チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

たこ焼きの元祖「玉子焼」

2008-12-19 23:51:28 | 明石風物
12月19日(金)

 明石駅からフェリー乗り場へ向かう途中に「きむらや」という玉子焼の店があります。玉子焼と言っても、お弁当に入っているあの玉子焼ではありません。
 明石では、たこ焼きのことを「玉子焼」と言うのです。
 「きむらや」はよく雑誌などで紹介される代表的な店で、いつもこの行列。
   

 先日、やっと待たずに入ることができました。
   これぞ、きむらやの玉子焼
   

 塗り物の板に並んで出てきます。中がとろとろアッチッチなので、他の店との味の違いはよくわかりませんでした。
 地元の人曰く、「あそこは観光客で混んでいるけど、他にもおいしい店はいっぱいあるよ」とのこと。
 そうです。町じゅうに店があります。
例えば、
 
  
     
                    等々

 「玉子焼」という名前では観光客への印象が今ひとつということで、「明石焼」という呼び名が広まったようです。焼鳥屋のご主人は「明石焼なんて看板のところは本物じゃないね」とのことですが、やっぱり私の口では違いがわかりませんでした。

 食べ方
 お碗にだし汁が出てきます。もちろん温かいのですが、玉子焼の中身(プチっとしたタコをくるんでいるジューシーなところ)がとても熱いので、これに浸けてほうばります。
 私がはじめて食べた時は、だしがお吸い物のような感じなので、無意識にすすってしまいました。要注意です。
 口の中にほおばっている時は人としゃべることはできません。「おとととと、はふはふ」と小声を出していただくのです。
 だいたいのお店にはテーブルにソースダレが置いてあります。私の場合、半分はこれを塗って食べます。

    あつあつに小腹も足りて年暮るる   弁人

 おいしそうでしょう。特に冬はいいですよ。でも、昼食としてはちょっと量が少ない。おやつとしてちょうどよいくらいでしょうか。
 兄(アン)ちゃん2人で四人前頼んでいる人がいるかと思えば、二人前を女の子3人でつっついているのも見ました。だしはちゃんと3つ出してくれます。
 飲み屋ではありませんが、牛すじの入ったおでんやお好み焼きなんかを出す店も多いので、ちょっと一杯ひっかけたくなってしまいます。

 この玉子焼が浪花のほうへ伝わり、立ち食いのできる「たこ焼き」になり、全国へ広まったということです。


 さて、「明石通信」ですが、今年はこの記事が最終になると思います。明日、逗子に帰ります。
 ということで、今日、KAZUを囲んで早めのXmasパーティをしました。私がサンタかな。KAZUへのプレゼントは「フラワーロック」でした。
  眼をパチクリさせてご満悦。
   

 帰りの夜道、見上げるとオリオン座がきれいに輝いていました。

 柚子湯は逗子の我が家でゆっくりつかります。そのあと、ゴルフに1回、年末に家内と鳴子温泉へ行きます。わずか二週間ですが、十分に骨休めをして、年明けは早めに明石に戻る予定です。

    幼子としばしの別れ冬至の湯   弁人

 それでは皆さま、よいお年を。
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ジョキング500Km到達

2008-12-17 12:12:13 | 身辺雑記
12月17日(水)

 9月末の記事でジョキングコースを紹介しました。
 他郷の地での慣れない生活、はじめは走る機会が少なかったのですが、10月下旬から生活のリズムもでき、3日に1回ぐらいのペースで海岸へ。そして昨日、なんとか年間500Kmを越えることができました。
      コース風景
   
      

 21世紀に入る直前、大学時代の友人が突然の病いで帰らぬ人となりました。ちょうどその頃の検診で、高血圧の結果が出て、医師から、「薬を処方する前に、1回チャンスを与えるので運動しましょう」と言われたのが、ジョキングを始めるきっかけでした。
 はじめは苦痛でしたが、徐々に走る習慣が身につき、2003年に480km、2004年には520km、2005年も400km走りました。この頃は、野球部や陸上部の生徒たちと横須賀シーサイドマラソンを走ったりしていました。しかし、2006年に胃潰瘍を患い、憂さ晴らしのスポーツで腰をひどく痛め、約2年間、ほとんど走れない日々が続いていました。
 
 今年は、月に40Kmという目標で走り始めましたが、持病となっている腰痛、2・3月のスギ花粉症、7・8月の猛暑、それに明石への転居と、思うように走れない状況が重なってしまいました。しかし、4・5・6月にたくさん走れたことと、年末に逗子へ帰る前に500Kmを越えたいという気分になったことで頑張れたのだと思います。

 年末年始を控え、今週はアルコール自重週間なのですが、昨日は一人で祝杯を挙げました。


    はつ冬や前へ前へといくたびも   弁人


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錦繍の淡路島

2008-12-13 10:25:59 | 身辺雑記
12月13日(土)

 ベランダ越しの明石海峡大橋のむこうには、もちろん淡路島が横たわっていて、毎日、当然のように眺めています。
 でも考えてみると、島はいつも南の方角、つまり逆光の中にあるので、晴れていても、ぼんやりとした黒っぽい姿になってしまいます。

   

 夕方は少しましかなと海岸でカメラを構えてもこんな感じなのです。

   


 ところが、先日、今にも雨の降りそうな曇りの日、何気なく部屋から外に目を向けると、薄暗い雲の下に茶褐色に化粧した島がくっきりと見えました。

   

 明石に来て初めて淡路島を見たかのような新鮮さでした。きっと、フェリーに乗っても海ばかり眺めていたのかもしれません。


    錦繍の島影淡路の冬支度   弁人

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大蔵海岸・明石海峡大橋の夜景

2008-12-10 23:32:39 | 明石風物
12月10日(水)

 明石市大蔵海岸。実は、花火大会での事故と砂浜の陥没という二回の痛ましく悲しい過去を背負っています。しかし、景色の素晴らしさは申し分なく、市民の憩いの場として欠かせない場所です。前にも書きましたが、私のジョキングコースです。

   

 師走のイルミネーションといえば、神戸の「ルミナリエ」が有名ですが、大蔵海岸もライトアップしています。ここには1999年に、ビール樽を使ったリサイクルヨットでサンフランシスコから明石まで航海した堀江健一氏の「モルツ、マーメイド号」が展示されていて、それを中心にライトアップされています。

   

ちょうど明石海峡大橋の夜景を背景にしているので、なかなかの見応えです。住まいから近いとはいえ、夜は冷えるのでちょった足が向きませんでしたが、KAZUのマンションからの帰り道に寄ってみました。

   

    澄みきった光の中の師走かな  弁人



 さて、橋の照明の話に移ります。

 ライトアップされた橋の様子は毎日ベランダ越しに眺めていますが、海岸から、また我が家のそばの高台から眺める光景は格別です。

 明石に来て数日後には、照明の色が時々変わっていることに気づきました。舞子にある橋の科学館で聞いたところ、なんと28種類の基本パターンがあり、そのほか全国的なキャンペーンに参加して設定することもあるようです。

 以下、カメラに収めた分を紹介します。
 
 まずは一般的な照明。と言っても、春(4.5.6)夏(7.8.9)秋(10.11.12)冬(1.2.3)の4種類があります。したがって平日の照明は、私が明石に来てから、まだ秋パターン(パールピンク)しかカメラに収めてありません。

    

 一年を通じて、土日祝日はグリーンブルーになります。

  

 毎時0分から5分間はレインボーです。実は、6・7時と8・9時、10・11時でパターンを変えているとのことですが、そこまで区別して見てはいませんでした。

  

 毎時30分から5分間は、その月の誕生石のカラーをイメージしているそうです。

 11月はトパーズ。

  

 そして今は、トルコ石です。

  

 他には、年末、年始、震災記念日、桜の季節、GW、海の日、夏休み、開通記念日など16パターンのライトアップがあるとのことでした。全国的なキャンペーンというのは、例えば「エイズ撲滅」や「温暖化防止」とかで、東京タワーなどと同一の色にすることだそうです。また、タイガースの優勝時やサッカーのワールドカップ開催時も特別のデザインにしたそうです。
 
 現在は神戸のルミナリエ期間と言うことで、こんな感じです。

  

 私のカメラではあまり違いがわかりませんね。すいません。

   冬の海虹の架け橋くぐる船   弁人


 余談ですが、橋の開通記念日は私の誕生日と同じ4月5日です。その日は、日没から21時まで全パターンを5分間ずつ点灯するそうです。来年は日曜日なのですが、はたしてその日に逗子にいるのか明石にいるのか、明石にいても、せっかくの還暦の誕生日にカメラを構えて付き合うのはちょっと無理かなと・・・・。

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小田原ういろう物語 その3

2008-12-05 14:04:35 | 小田原ういろう
12月5日(金)

 小田原のういろう本舗の薬売り場に、歌舞伎の「外郎売」の口上の科白のパンフレットが置いてあります。持参して目を通したことはありましたが、長いこと本文を読解することはありませんでした。亨保年間に二代目の団十郎が創作したという由来を読んでわかったような気になっていました。

   口上に「八方が八つ棟、表が三つ棟」とあるういろう本舗
   

 前回の記事で「ういらう」は整腸剤だと記しましたが、この薬の由来をひもとくと、実は喉の薬として広まったということになります。
 
 簡単に言うと、団十郎が風邪をこじらせ声がつぶれ、舞台に立てるかどうかの時に、この薬で全快することができ、滑らかな発声を舞台上で披露することで、薬の効用とお礼の気持ちを表そうと、新しい脚本を創作したということです。
 話の舞台を「曽我兄弟の仇討ち」の物語の一エピソードにして、弟の五郎が小田原の外郎売に扮して仇の工藤祐経に近づくという設定。その時の口上に、早口言葉や地口、駄洒落などのことば遊びを駆使して、普通の速度でも10分近くもかかるような長い科白ができあがったということです。
 やがてこの演目は「勧進帳」「暫」「助六」などとともに成田屋の歌舞伎十八番として位置付けられました。

     

 口上の科白は今でも舞台俳優やアナウンサーの発声練習の教材として役立っているのです。

 かつて私は高校の教師をしていました。
 1994年の秋、3年生の女生徒が音楽系の短大の推薦入試を受験しました。
 翌日私に「先生、『ういろうの口上』って知っていますか。昨日の面接の時にプリントを渡されて朗読しろと言われたのです。初めて見た古文なんて読めるはずがないですよ」という報告でした。
 いきなりではさすがに可哀そうだなと思いながら、ゆっくり読んであげたのですが、予想通り「チンプンカンプン」との感想でした。このことがきっかけで、私も初めて本文の内容を把握しました。

    二学期や三年生の顔のもどかしさ  弁人

 読んでいくと、なんだかよくわからない部分もありました。
 「あはやのんど、さたらな舌にかげさしおん、はまのふたつはくちびるの軽重開合爽やかに、アカサタナ、ハマヤラワ、オコソトノ、ホモヨロヲ」というくだりです。
 意味は「五十音図のア、ハ、ヤ行は喉音。サ、タ、ラ、ナ行は舌音で、カ行は牙音、サ行は舌を上の歯に接する歯音である。ハとマの行はくちびるを閉じて発音する唇音である」ということで、日本語の音韻の基本が述べられています。
 その後、授業で時々聞いてみましたが、50音を横に言えない若者が何人もいるということもわかりました。「ABCの歌」や「ドレミの歌」があるのだから、「いろは歌」にもメロディを作って、「あかさたなの歌」なんかもあればいいと思っています。

 それから数年後、これも女生徒でしたが、卒業してバスガイドになった子がいました。寮生活をはじめた彼女からの手紙にこんなことが書いてありました。
 「まだバスには乗れません。毎日研修です。先生は『ういろうの口上』を知っていますか。毎日大声で読み上げるのです。早く暗記しろと言われますが、すごく長くて無理っぽい。でも覚えないとバスに乗せないって、エンエン(涙)」
 彼女は優秀なバスガイドになり、独立してフリーになっていろいろなバス会社からひっぱりだこになったとか聞きました。今は結婚して子育てに専念だそうです。
 
 ある日、テレビの「徹子の部屋」に出演した「えなりかずき君」が「本番前は必ず一回外郎売の口上を唱える」と言い、黒柳徹子が「偉いわねぇ、こんど私にも教えて」というやりとりがあり、たまたま見ていました。

 私もそらで言えるようにするしかないと思いました。

 さて、いざ覚えようとすると、いくつかの問題点が。まず漢字の読み。アクセントとイントネーション。それに早口言葉はどれぐらいの速度で許されるのかということです。実際に耳で聞くしかないのですが、CDがない。歌舞伎の上演の予定もありませんでした。

  覚えるも声にならない舌足らず団十郎の気分なれども  弁人

 それからまたまた数年後。ある日「ういらう」を買いに行きました。店内に「第一回『外郎売の口上大会』のご案内」の掲示がありました。
 小田原市民会館へ行ったのは、4年前の10月の半ばのことです。元アナウンサーや劇団のかたが上手いのは当たり前ですが、まだ小学生になったかどうかの子どもがすらすらと言ってのけるのにはびっくりしました。その何週間かあと、小田原の商店街での口上披露にも出向きました。実行委員会の方と話を交わしたのはこの時でした。

   

 準備万端、勉強嫌いの若者の鼻を明かしてやろうという意気込みもあり、数日で覚え、「暗記なんて簡単だ。よく聞け」と言ってホームルームで聞かせました。もっとも聴き手は何も知りませんので、プリントを配ったとはいえ、多少たどたどしく間違いがあってもノープロブレムの状態でしたが。

 長くなりました。今回はここまでにします。さて次回は、今年の8月に「第5回、外郎売の口上大会」に参加した話です。
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月木金??のランデブー?

2008-12-03 14:07:29 | KAZU君
12月3日(水)

 1日の夕方、KAZUを車からベビーカーに移して、KAZUのマンションに向かおうとしたら、南西の空に細くてきれいな月が、その上に皓々と光る木星と宵の明星の金星が並んでいて、正面の夜空に、まるでKAZUの笑顔が描かれているようでした。

      

 写真の月が二つの星の反対側、つまり下のほうにあると考えてください。木星と金星がつぶらな眼でお月さまが口元になっていました。
 この日は、あいにくカメラを持参していなかったので、写真は撮れませんでした。

 もちろん、翌日の昨日はカメラ持参で保育園へ。帰りに大蔵海岸へ寄り道して、やっと上のような写真が撮れましたが、わずか1日で月がちょうど対称の位置になってしまいました。

     

 一昨日も昨日も、KAZUはいくら話しかけても夜空に興味を示さず、昨日は靴下をこっちに見せてご機嫌でした。


   天空に孫の笑顔や冬はじめ   弁人

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0系新幹線の思い出

2008-12-02 16:00:06 | 鉄道
12月2日(火)

 先週は「0系新幹線引退」のニュースがさかんに流れていました。一昨日11月30日の山陽新幹線「こだま号」がラストランで、44年の歴史に幕が下ろされたようです。超満員とのこと。せめて西明石に行って、ホームから眺めてみようかと思いましたが、感傷的過ぎるかなという思いでやめました。なつかしい思い出のある人には感慨もひとしおというところでしょうが、どの世界も時代の流れには逆らえません。やはり「老兵は消え去るのみ」というところではないでしょうか。

      

 実は、私にも思い出があるのです。1964年10月1日、新幹線開通の1番列車、東京駅6:00発「ひかり1号」に乗ったのですから。
 44年前の記憶は今でも鮮明です。

 叔父の知人に、「国鉄」の駅長をしている人がいて、1枚手に入ることになり、その話が私の耳に入ったのです。誰だって乗ってみたい気はしますが、まさか中学3年生の甥ッ子が乗りたいと言い出すとは思わなかったのかもしれません。しかし結果的に駄々が通り、私が乗ることになったのです。

 家族や親戚の人に連れられて東京駅に。まるで一族郎党の代表のような気分でした。ホームは報道陣や関係者であふれ、1号車の前での国鉄総裁のテープカットなどのセレモニーにはとても近づけませんでしたが、列車が定刻に動き出した時は大人ばかりの車内なのに興奮のどよめきが起こりました。
 通路には、報道の人たちが行ったり来たり、インタビューを受けている人もいました。

 ビュッフェという立ち席の軽食堂車があって、そこにアナログ式のスピードメーターがありました。小田原手前の鴨宮線区で最高速度を出すという情報があり、私は発車して間もなくカメラを持って出向きました。210キロの計時をカメラに収めて自席に戻る時、NHKの鈴木健二アナウンサーと目が合って興奮したのも覚えています。

 上空には、テレビ中継のヘリコプターが東京からずっと追っかけていました。名古屋と京都の二駅に停車した列車は10時10分に4時間10分かけて新大阪駅に着きました。

    大阪へ停車は二駅秋うらら   弁

 
 当時の写真や切符はこちらに持ってきていないので、ここで紹介できず残念です。
 ところで、この時の切符にはちょっとにがい思い出があります。新大阪駅では記念にということで回収にこだわっていませんでしたが、乗車券が「大阪電環行き」だったので、私は外に出ずにそのまま大阪駅を経由して環状線に乗り、大坂城公園駅で降りたのです。しかし、どんなに事情を話しても、そこの駅員は切符を回収しないということはあり得ないという一点張りで埒があきませんでした。そのまま新大阪へ戻ろうかと思っている時に、どこかと連絡がついたようで、「無効」というゴム印をべったりと押して渡してくれました。傷つきやすい中学生の心に、わずかな区間の運賃を惜しんだことへの後悔の念が残りました。

 
 この頃の私は「鉄っちゃん」ぽいところがありました。万世橋の交通博物館が大好きでしたし、中学2年生の時の修学旅行に行かずに、小遣いをためて、初めての長距離旅行にも行きました。夜行列車で京都へ行き、再び夜行で諫早へ。雲仙に登って、島原から天草へ渡り、熊本から寝台特急の「はやぶさ」で帰って来ました。3日目の朝の、鳥栖から先の長崎本線は蒸気機関車で、確かC-11形だったような気がします。 
 夜行三泊、ユースホステル二泊の旅でしたが、当時は「青春18キップ」なんてものはなかったので、逆に憧れのブルトレに乗れたのかもしれません。

 昨今、SLの人気も大変で、各地でイベント運行をしているようですが、電化された区間で架線ガあるのに、もうもうと煙を吹き上げて行くのはどうかと思っています。


 新幹線の話に戻って。
 このあいだ逗子に帰った時の帰途です。連休で混んでいたので、初めは新大阪止まりの列車を予約したのですが、1日2往復の博多行き「500系のぞみ」の席が空いていたので変更しました。
 後ろの座席の小学生とお父さんの二人連れは、どうもこれに乗るのがお目当てだったようで、「500系」の話に夢中になってご満悦でした。
 この車両はJR西日本の制作で、山陽新幹線が中心であるとか、700系が主役になった現在、だんだん少なくなっていくということや、デザインの評価が高く、10年ぐらい前にいろいろな賞をとったということなどを二人の会話で知りました。(あとで調べました。96年に通産省グッドデザイン賞、98年に鉄道友の会ブルーリボン賞を受賞)

     窓の秋乗り物好きな男の子   弁人

      

 たしかにカッコイイ! でも、天井が低く乗り心地は今一つの感でした。

 この車両も、ゆくゆくは惜しまれて引退するのでしょう。主流の700系は不細工だと言っても、そのうち見慣れてかっこよくなるのが時の流れ。性能と居住性にすぐれているのですから文句は言えません。

 そんなことより、KAZUが「これに乗りたい、あれに乗りたい」と言うまで元気でいられるかどうか、こちらのほうが問題です。

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