弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

本間雅晴中将

2006-12-31 08:52:16 | 歴史・社会
本間正明氏が政府税制調査会会長を辞任しました。本間正明氏と本間雅晴中将とは縁戚関係にあるのかな、と漠然と考えていましたが、よく見ると「まさ」の字が違いますね。

本間雅晴中将は、太平洋戦争開戦時、ルソン島攻略の司令官であり、バターン半島のコレヒドール島攻略戦終了直後に、「バターン死の行進」で米兵捕虜を虐待死させたかどで戦犯として処刑されました。
本間中将指揮下のルソン島攻略については、当初の攻略作戦では成功せず、陣容を増やしての第二次攻略でやっと米軍を降伏に至らしめた経緯があります。中将はその責任を取らされ、攻略戦直後に司令官職を解かれ、予備役に編入されます。バターン死の行進当時にはすでに司令官職を離れていた、という説もあります。
しかし戦犯裁判では、責任を誰にも転嫁せず、ただ法律論で主張を展開し、最後は銃殺刑に処されたようです。
中将の夫人が法廷で証言に立ち、命乞いなどすることなく、本間中将が立派な人物であることを凛として述べたことも有名であるようです。

本間中将については断片的な知識しかありませんが、そのうちの一つは、辻正信に関するものです。太平洋戦争開戦当時、フィリピン人の有力者がおり、本間中将はその人物を占領後の軍政で活用する意図がありました。ところが、大本営の参謀に過ぎない辻正信が、独断でその人物を処刑してしまったというのです。
また、バターン死の行進で捕虜を虐待した件についても、辻正信の関与があったという話しも聞きました。

本間中将の人となりについて最も印象に残っているのは、日経の私の履歴書である人が語った事実です。最近になって、それが澄田智氏の巻であることがわかりました。何とかその内容を読みたいと検索したところ、電子書籍で閲覧できることが分かりました。私の履歴書についてはこちらで探すことができます。澄田智氏の巻はこちらです。

いずれの巻も、安い料金で購読することができます。また、最初の何節かだけですが、立ち読み(無料で)することもできます。
澄田智氏の巻について調べると、私が読みたいと思っていた節は立ち読みが可能な範囲に入っていました。さっそく読んでみました。以下に引用します。

3 恩人
 私は昭和一ケタの時代に中学生だった。三年生のときに満州事変が勃発して、日本は軍国主義への傾向を急速に強めていった。父は陸軍の軍人で参謀本部勤めをしていたが、私は軍人になる気持ちがなく、東京高等師範学校(前東京教育大学、現筑波大学)の附属中学で、ごく普通の中学生活を送っていた。
 ところが父の同僚の軍人の間では「軍人の子供で満足な者は軍人になるもの」と頭から決めているような風潮があり、はなはだ閉口したものである。
 そのころ父の友人である陸軍の軍人たちがよく家にきた。当時はみな貧乏軍人だったから、料亭ではなく、お互いに家庭に呼び合って宴会をしていたのだ。酒が一通り回ったころで家族一同があいさつに出る。
 そこで必ず始まるのが父の同僚からの「君はどこの学校へ行っているんだ」という質問である。「附属中学に行っています」と答えると「なぜ軍人にならないんだ」とくる。揚げ句の果てに、「不肖の息子だ。体も別に悪くなさそうなのに」としつこい。何になろうと勝手ではないか、野蛮な、いやな連中だと悔しくなるが、言い返すわけにもいかず、下を向いていると涙が出そうになる。
 そんなあるとき、一番上席にいた、威厳はあるが温厚そうな人が「いやあ、軍人にならなくてもいいんだ。学者になっても、外交官になっても、良い仕事をすれば立派に日本のためになる」と言ってくれた。その人はさらに「芸術家になって文学でも絵でもやって、それが立派な作品なら、それもお国のためだ」と言う。一番の上席にいる人がそういったので、私をからかった人たちはみな黙ってしまった。
 うれしかった。この世が急に明るくなったような気持ちだった。陸軍の軍人にもこういう人がいたのかと思った。
 席を外して母にそっと「いまの方はどなた」と聞くと、「最近、英国駐在武官から戻ってこられた本間さんよ」と教えてくれた。後に「バターン死の行進」の責任を問われて処刑された、あの本間雅晴中将で、当時は大佐だった。
 本間さんは海外駐在が長かったこともあり、開明的な考え方をもっておられたのだろう。今でもその時の情景は目に浮かび、本間さんの声が耳に残っている気がする。ちょうど進学を前にした中学四年生のときだった。私は本間さんの言葉をかみしめ、将来の志望を第一に外交官、第二に学者、第三に芸術家とひそかに心に決めた。
 結局、私はそのどれにもならず、あるいはなれず、もちろん本職の軍人にもならなかったが、短期現役の海軍士官になった。
 後年、日本輸出入銀行の総裁としてマニラに出張したとき、ロス・パニオスで現地の人に尋ねながら、草深い村を分けて処刑地を訪れた。そこにある本間中将の墓碑は地球の上にハトがとまっているという平和の象徴のような石像で、日本語と英語で本間さんをしのぶ文が書かれていた。
 極東裁判のとき、本間中将の友人の英国人将軍が、中将が親英米的で人道主義的だったことを証言する口述書を提出したという。結果は悲劇的な最期となったが、本間さんが国際的にも信頼される軍人だったことはこの碑を見ればよく分かる。
 その近くには「マレーの虎」といわれた山下奉文大将の碑もあったが、木製で半ば朽ちており、本間さんの碑に比べれば失礼ながら、かなり差があった。戦争中、日本では本間さんより山下さんの方が有名だったにもかかわらずである。人生の有為転変はまことに思いもよらぬ厳しいものだと思いながら、私は本間中将の碑の前にぬかずき、生前に果たせなかったお礼を申し上げた。
---引用以上------

 こうして再度紐解いて読んでも、いい話ですね。本間中将についてはもっとよく調べた方が良さそうです。
コメント
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