を迎えて半月余り経った7月末日の未明、静かに息を引きとり、50年も前に先立った父の許へと旅立って行きました。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 戦時下に父と結婚し、東京大空襲では、二週間後に生まれた姉をお腹の中に抱えて、炎の中何時間も三月の冷たい池の水に浸かり、さながら地獄絵図の中をかろうじてくぐり抜けたということで、その話が今も耳に焼きついています。
 その後、戦後期の復興に、父とともに全力で立ち向かっていたのですが、そのさなか、私が小学校6年生だった冬に、40歳にして夫に先立たれてしまいました。しかし、悲しみに打ちひしがれている暇もなく、身を粉にして、姉と兄と私の三人の子を育て上げました。
 やがて、父の跡を兄が受け継ぐに至り、海外旅行に出かける余裕もでき、7人の孫に囲まれて平成という時代を迎えたのでした。

 振り返ると、まさに、激動の昭和という時代の中を、幾多の苦難を乗り越え、特に父の死後は、男社会を向こうに回して、細腕一つで、したたかに生き抜いてきた、波瀾万丈の人生と言えるのかもしれません。


 病いに伏した後、点滴と酸素吸入だけの状況でしたが、しばらく容体が安定。担当の医師もことばに困るという感じで、4か月半もの間、気丈に生きてきました。その姿からは、大正に生まれ、激動の昭和を乗り越えてきた人間の意地のようなものを見せつけられた感がしました。

 そんな生きざまを見せてくれた母ですが、数年前から認知症が進んでいて、はたして、最期に自分史をどのくらい記憶に残していたのかどうかは定かではありません。
 とはいえ、病床に伏していても、意識ははっきりとしていたので、身体的な苦痛がないようにということがとても気になって、何回か、そのことを医師に問いかけてきました。
 「苦しそうには見えないし、おそらく最後は徐々に意識が薄れて行くので大丈夫でしょう」ということばがありましたが、見た目にも、顔をゆがめることもなく静かに息を引きとったように映ったのが救いでした。


 安らかに目を閉じている母の顔を数日間見守った後、おかげさまで、通夜・葬儀をとどこおりなく済ませ、今、一段落して静かに母の思い出に浸っているところです。心配の旨、連絡をいただいた方を含め、母のことを気にかけていただいた皆様、ほんとうにありがとうございました。


   逝きし母のレクイエムにや蝉時雨  弁人


 三月。一度退院した時に、「音楽でも聴こうか、何がいい?」と言ったら、「オーケストラの少女!」と言った母。

 四月。「向島の百花園に行ってきた」と言ったら、「もう一度行きたい、連れてってくれる?」と言った母。

 五月。私が明石にいることを覚えていたのか、はたまた逗子が遠いと思ったのか、「遠くから来てくれてありがとう」と言ってくれた母。

 六月。「ごめん、ちょっと神戸のほうへ旅行に行ってくるから」と言ったら、「早く帰ってきて」と言ってくれた母。

 七月。朝顔市で授かった朝顔のお守りを見て、「きれいね」と、うれしそうに眺めた母。

 そして、息を引き取る三日前の夜、「わかる?」という問いかけに、しっかりと頷いてくれたのが最後のやりとりになりました。

 年老いてから、すかっり優しい母になっていましたが、病いに伏したこの春からのわずかな時間に、忘れられない新しい思い出をいくつも残して旅立って行きました。


 さて、これからですが、今月中に納骨を済ませます。その後、気持ちが落ち着いてから、また明石でKAZU君といっぱい遊びたいと思っています。


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