弁理士の日々

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相馬黒光と佐々城信子

2015-11-05 21:16:33 | 趣味・読書
黙移 相馬黒光自伝 (平凡社ライブラリー)
相馬黒光
平凡社

「欺かざるの記抄」の解説に、独歩と信子の関係を題材とした書籍が記載されています。その中に、相馬黒光の「黙移」が入っていました。
前回「国木田独歩と佐々城信子」に引き続き、独歩と佐々城信子の顛末について、相馬黒光が見た様子を上記書籍から拾っていきます。

相馬黒光(女性)、結婚前の姓は星、名は良といいました。結婚して相馬良、黒光はペンネームです。
仙台の旧士族である星家に生まれました。
星良が少女の頃、父親が亡くなって家は貧乏であり、姉が精神病を病んでいる状況でした。裁縫学校に通っていたのですが、「あんなに勉強したがるものを遊ばせておいては可哀想だ」といわれ、地元のキリスト教系の宮城女学校に通うようになります。
宮城女学校は米国系で、学校では米国流を押しつけます。学校内の優秀な生徒たち5人が改善を要求しますが受け入れられず、逆にその5人は退学処分となりました。5人と連絡していた星良は、退学処分にはなりませんでしたが、次の年に自主退学しました。
星良の周囲の人たちの尽力で横浜のフェリス女学校に入り、さらに本人の希望で明治女学校に転校しました。
佐々城信子が国木田独歩と恋愛し結婚し破局した当時、星良は明治女学校(東京)の寄宿生徒でした。

星良の母親は星家の娘であるみのじです。父親は星家に婿養子で入りました。
星家の叔母に豊寿がいます。豊寿が佐々城本支と結婚し、その長女が佐々城信子です。東京で寄宿生活を送る星良は、しばしば同じ東京の佐々城家を訪れていました。

《佐々城信子の人となり》
『佐々城信子は、この佐々城本支、佐々城豊寿の間に、はじめての子として生まれ、母の才気を受け継ぎ、一人の弟と二人の妹の上に立って、一番輝いて見えるような位置にいました。私が上京しました時分、たしか十六であったかと思いますが、その賢しいこと器用なことでは田舎者の私など足下にも及ばず、殊に母のもとへ多勢の客のある時など、そのたくみなもてなし振りと豊富な話題、無邪気でいて誇らかな、そして洗練された姿態、ほんとうに信子が出ると、一座の視線がみなその顔一つに集まるという風でした。(黙移 p117)』

《恋愛の実相》
独歩によると、
『嬢は吾に許すに全身全心の愛を以てすと云えり。』
『嬢は乙女の恋の香に醒ひ殆ど小児の如くになりぬ。吾に其の優しき顔を重たげにもたせかけ、吾れ何を語るも只だ然り然りと答ふるのみ。』
とあります。
一方、信子が黒光に語った所では、
『一体私は国木田を好きであったことは本当でした。けれども結婚しようと言われると急に怖くなったり、いやになってしまう。あの人は話し上手でしたから、とても面白かったけれど、女をわが物顔したり女房扱いをされると私は侮辱を感ずるのです。』(黙移 p150)

《結婚騒動》
国木田独歩と佐々城信子が結婚する前後、ずいぶんと騒動がありました。
国木田独歩は以下のように述べています。
『10月28日
佐々城信子は父母の虐待を受けて三浦氏に投じたり。三浦氏より数回の談判を佐々城氏に試みたれども事成らず。信子尚ほ三浦氏にあり。
(遠藤よき 信子の女学校時代の友人で、信子より2、3歳年長。)
(三浦逸平 遠藤よきの姉の夫。兜町に住む。)
信子嬢断然わが家に来たり投ずるの外、策なし。
11月3日
31日、信子嬢来宅、滞在。この夜、よき嬢来宅。
11日
午後7時信子嬢と結婚す。』(欺かざるの記)
以上によると、信子が自分の意思で三浦氏(信子の友人である遠藤ゆきの姉の家)に逃げ込んだかのようです。
三浦氏の家に滞在していたことは確かですが、信子は国光に以下のように述べています。(父さんに国木田から来た手紙(「未来の妻よ」と書いてあった)を見つかり、父母から叱られてわあわあ泣いてしまった騒動があったとき)
『この騒ぎの最中にあの○○さんが来たのです。「ともかく私に今夜は任せてください」と両親をうまく宥めて、私をあの人の姉さんが嫁に行っている家に伴れて行きました。私がそこで驚いたことは、その直ぐ翌日に早速国木田がそこへ私を訪ねて来たことです。
そのうち○○さんは佐々城の家の様子を見て来るからと言って、四国町に行ってくれたと思うと帰ってきて「まだまだあなたは家へは帰れない。お父さんもお母さんもちっとも怒りが解けていない」と言って、・・・一方独歩は毎日来ては結婚を迫るのです。』(黙移 p150)
○○さんとは遠藤ゆきを指すのでしょう。
このときのことを、信子の母親である豊寿は
『あの時信子をあの婦人に任せたことでありました。「もう家につれて帰ってくれると待っているのに、あの婦人は自分ひとりで来て、「信さんはまだまだ独歩を思い詰めていて、無理にもここへ伴れ戻すとなると、どんなことになるとも限らない、まあも少し落ち着いてから」というのだった。私は軽率にもそれを信じていて、とうとう信子をあの時帰れなくしてしまった』(黙移 p152)と黒光に述べています。

結婚が決まったときの騒動は、遠藤ゆきが暗躍した上で、独歩が無理矢理に結婚を迫ったかのようでした。

《結婚生活》
独歩が勝手に自分の理想とする結婚生活を実践しました。
『12月8日
先月19日の幽居以来すでに半月を経過したり、吾等が生活は極めて質素なれども極めて楽しく暮らしつつあるなり。質素は吾等の理想にしてその実効は倹約と時間の経済なり。米五合に甘藷を加えて一日両人の糧となす。豆の外に用うべき野菜なし。時々魚肉を用うれでも二銭若しくは一銭七りんの「あじ」「めばる」「さば」の如き小魚二尾を許すのみ。粗食というをやめよ。
明治29年2月12日
信子は満腹の愛と信をわれにささげつつあり。』(欺かざるの記)

しかし、黒光の観察は全く異なります。
『二人のいるところは、柳家という農家の一室でした。障子の彼方には百姓家の一家がいる。わずかに一室の何枚かの畳の上で、著述もし、物も煮るというような生活でした。あのお侠(きゃん)な江戸っ子らしい派手好きな、そして気位の高い信子には、果たしてうれしいものであったでしょうか。』(黙移 p127)

『初めのうちどこか二人が相似るように見えたのは、その現れた才気のみであって、根本的にはどうしても相容れぬものがありました。そして独歩にはもう人間として充分に成長した底深いものがあり、一方はまだ解ったつもりでも解っていない子供でした。独歩には信念があり、理想があり、信子には遊びがあり夢がありました。そして独歩は自分の愛の強さをあまりにも自信するため、独歩が恋の当事者でいながら、指導者のような優越感に立ち、独断的に働き過ぎたと思います。』(黙移 p151)

《信子の失踪と離婚》
結婚した翌年の4月以降、独歩と信子は、独歩の実家で独歩の父母と共同生活に入っていました。黒光の観察によると、信子は常に独歩か彼の母親の監視下に置かれていたようです。信子は自由が奪われていました。独歩自身、信子が逃亡することを予知していたかもしれません。
信子の失踪は、「やっとのことで逃げ出した」というのが実態であるようです。

《離婚後の信子とその一家》
離婚時、信子は身籠もっていました。独歩はそのことを知りません。
離婚後に生まれた子は浦子と名付けられました。信子の将来を思って、浦子は佐々城本支の娘として入籍され、里子に出されました。

信子が両親の反対を押し切って独歩と結婚したこと、そしてその半年後に離婚したことから、信子の母親の豊寿は「世間に顔向けできないことになった」として役職から身を引きました。
明治34年(1901)、佐々城本支が死に、その一ヶ月後に豊寿も死去しました。
『叔母はまだ49歳でしたから、あたりまえならようやく人生の体験も積まれて、いよいよ本格的の働きに入ろうとする年頃で、まだ決して病身などではなかったのですのに、信子の一件で世間の批判を浴びて引退すると急に力弱り、まるでその責を負うようにして遂に倒れたのであります。・・・罪九族に及ぶ。佐々城家の没落にはまことに罪九族に及ぶの感があり、近親の一人として悼みに堪えぬものがありますが、一歩離れてこれを思えばやはり封建時代より現代への過渡期に於ける犠牲者、そして悲劇中最も大いなる悲劇は、佐々城豊寿の死であると思われます。』(黙移 p138)

信子の両親が死んだあと、親類や周囲は、信子を落ち着かせようと、アメリカにいる森広と結婚させるために信子を船で送り出しました。しかしそんなことで信子が納得するはずもなく、船の事務長(妻帯者)と恋仲となり、そのまま同じ船で日本に帰ってきてしまいました。
さらに悪いことに、信子のアメリカ往復と不倫の顛末が、報知新聞に暴露されたのです。信子の子供である浦子までもがその記事に登場しました。
『その浦子のところを読まされた時、私は天より罰を下されたと思い、嘗てしらぬ戦慄を覚えたのでありました。』(黙移 p143)
その後の信子について、有島武郎は「或る女」の主人公として描き、また当の国木田独歩は「鎌倉夫人」として描きました。
信子だけでなく、信子と独歩の娘である浦子をも苦しめることになりました。

黒光は以下のように述べています。
『そして彼(独歩)自身の悲劇に終わりました。自分ばかりでなく、その恋人を倒し、恋人の一族を破滅に陥れました。独歩自身は勿論それを望んだのではないのですが、あまりにも才筆に走り過ぎ、その筆は又あまりに力強かったため、言々人を動かし、その異常な迫力が間接的に相手を刺し、とうとう願うところの反対の結果を起こしたのであります。』(黙移 p151)
『国木田独歩の妻になり、そして独歩を捨てた故に、あらゆる人から憎悪の眼をもって視られ、遂に世間から葬り去られた佐々城信子』

今回、独歩の「欺かざるの記抄」を読み、さらに相馬黒光の「黙移」を読むことによって、まずは佐々城信子、次いで相馬黒光という、二人の明治の女性に深い関心を寄せることとなりました。さらには、信子の母親である佐々城豊寿もいます。
遙か130年の昔にあったできごとですが、いくつかの書物を読み比べることによってあたかもつい最近生きた人たちのように知ることができました。

このあと、相馬黒光その人についてもまとめていきたいと思っています。
コメント (5)
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