チムどんどん「明石通信」&「その後」

初孫との明石暮らしを発信してきましたが、孫の海外移住を機に七年で区切りに。現在は逗子に戻って「その後」編のブログです

初めてのミニ列車に大喜び

2009-07-28 15:51:05 | KAZU君
7月28日(火)

 明石に戻って写真の整理をしていると、KAZUの楽しそうな写真がありました。もう二週間以上も経っているのですが。

 松山へ行ったり、サイモン&ガーファンクルの美声に酔いしれたり、祇園祭を見た後に一週間あまり逗子に帰っていて、KAZUの記事が載せられませんでした。

 ミニ鉄道に初めて乗ったKAZUです
  

 松山へ行く前日の7月11日、梅雨明けを思わせる天気になった土曜日でした。

 神戸のハーバーランドの東にメリケンパークがありますが、その一角、ポートタワーの隣りにある「神戸海洋博物館」
  
  
  入館のチケット
   

 KAZUの両親が勤めている「川崎重工」は、こちらでは地元の代表的な企業で、J1のヴィッセル神戸のスポンサーにもなっています。チケットのとおり、この博物館もカワサキがスポンサーになって成り立っているようです。
 娘夫婦は汎用機部門のバイクの工場勤めですが、この会社、バイクはもとより大型プラントや造船、それに新幹線などの鉄道車輛の製造も有名です。
 カワサキワールドには「0系新幹線」の運転席の実物もあって、KAZUには、もう少し大きくなったら連れて行ってあげたいと思っていましたが、早くもその機会がやってきました。

 会社の雰囲気もあるのでしょう。鉄道好きの社員もたくさんいて、この日はその人たちの熱意が博物館前のメリケンパークの広場に結集したような一日でした。ミニSLや鉄道を走らせて子どもたちを喜ばせるイベントです。
  

 入館料はかかりますが、乗るのは無料。そのかわり先着順です。どのくらいの人が集まるのかわからないということで、私が先に行って並んでいました。開始時間が近づきKAZUも博物館に到着。
  

 切符が配布され改札。紙は正式の硬券、鋏もちゃんと入りました。企画・運営する方々の気合いが伝わってきます。
  

 乗ったのは、どうも紀伊半島のほうへ行く特急「オーシャンアロー」らしい。まだそこまでKAZUは聞かないので胸をなで下ろして、さあ、「出発進行!」
  

 「これは、おもしろい」
  

 「バンザーイ」
  

 両親とも一緒に乗って、大喜びでした。
  

 ポートタワーの下には、こんなバスも走っています。
    

 カラフルな遊覧船も楽しそうです。あと2、3年経ったらKAZUはどんなによろこぶことでしょうか。


    梅雨晴れ間電車ごっこに興じけり   弁人


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東京散歩-柴又・矢切の渡し

2009-07-26 18:04:14 | お出かけ・散策
7月26日(日)

 逗子の我が家で一週間近くのんびりと過ごしました。
 
 金曜日の夜、「そろそろ明石へ戻らないと」と思いながら晩酌をしていると、テレビを見ていた妻君が「柴又って行ったことがないのよ」と話しかけてきました。
 何気なく「いつでも連れて行ってあげるよ」と答えたのがきっかけに。さっそく催促のことばが返ってきて、翌日の25日の土曜日に出かけることになりました。

 下町から千葉のほうへ張りめぐらされている京成電車の路線網は、慣れない人にはなかなかわかりづらい。やはり下町で生まれた私が案内しないと無理でしょう。

 押上・高砂を経由して昼過ぎに到着
  
   

   「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
            帝釈天で産湯を使い・・・」


 まずは、参道の手前のゑびす家食堂で腹拵えを
    

 下町のそのまた下町っぽい雰囲気とでもいうのでしょうか、店内にはこんな文字の和凧が
  
 関西の繁華街でも「春夏冬中」という看板を見かけましたので、今は「商い益々繁盛」と若者なんかもけっこう読めるのかもしれません。

 お店を出ると、真夏を思わせる青空。境内もつい木陰を求めてしまう暑さでした。
  

 このお寺は本堂の外側壁面の彫刻がとても面白くて味があります。
  

 奥には回遊できる日本庭園がありました。腰を下ろすと風が肌に気持ちよく、暑さも忘れるほどでした。
  

 ここまで来ると、そうですよ、こんな歌が聞こえてきそうじゃないですか。
  「つれて逃げてよ・・ついておいでよ・・
    夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
        噂かなしい 柴又すてて
         舟にまかせる さだめです」

 というわけで、参詣のあとは江戸川の土手に出て、さっそく渡し船に乗りました。
  

 浦賀の渡し船に比べても、ケタ違いに素朴な風情。ご老公が乗ってきてもおかしくない感じでしょうか。

 かもめが風に舞い、船着場にはとんぼの群れも。南風が強く、川面には上流に向かって波頭が。
  

 渡っても何もなくてすぐに帰ってくるのですが、お客さんはけっこういるのです。
  

 円を描くように渡るので10分ほどかかるでしょうか。川風を受けて気分爽快。運賃は片道格安100円です。今どき100円で楽しめる乗り物も珍しい。遊園地では無理でしょう。幼児が座ってお金を入れると動く機械、よく大きなスーパーなどにありますが、あれで100円くらいなのでしょうか。KAZUはまだ乗らないので知りませんが。


    白南風を愉しむ矢切の川とんぼ   弁人

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京都に夏が-祇園祭りどぉす

2009-07-22 07:03:18 | お出かけ・散策
7月22日(水)

 三連休を利用して逗子の我が家に戻りました。ところが、久しぶりに立ち上げたパソコンの調子が悪く、結局リカバリーに追い込まれてしまいました。その後の復元に手間取り、昨日までブログの更新もできませんでした。

 今回の記事は逗子に来る前の話になります。先週の16日(木)の夕方から17日(金)の昼過ぎまで京都に居りました。お目当ては「祇園祭り」です。
  



 ところで、振り返ってみると、長年の学校勤めでしたので、毎年7月の中旬ともなれば、学期末で猫の手も借りたいほどの慌ただしさ。それに輪をかけて、大半は野球部の顧問・監督として過ごしてきたので、この時期にどこかへ出かけるなどということは考えもできないことでした。
 昨年はKAZUが生まれて大した騒ぎだったなと思いながら、今年も高校野球の季節になりました。兵庫の大会も面白そうですが、やはり神奈川の状況も気にかかってきて逗子に帰りたい気持ちも強くなります。

 でも、まっすぐ帰るのも味気ない、京都にでも寄っていこうかと思ったものの、京都は祇園祭りのさなか。さぞかし暑いだろう。それに人混み。

 かつて、甲子園の帰りに京都に寄ったことがありましたが、あまりの暑さにすっかり辟易、レストランでビールを飲んで、パチンコ屋で時間をつぶし、喫茶店で涼んで、そのまま新幹線に乗って退散したことがありました。
 しかし、今年は、松山の坊ちゃんスタジアムでジリジリする暑さを味わい、サイモン&ガーファンクルのコンサートでものすごい人混みを経験したので、ちょっと強気に。

 それじゃあ、「祇園祭り」とやらの雰囲気に触れてみようかということになりました。

 京都には夕方に着きました。土用の丑の日も近い。まずは有名な鰻の「かねよ」で腹ごしらえ。ここはうな丼の上に大きな玉子焼きをのせた「きんし丼」が有名です。
  

 今日は「宵山」の最終日。四条烏丸もご覧のとおりの人の波。
  

 少々暑いものの、浴衣、角帯、甚兵衛、白足袋、団扇、夜店、かき氷。いかにも夏の宵です。そして提灯の灯とお囃子の響き。
 鉾や山の山車に「ちまき」というお守りを求める人たち。なかなかの風情です。
  四条通りの「函谷鉾」
  

  新町通りの「南観音山」
    


    宵山の提灯明かし二十三夜かな   弁人


 この日、京都のホテルは満杯で、電車で20分の瀬田で泊まりました。

 翌日の17日。いよいよ「山鉾巡行」の日です。朝方は雨。小止みになった後は南東からそよ風が吹いてきます。こんなに過ごしやすい日の祇園祭りがあっていいのでしょうか。それにしても超ラッキー!
  四条通りはこんな雰囲気
  

  先頭の「長刀鉾」
    
 32基ある山と鉾。巡行の順番はくじ引きできめますが、先頭は毎年「長刀鉾」と決まっているのです。

  見せ場の「辻まわし」
  
 四条河原町など三カ所で方向転換をしますが、鉾は大きいので大変です。車輪の下に竹を敷いて、水をまいて横に引きます。90度回転するのに3回くらい引くので10分近くかかります。これを「辻まわし」と言って見どころのひとつになっています。

  「蟷螂(かまきり)山」
  
 小さな山車を「山」と言います。「鉾」の迫力にはかないませんが、それぞれに持ち味があって面白い。「蟷螂山」は唯一「からくり」が施されていて、かまきりが左右に腕を上げたり、羽を広げたりします。
 実はその昔、外郎(ういろう)家が小田原に移る前に、この山を創始し後ろ盾になっていたのがこの「蟷螂山」です。昨年の宵山の日に「蟷螂山」の前で「外郎売りの口上」が披露されたということもあって、ちょっと身近に感じる山車なのでした。

 さて、すべての「山鉾」が通った四条通りでは信号機も復元。
  

 そのころ、最後の新町通りは大変になっていました。
  
 この道はセンターラインも引けないごく普通の路地なのです。この狭い道を進む「月鉾」です。どの鉾にも屋根には数人の人が乗っていましたが、そのわけがわかりました。電線をうまくやりすごすためだったのです。ちなみに、この人たちを「屋根方」と呼ぶそうです。

 そろそろ帰ろうかと御池通りに出ると、まだまだ山鉾の列が続いていました。
  


    人の波見下ろしのどかな囃子の音    弁人

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Simon&Garfunkel Concert / OSAKA

2009-07-16 07:22:51 | お出かけ・散策
7月16日(木)

 団塊の世代が夢中になったアーチストは「マイケル・ジャクソン」ではないでしょう、きっと。
 「プレスリー」?「ビートルズ」?「ボブ・ディラン」?・・・私は「サイモン&ガーファンクル」です。


 1968年4月、大学生になってまだ2週間ほどのある日、一枚のはがきが舞い込みました。二ヶ月後の6月に公開されるダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」の試写会の案内状でした。
 往復はがきの返信用なのですが、私は応募した覚えがありませんでした。宛て名の文字も自分のではない。大学ではまだ親しい友人はできていないし、高校時代の誰かが私の名前で出したとしか考えられません。女性だったらとちょっとドキドキしますよね。
 心ときめく淡い期待感を抱き、「君、ほんとに授業サボるの?」という声を背に大学を出ました。たしか砂防会館だったと思います。残念ながらドラマはスクリーンの中だけで、知っている人には誰も会いませんでした。

 一人の青年が歩いている。暗い通路。重そうな足どり。バックから響いてくる低く単調なリズムのギターの音色、そして「ハロー,ダークネス,マイ,オールド,フレンド」の静かな出だしの歌声。その瞬間に、私はときめきも期待も何もかも忘れて、スクリーンとサウンドトラックの世界に入り込んでしまいました。

 その日の夕方、私は秋葉原の石丸電気のレコード売り場(当時は売り場面積の広い専門店は少なかった)にいました。もちろん、サイモンとガーファンクルのレコードを探しに来たのです。4曲入りの「サウンド・オブ・サイレンス」はありましたが、「パセリ・セイジ・ローズマリー・アンド・タイム」のレコードはありませんでした。
 映画公開の2カ月前、日本ではまだ彼らの歌声は一部のマニアにしか知られていなかったのだと思います。店員も心得がない状態で一緒に探してくれました。

 この日に手にした一枚のレコード。実は今でも大切な宝物になっています。なにしろ、サウンドトラック盤ではない「サウンド・オブ・サイレンス」なのですから。こっちのほうが微妙に味わい深い音質に感じられるし、「リチャード・コーリ」など、その後に発売されたレコードやCDにはほとんど収められていない曲が入っています。ただ残念なのは、レコードプレーヤーを処分してしまったので今は聞けないことでしょうか。

 さて、彼らの歌う名曲の数々。ガーファンクルの美声もさることながら、とにかく作詞家ポール・サイモンの詩が生命になっていると言っても過言ではありません。
 ここでは知ったかぶりの解説は遠慮しますが、曲名を見ただけでも、「静寂・沈黙の音、調べ」とでも訳すのでしょうか、「サウンド・オブ・サイレンス」ということばは実に哲学的ですし、安らぎや癒しをもたらすハーブ(香草)の名を列ねた「スカボロー・フェア」の「パセリ・セイジ・ローズマリー・アンド・タイム」というアルバムのタイトルも何か意味深げな感じです。「私は岩だ」と歌う「アイ・アム・ア・ロック」には凝り固まる自分とか言動を封じ込めて行く雰囲気が漂っています。打ちのめされながらも立ち上がろうとするイメージの「ボクサー」。本当のアメリカを探そうと訴える「アメリカ」。
 ケネディ暗殺で衝撃を受け、ベトナム戦争で傷ついたアメリカの人々。二人はそんな社会の現実を見つめ、明日への生き方を問い続けてきたのです。その鋭い洞察力と卓越した表現力、それを歌いあげるアート・ガーファンクルの美声には神々しささえ感じてしまいます。


 4月頃だったでしょうか、夏にサイモン&ガーファンクルが来日するということをどこかで耳にしたのですが、まだ先の話だと気に留めませんでした。思い出したのは三週間程前。梅田のショッピングビルを歩いている時に「明日に架ける橋」の曲が流れていたのです。帰宅後インターネットで調べたところ、まだチケットの残が少しありました。いちばん上のランクの席でしたが、「冥土の土産」かもしれないと奮発しました。


 2009年7月13日の月曜日。場所は大阪、京セラドーム。

  パンフレットの表紙と5年前のステージでの写真
   
    

 地下深くにできた阪神難波線「ドーム前」駅。ホームから人の波で、地上に出るまでが大変でした。そして外のドームへの道も人、人、人の波。
 ほとんどがおっちゃんとおばちゃんです。おそらく6~7割が50才以上のシルバーエイジ。さすが団塊世代には「神さま、仏さま、S&Gさま」といったところなのでしょうか。

  写真撮影は禁止ですが、開演前にケイタイでそっと一枚。
   

 京セラドームの観客席は3万5千。外野席を除いても2万席は優に超えそうです。それにグランドの部分の観客の数。これもハンパではありません。都合5万人を超えているのかもしれません。

 さあ、開演。
 まずは「オールドフレンド」から入り、続いて「アメリカ」「アイ・アム・ア・ロック」などのスタンダードナンバーで引き込みます。若かりし時代の香りが蘇ってきます。15年前に一人で行ったアメリカの匂いも。
 60才台も後半の二人のアーチスト、さすがにかつてのイメージどおりとはいきません。ガーファンクルの美声にも40年の時の流れを感じさせられましたが、まあ、これは仕方のないところ。
 ステージと観客の距離感が少なくなってきた頃合いに、二人が交互に休憩に入り、ガーファンクル、サイモンの順でソロのステージが30分ぐらい続きました。やがてガーファンクルが戻り再び二人になると、会場はいよいよクライマックスに突入。
 「スカボロー・フェア」の旋律に酔いしれていると、やがて、たぶん最後の曲になるだろうと思っていた「明日に架ける橋」のメロディに。時計は20時45分。おかしい、まだ僕の好きな「ボクサー」聞いてない。それに「サウンド・オブ・サイレンス」だって歌ってないよな・・・・・そんなことを思っているうちに「明日に架ける橋」が終わり、拍手と喚声の中でガーファンクルから「おおきに。グッド・バイ」という無情なことばが。
 「マジ?」と思いながら、アンコールの拍手をしていると二人が再登場。ここで「サウンド・オブ・サイレンス」となりました。なぁーんだ、そういう演出だったの。
 次のアンコールで「ボクサー」がきました。このあとも拍手の音は鳴りやまず、再度「ボクサー」、さらに、これも歌っていなかった「いとしのセシリア」。これも二回歌ってとうとうお開きに。21時10分。アンコールは30分近く続いていたわけです。グランドの聴衆はもちろんスタンディングオベーション。やはりコンサートはこうやって盛り上がるのです。

 以上、「リチャード・コーリ」は聞けませんでしたが、感無量の夏の夜のひとときでした。

  一生の思い出のTシャツ
    


    文月に心よみがえるハーモニー

    明日を問ふ声和してくる夏の宵    弁人

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坊っちゃんスタジアムと道後の湯

2009-07-14 15:28:25 | スポーツ観戦等
7月14日(火)

 松山には縁が薄かったのか、仕事で一回訪れた記憶しかありません。それも30年以上も前のこと。先月広島へ行った時に、ふと道後温泉の「坊っちゃん湯」に行きたいと思いましたが、時間の都合で果たせませんでした。

 さて、野球の話に移ります。
 今年は楽天のマー君が大活躍中で、今やダルビッシュと並んで日本球界のエース格です。
 ご存知のとおり、彼は3年前の夏の甲子園の決勝で早実のハンカチ王子に負けましたが、ハンカチ王子こと早稲田の斉藤君がどれほどの投手なのか。実は一昨年の秋の暮れに、明治神宮大会の決勝戦を見に行きました。その時はまだ1年生。相手は東洋大学のエースで、現在ソフトバンクホークスの先発陣に入っている大場投手。試合は1-0の投手戦で東洋大学が勝ちましたが、球の伸びやコントロールなど、私の見た感じでは全て斉藤君のほうがよく見えました。
 もう一人、昨年の春のセンバツの優勝投手、沖縄尚学の東浜君。彼の投球も甲子園で見ました。細身ながら145キロ以上のストレートと90キロ台のスローカーブで打者を翻弄します。走者を出した時の制球が気になりましたが、亜細亜大学へ進んだ春のリーグ戦で、1年生ながら4試合連続完投勝利を達成し、今や大学野球のスター選手です。

 今は隔年開催になりましたが、いつもこの時期に行われる日米大学野球大会。今年は37回大会です。

 今回の日本チームは、上の二人のほかにも法大の二神投手など好投手が揃っているということで気にしていたところ、12日(日)の第一戦が松山の「坊っちゃんスタジアム」と聞けば、やはりじっとはしていられません。


 日米大学野球といえば、33年前のやはりじっとしていられなかった時のことを思い出します。

 1976年の第5回大会。日本のエースは法大の3年生江川。4年生に日大の佐藤義則(現楽天コーチ)、駒大の森繁和(現中日コーチ)、大商大の斉藤明夫(元横浜コーチ)が肩を並べる錚々たる投手陣でした。なにしろ、斉藤と佐藤は翌年ともにセパの新人王、森も西武の抑えで大活躍した投手です。
 私は、土曜日から三日間、第3戦までの神宮球場の試合の通し切符を購入、仕事をサボって全部見に行きました。ところが三日間とも全く歯が立たずに3連敗。初戦で、追い込んでからのウエストボールをスタンドに放り込まれた江川。試合後、ユニホーム姿で球場からラグビー場のほうに歩きながら関係者と何やら話していた時のこと、彼は目をパチクリさせながら額の前で手を左右に動かして、「だって、こんな球ですよ、考えられませんよ」と言ったあと、脇で見ていた私に向かって、「ねえ」と同意を求めてきたのです。比較的長身の私と目が合った瞬間、江川君は誰かと勘違いしてつい愚痴ってしまったのでしょうか。
 当時は7試合制で先に4勝で決着でした。瀬戸際に立たされた火曜日の第4戦は静岡の草薙球場。中継放送がなくじっとしていられなくて午後から休みを取り、東名高速を飛ばして18時からのゲームを観戦。雨中の試合は慶大の堀場のホームランでやっとの勝利。森繁和が勝投手でした。
 続く第5戦(4敗目)は広島球場だったのでさすがに行けませんでしたが、結局この大会、ちょっとひょうきんで憎めない江川クンは4試合に登板し0勝3敗とさんざんの結果に終わっています。
 みんな若かった。
 

 話は戻って、松山での野球観戦は広島行きと同様、日帰りはきついだろうとホテルを押さえました。ところが、朝一番の電車でないと試合開始の昼12時前に着かないのです。前日に一泊して観戦後に帰るパターンにすべきだったと思いながら、12日の朝、早起きをして出かけました。

 岡山7時23分発の松山行き「特急しおかぜ」
  

 瀬戸大橋を電車で渡るのはずいぶん久しぶりです。
  

 さっそくレンタサイクルでスタジアムへ向かいました。サブ球場の名称が「マドンナスタジアム」。その向こうに「坊っちゃんスタジアム」が見えました。
  
   

 スタンドは内野席全体に二階席が覆っていて壮観です。
  

 試合は、米チームの投手の155キロ前後の速球に手も足も出ず、「打てず、送れず、繋がらず」という、情けない時の広島カープのような状態で0-3の完敗。


 さて、松山といえば、球場の名前のとおり、もちろん漱石の「坊っちゃん」ということですが、正岡子規の故郷ということも忘れてはなりません。
 子規は草創期の野球に深く関わった人物で、7年前の2002年には野球殿堂入りをしています。
 ベースボールを「野球」と日本語に訳したのは、第一高等中学校の野球部員だった中馬庚という人らしいのですが、子規がそれより前に、自分の幼名の「升」(のぼる)にちなんで雅号を「野球」(のぼーる)という表記にしたというのも有名な話で、「打者」「走者」「飛球」「四球」などの訳語は彼の手によるものと言われています。とにかくベースボールに夢中だった彼は、野球を題材にした短歌や俳句もたくさん残しています。


 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
 打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に

 春風やまりを投げたき草の原
 草茂みベースボールの道白し          
                         子規


 ということで、坊っちゃんスタジアムには、野球博物館「の・ボール ミュージアム」が併設されていました。
  

 館内には、松山県勢の甲子園での活躍や、フランチャイズ球団を持たないのにオールスター戦を開催した経緯、また秋季キャンプに来るヤクルトの選手の寄贈品などが展示されていました。


    子規の郷ベースボールに麦わら帽   弁人



 天気予報が芳しくなかったので雨具を用意して来ましたが、梅雨明けを思わせる炎天。腕も顔もヒリヒリになりました。とにかく汗を流したい。

 なにはともあれ、道後の「坊っちゃん湯」に
  

 入浴400円。二階休憩浴衣付き400円増し。さらに400円足すと三階休憩タオル浴衣付きに。休憩スペースは北向きですが、すだれ越しにそよ風が入り、なかなかの風情です。夕方なのに不思議と蚊が入ってきませんでした。
  


    汗流し坊っちゃん気取りの夕涼み   弁人


 翌日はのんびりと船で広島へ渡って帰りたかったのですが、どうしてもいったん家に戻って、夕方までに大阪へ行く大切な用事があったので、往路と同じ経路になりました。

 次回は、その「大阪での大事な用件」が話題です。


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明石-水物語

2009-07-10 16:55:48 | 明石風物
7月10日(金)

 梅雨らしいぐずついた空模様が続き、まるで、妖怪か何かに生ぬるい舌でなめられているような湿った風が海から流れてきます。

 とはいえ、やはり瀬戸内は雨が少ないのでしょうか、テレビでは今年もこの時期お決まりの、四国の早明浦ダムの渇水が報じられています。もしかすると、このダムの知名度は全国NO.1かもしれませんね。それにしても、これだけ恒例の話題になると、雨の少ない土地柄で仕方ないのかそれとも計画が甘かったのかわかりませんが、何かよい対策が講じられないものかと少しイライラしてしまいます。まあ、メデァが興味本位で取り上げ過ぎているのかもしれませんが。

 ところで、明石に隣接する神戸には「六甲のおいしい水」というのもあるし、きれいな水がなければ成り立たない酒蔵も多い。きっとこのあたりは水に恵まれているのだろうと思っていたのですが、そうでもなさそうです。
 
 昨年、灘区の都賀川で鉄砲水が起き5人の犠牲者を出しました。考えてみると、六甲山系の水はあっという間に海に流れ込んでしまうのです。いったい神戸の水道の水源はどうなっているのだろうと調べてみると、結局、「琵琶湖淀川水系」の水が75%を占めていて、残りも20%は貯水池からということでした。
 「六甲のおいしい水」というのは灘区の住宅街で地下水を取水しているそうですが、はたして、大手メーカーが全国展開で販売するほど天然の良質な水が取れるのかどうか、そのことは一部で問題視もされているようです。


 私なんぞは「貯水池」といえばダムを思い浮かべますが、明石から西のほう、いわゆる播磨の東部の平坦地は日本一「ため池」が多い地域としても有名です。外出すると池がよく目に入ります。そこで地図を見てみると、明石から加古川の辺りにはたくさんの池が点在しているのがよくわかります。


 住まいから1㎞ほど北西に県立明石高校があって、その向こうに「平池」という池があります。住宅街の中ですがけっこう広い。車でよく通る道沿いにあるので親近感があります。
  

 西明石の次の駅が大久保。南に神戸製鋼の工場がありますが、その隣にある「皿池」が明石市でいちばん大きい池なのだそうです。
  
 今では、明姫グリーンロードという国道250号線が真ん中を突っ切っていて、池が二つに分断されています。

 もともと「ため池」は農業用水なのですが、明石市では水道用の貯水池として改修した池もあります。
 西明石の北西にある「野々池」
  
 細長くフラスコのような形なので、見る角度によっては「皿池」より大きく見えます。周囲は遊歩道になっていて、のどかな気分で散歩ができそうです。

 「野々池」のそばにもう一つ水道用の池がありました。「亀池」という池で、これはそんなに大きくなくて「野々池」の5分の1くらいでしょうか。
  

 この二つの水道用の池のあいだには「黒星池」という池があり、ここは親水公園ふうに整備されていて「コサギ」も羽を休めていました。
  



    鷺の眼に播州平野の池の群れ   弁人



 明石市の水道は、この二つの池の水のほか、明石川の水と兵庫県の県水とでまかなっていて、いわゆる「琵琶湖淀川水系」の水には頼っていないのでした。
 「琵琶湖淀川水系」の水は「水都大阪」を担う大切な水ですが、近畿地方の人口の多い地域を流れ、そこからの生活排水の問題もあり、昔から水質についてはいろいろと取り沙汰されてきたところです。まあ「おいしそう」とはとても思えません。

 さて、最初に「平池」という池を紹介しましたが、そのそばの高台に配水塔があります。今まで私の身の回りで、こういう塔の形の施設を見たことはなかったと思います。我が家の水はここから供給されています。
  

 配水塔では、山陽線を下る時に目に入る大久保の先の魚住にある塔がとても大きい。明石市は西に平地が広がっていて、その地域への供給用だと思います。
  

 なにはともあれ、過去に琵琶湖の渇水で近畿圏の水道が心配された時でも、明石では給水制限をしなかったということです。

 とはいうものの、やはり水の少ない土地柄なのでしょうか。多くのスーパーには飲料用水の給水機があります。たまたまでしょうか、こういうものも私は明石に来るまで見た記憶がありませんでした。
 「電子イオン水」と呼ぶお店
  

 この店は「純水」と言っています
  

 私はかなり前からキリンの「アルカリイオン水」を愛飲してきました。明石に来てからも購入して来ましたが、逗子ではボトル90円で買えるのに、明石では100円前後の表示に出合うのはまれで、150円以上のこともあるのです。たいした金額ではないのですが、主婦感覚が身についたのか、5、60円も高いと買う気になりません。そこで年明けから、給水機に「アルカリイオン水」と銘打っているスーパーで調達するようになりました。
      
 なるほど、「AEON」系列の店です。
 カードを作って、最初に3ℓの専用のポリタンを買いました。あとは1日1回無料です。どこの店も同じような形のようです。最近は暑いせいか、一日おきくらいのペースで行かないと足りないくらいです。そのせいで、ほかのスーパーへはあまり行かなくなってしまいました。



    汗拭うひとときの涼イオン水   弁人


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KAZU、おかげさまで満1才

2009-07-05 15:25:02 | KAZU君
7月5日(日)
  



 去年の7月4日、真夏の暑さの一歩手前。
KAZUが生まれたのは、たしかにこんな感じの汗ばむ日の午後でした。予定日より2週間も遅れたのでずいぶんヤキモキしたものです。


 降参する兵士のように両手を挙げてバランスをとりながらですが、2メートルくらい歩けるようになりました。
     

 初誕生日といえば「一升餅」でしょうか。でも約2キロというのはさすがにかわいそうなので、丸餅と野球ボールと500グラムのペットボトル、都合1キロちょっとをリュックに入れて担がせてみました。やっぱり起き上がれずに泣きました。
  

 ペットボトル分を軽くしたら、歩いてはくれませんでしたが、ハイハイをしながら立ち上がりました。
 
     

 初めてのケーキ。ロウソクの火にびっくり
  

 プレゼントは、スーパー少年になることを願って、胸に「S」マークの「DREAM・BABYS」のTシャツ短パンとよだれ掛け
  



    夏還り二足歩行の初誕生    弁人  



 パーティは3時過ぎ、昼寝から目覚めたあとに開きました。というのは、この日は7月の第一土曜日で、保育園の夏祭り(七夕祭り)が夕方にあったのです。ちょうどよいお誕生日のイベントになりました。

 甚兵衛姿で、さっそうとご登場
    

 まずは短冊に「みんなと仲良く遊べますように」というお願いを書いて、笹の枝に託してから。
  

 さて、何から遊ぼうか。でも、全部初めてなので戸惑い気味。
  

 最初は「水玉すくい」
 
    

 「ヨーヨー釣り」も水が冷たくて気持ちがいい
  

 「ボール投げ」ならぬ「ボール入れ」
   

 遊んだあとは全員で「親子劇場」。でも、お話の中身はチンプンカンプン
  

 帰りにたこ料理店でご会食。KAZUは持参のミルクと冷ややっこ、あとはみんなのおすそ分けでした。
  



    短冊の願いを笹に甚兵衛の児   弁人



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つぶやきNo5 「早く総選挙を」

2009-07-02 10:14:46 | つぶやき
7月2日(木)

 一昨年の秋だったでしょうか。総理大臣が安倍晋三氏から福田康夫氏に変わった時に、早く総選挙をして新しい体制で日本社会の閉塞感を打破してほしいと痛切に思いました。
 しかし、結局解散できずにその首相も辞め、当初は選挙管理内閣っぽい色彩を持って発足した現政権は、ただひたすら権力の延命を図る中で自らを窮地に追い込み、9月には任期満了も迫っているというのに、マニフェストをまとめる機能も失っています。
 そして、つまらない駆け引きに時間を費やしているうちに、国民全体をも泥沼の中に引き込んでいるかの様相、どうにも我慢がなりません。

 だいたい給付金では自動車はおろかテレビも買えません。1000円で列島を走り回ってご満悦のあとのお盆明けに選挙とかを考えているとしたら、本当に国民はバカにされたものです。
 景気対策と言いながら、「給付金」も「高速1000円」も「エコポイント」も、どう考えても一時しのぎの関心集め、一部の人はほくそ笑んでいるかもしれませんが、税金の無駄遣いと温暖化促進の愚策としか言いようがありません。

 もともと小選挙区制というのは、二大政党制を促進するための制度だったはずなのに、その方向で行われる選挙を目前にして、今、一つの政党が崩壊寸前の状態になりました。原因は、政権与党の中で権力を行使したいという気持ちを捨てきれない議員一人ひとりのエゴからきています。
 やはり日本では二大政党制は無理なのかもしれません。でも、そのことは今後の課題として、とにかく現制度下で一方の政党が崩壊する前にちゃんと選挙をしてほしいものです。

 心配なのは、明日からの天皇の海外訪問中の2週間です。この間に政権与党の党内抗争が激化すると細胞分裂のような事態になりかねないということです。
 先日更迭された前総務大臣の言動からもわかりますが、多くの議員が負組から抜け出したくてうずうずしているのです。内輪もめの果てに離反者が続出し、組織としての体をなさなくなる可能性も否めません。
 ちなみに天皇の海外訪問中でも解散はできるのです。代行なさる方がいらっしゃるのですから。ただ、そんな時に解散すると、計画性のなさを非難され反発を招きかねないということなのです。でもこの段階まで来て、そんなことを言っていられるのでしょうか。もともと今の内閣に計画性などということを求める人などいないし、躊躇しているうちに本当に自民党自体が空中分解しかねないのですから。



 ところで、今度の日曜日の7月5日、こちら兵庫県では県知事選挙が行われます。全国的には、同じ日の静岡県知事選挙が総選挙の前哨戦ということで注目され、兵庫県のほうは話題にもなりません。
 なぜかというと、現職の知事が共産を除く自民、公明、民主等の相乗り推薦を受けていて、政策を含めて対立の図式が見えないからです。選挙はゲームではないので「面白くない」と言うのは不謹慎ですが、有権者の興味が向かないのは事実でしょう。
 県議会の構成を見ると、各政党の会派が存在しているのですから、国政レベルで対立している政党が県政レベルでどういう一致点があるのか、つまり、政党として或る候補者を推薦する理由を明らかにすべきだと思います。選挙公報では無理でしょうが、有権者にわかりやすい形で伝わるようにしてほしいものです。


 私は今まで投票所に行かなかったことは一度もありません。でも白票を投じたことがあるのです。
 かつて神奈川に革新知事が誕生したことがありました。ところがやがて、この知事が保守派からも指示されてオール与党になったのです。地方自治レベルではそのほうが住民のためになるのかもしれませんが、状況によっては、「革新」を標榜していても、体制側のご都合にも縛られるようになったりするのです。
 神奈川のこの知事は、逗子市の森林に米軍住宅を建設する問題で、初めは市民の意思表示を尊重する姿勢を見せながら、結局は国の圧力に屈して容認の立場に回りました。その結果、有権者の中に、違う考えの人を知事にしたいという意識が生まれても、オール与党の無風選挙ではどうにもならないのです。
 それだけではありません。有権者の関心が高まらない低投票率の中で、小都市が抱える問題を県民レベルではどう考えていくのかということを問う機会も失われてしまうのです。
 最近、二つの市にまたがる同じ森林の、もう一つの市の地域に計画された米軍住宅の建設を巡って、隣接する自治体同士が対立するという問題が生じています。こういう場合、国家の安全保障の問題が直接地域社会に重荷となってのしかかってくるのです。もし県民レベルでの支援があったらといつも思うのですが、そういう意識の有無が確認できません。


 話を戻します。
 兵庫県知事選はここ何十年もの間、何回も非共産対共産という図式の選挙が続いているそうです。どうも、神戸の市長選挙も、私のいる明石の市長選挙も同じ図式のようです。道路脇の掲示板には二人の写真が並んでいますが、見向きする人も少なく、公共施設の前の棄権防止啓発ののぼり旗がのどかにはためいています。このあいだ県立高校の正門にこの旗が並んでいる光景を見ましたが、関心の高まらない選挙戦と若者への啓発?、ちょっと滑稽だと思いませんか。
 今の県知事は「首都圏で大震災が起これば、関西の振興のチャンス」という発言で、石原都知事ともめた人物です。個性もあり、きっと手腕もあるのでしょう。でも地方とはいえ、保守的な支持基盤の中で権力を持っていれば、中央政権や企業などの利権とのしがらみもあるはずなのです。それが県民にどういう利益を与えるのかということを明らかにするためにも、有権者にとってもっとわかりやすい対立軸が必要なのではないかと思います。

 そんなことを思いながら新聞を眺めていたら、片隅に横須賀市長選挙の結果が載っていました。その後テレビでも報じていましたが、自・公・民・社・国新の五党相乗り、その上地元での人気が抜群の小泉元総理も応援した現職が敗れるとの報でした。負けた政党、みんな仲良しだったんですか。どう考えてもわかりづらい。不可解。そして滑稽な結末。

 国政レベルでの野党もしっかりしないと、有権者の中には予想もつかない新しい風が吹き始めているのかもしれません。「その人の政策でいいから」、あるいは「候補者を立てても勝ち目がないから」と、理由はいろいろあるでしょうが、庶民は「相乗りの無風選挙なんかには、なんとかして一矢を」という気分になっているのかもしれません。

 先日、NHKのローカルニュースで、前回の兵庫県知事選は33%という史上最低の投票率だったが、今回の調査では、投票に「必ず行く」「行くと思う」と答えた人が60%に及んでいるというようなことを言っていました。本当かなと首をかしげつつ、横須賀の例も考えると、もしかしたら有権者の中に今までとは違った意識が生まれているのではないか、圧勝と思われていた人が落選でもしたらどうするのだろうと、兵庫県では選挙権のない部外者が勝手に心配したりしているのです。


 それはともかく、

拝啓、総理大臣殿。
 追い詰められてどんな策を弄してもあがきにしか見えません。どうか、明日の日本のために、一刻も早く、国民が自分の投票の結果で誕生したと思えるような政権にして下さい。
 不況は長引くかもしれません。増税もあるのかもしれません。しかし、選んだ覚えのない人の政策で押しつけられるのはまっぴらです。
 あなたの率いる内閣は、私たちの投票の結果で生まれた政権ではないのです。


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