「傷つく」
私の考えでは、ひとの言動に「傷つく」のは、悪意のない時こそである。悪意があるならば、傷つけようというつもりでしたことならば、その通りに「傷つく」などシャクだ、そういう時はむしろ怒るのが筋(?)だ。そうではなくて、例えば、喜ばせようとしてしたことが迷惑だったとか、好意を汲み取ってもらえなかったとか。先方でも攻撃の意図までなかったらしい時、そういう時に私は「傷つく」。その感情が恨みにまで転化するかどうか、それはそのときそのときである。
マイナスの感情は表現が難しい。ひとの行為に対してマイナスの感情を持った場合、それに「腹たった!」「ムカついた!」と言えば、それをきいた第三者は話者を「気が短い」と思うかもしれない。これが「傷ついた」だとニュアンスが違ってくる。前者の場合、腹たった側に問題があるんでないか?と思う余地があるのに対して、「傷ついた」といえば、問答無用に傷つけた側が悪いようにきこえないだろうか。一見しおらしい、その実、被害者ヅラして相手を悪者にしている、そういう卑怯さを私は感じる。第一、ほんと~~に傷が深いと口にすることすらできないものではないのか、少なくとも、「傷つきました!」なんてすぐに吠えてくるのはたいして深くないと思う(#)。
そういうわけで、私は「傷ついた」なんて言葉は軽々しく使いたくない。
(もっとも、「傷つく」の意味にも個人差があって、不快な感情を持つことをひっくるめてこういう人もいるだろうから決めつけられないけどね)
対象が人間である場合、「嫌い」を「苦手」でごまかすことをしたくない。その話をする相手に対して遠慮がある(その人の身内・友人である)とか、嫌いと言ってしまうと後悔することになりそうだとか、いろいろと事情は考えられるけど。本来、「嫌い」と「苦手」は別のことのはず。私の場合、こちらでは嫌っていないけど先方で嫌がっていそうな気がするとか、タイプが違ってどう接していいか勝手がわからないとか、なんとなく鬱陶しいとか、そんな場合に「苦手」を使う。「嫌い」ほど敵意がない。
「嫌ってるわけじゃない 苦手なだけだ!」とは、なつかしの『南京路に花吹雪』、お母さんの来訪から逃げていた本郷さんの言ったセリフ。奇しくも、『エロイカより愛をこめて』の第11話『9月の7日間』のラストでの少佐の行動(父上が来るので休日出勤して逃げた)と同じで嬉しくなったものだ。(『エロイカ』があそこで中断していたならばそれなりに納得できたろうに)
「批判」という言葉に対しては私は少々構える。ただの「悪口」とは違って、論理的理性的、公平で冷静な態度で、必ずしも悪意・敵意はないーーという解釈でだいたい合っているはず。ドイツ語原書の全集ものなどで出てくるkritische Ausgabeと
いえば、大独和には「厳密な本文批判を経た校訂版」であると書いてある。ここでの「批判」とは、入念に検討を加えることで、難癖つけることではない。こういった使用例が頭にあるので、単なる愚痴、ぶーたれ(「ぶーたれる」という言葉は通じるのだろうか)、不平不満のレベルのものを「批判」なんて言いたくはないのだ。
#今月、ソノラマコミック文庫になった川崎苑子『いちご時代』にも、「人間て変なものでね ほんとうにみじめだったり衝撃をうけたりすると そのことつらくて口には出せないものらしいんだ」とあるから、私のこの感覚もそう珍しいものではないのだろう。
私の考えでは、ひとの言動に「傷つく」のは、悪意のない時こそである。悪意があるならば、傷つけようというつもりでしたことならば、その通りに「傷つく」などシャクだ、そういう時はむしろ怒るのが筋(?)だ。そうではなくて、例えば、喜ばせようとしてしたことが迷惑だったとか、好意を汲み取ってもらえなかったとか。先方でも攻撃の意図までなかったらしい時、そういう時に私は「傷つく」。その感情が恨みにまで転化するかどうか、それはそのときそのときである。
マイナスの感情は表現が難しい。ひとの行為に対してマイナスの感情を持った場合、それに「腹たった!」「ムカついた!」と言えば、それをきいた第三者は話者を「気が短い」と思うかもしれない。これが「傷ついた」だとニュアンスが違ってくる。前者の場合、腹たった側に問題があるんでないか?と思う余地があるのに対して、「傷ついた」といえば、問答無用に傷つけた側が悪いようにきこえないだろうか。一見しおらしい、その実、被害者ヅラして相手を悪者にしている、そういう卑怯さを私は感じる。第一、ほんと~~に傷が深いと口にすることすらできないものではないのか、少なくとも、「傷つきました!」なんてすぐに吠えてくるのはたいして深くないと思う(#)。
そういうわけで、私は「傷ついた」なんて言葉は軽々しく使いたくない。
(もっとも、「傷つく」の意味にも個人差があって、不快な感情を持つことをひっくるめてこういう人もいるだろうから決めつけられないけどね)
対象が人間である場合、「嫌い」を「苦手」でごまかすことをしたくない。その話をする相手に対して遠慮がある(その人の身内・友人である)とか、嫌いと言ってしまうと後悔することになりそうだとか、いろいろと事情は考えられるけど。本来、「嫌い」と「苦手」は別のことのはず。私の場合、こちらでは嫌っていないけど先方で嫌がっていそうな気がするとか、タイプが違ってどう接していいか勝手がわからないとか、なんとなく鬱陶しいとか、そんな場合に「苦手」を使う。「嫌い」ほど敵意がない。
「嫌ってるわけじゃない 苦手なだけだ!」とは、なつかしの『南京路に花吹雪』、お母さんの来訪から逃げていた本郷さんの言ったセリフ。奇しくも、『エロイカより愛をこめて』の第11話『9月の7日間』のラストでの少佐の行動(父上が来るので休日出勤して逃げた)と同じで嬉しくなったものだ。(『エロイカ』があそこで中断していたならばそれなりに納得できたろうに)
「批判」という言葉に対しては私は少々構える。ただの「悪口」とは違って、論理的理性的、公平で冷静な態度で、必ずしも悪意・敵意はないーーという解釈でだいたい合っているはず。ドイツ語原書の全集ものなどで出てくるkritische Ausgabeと
いえば、大独和には「厳密な本文批判を経た校訂版」であると書いてある。ここでの「批判」とは、入念に検討を加えることで、難癖つけることではない。こういった使用例が頭にあるので、単なる愚痴、ぶーたれ(「ぶーたれる」という言葉は通じるのだろうか)、不平不満のレベルのものを「批判」なんて言いたくはないのだ。
#今月、ソノラマコミック文庫になった川崎苑子『いちご時代』にも、「人間て変なものでね ほんとうにみじめだったり衝撃をうけたりすると そのことつらくて口には出せないものらしいんだ」とあるから、私のこの感覚もそう珍しいものではないのだろう。