弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

山田風太郎著「戦中派焼け跡日記」

2014-12-23 22:46:38 | 歴史・社会
戦中派焼け跡日記 (小学館文庫)
山田風太郎
小学館


私は、山田風太郎の下記2冊の日記を既に読んでいます。
戦中派虫けら日記―滅失への青春 (ちくま文庫)」(昭和17~19年)
新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)」(昭和20年)

諸々の第二次大戦回顧録は、戦争が終わってから執筆されているので、著者がいかに注意しても、戦後の価値観で筆が進みがちです。
それに対して山田風太郎日記は、当時山田風太郎が書いたまま、何も編集せずに出版されているそうです。そのため、昭和19年にしろ20年8月14日にしろ、そのときに感じたままが文章になっています。当時山田風太郎は医学生でしたが、将来小説家になるほどの人物ですから、文章が優れています。

私は、第二次大戦中の日本人が
○ どのような生活をし、
○ どのような情報に接し、
○ どのようなことを考えていたのか。
を生で知りたいと希望しています。その希望を叶えてくれる、ほぼ唯一の著書が、山田風太郎日記ではないか、と思っているほどです。

その山田風太郎日記、昭和21年以降の分も出版されていたのですが、ずっと文庫本が出されませんでした。文庫本が出たら買おう、と思って現在に至りました。
最近、楽天koboを入手し、楽天電子書籍が出ている場合は電子で購入するようにしています。そこで、山田風太郎日記についても調べてみました。
すると、すでに2011年以降、小学館から文庫本が順次出版されているではないですか。
取りあえず私は、楽天koboの電子書籍として、「戦中派焼け跡日記 (小学館文庫)」(昭和21年)を購入し、読み終わりました。

今回も感服しました。
私は、あたかも昭和21年の日本に降り立ったような錯覚にとらわれました。それほど、山田風太郎の描写は克明です。
また当時、列車の中では隣り合った人同士が大きな声で会話をしていたようです。また、道行く人々も大声で会話しながら歩いていたようです。山田風太郎によるその聞き書きが書かれているので、当時の日本人の考えがよくわかります。

電子書籍を読んで、その感想文を書くのははじめてなのですが、やはり戸惑います。読んだ後、紙の図書のようにぱらぱらめくって読み返したい場所を探すことが困難です。紙と違って検索が可能なのですが、検索キーワードを覚えていなかったらアウトです。

これからは、読んでいるそのときに、気になる箇所にはブックマークをこまめに入れていくことが必須のようです。
取りあえず、思い出した箇所を何カ所か、抜粋しておきます。

昭和21(1946)年1月17日
『午後、東京駅に行く。
東京駅の大ホールの凄惨さ--コンクリートが灼けて、赤錆びた鉄骨がうねって、床は沈没前の空母の甲板のようにでこぼこして--そして天井は筒抜け、円い巨大な抜け穴から、高い冷たい、眼に沁みるような碧空が澄み返って、時々そこをアメリカの飛行機が爆音凄まじく通ってゆく。
そこらを歩いてみる。「海外引き揚げ民相談所」と書いた紙が垂れ下がっている下に、--復員らしい三人の日本兵が、大きな背嚢を置いたまま、ぼんやり虚ろな眼をあたりに投げていた。
「復員ッていうと、何か悪漢みたいな気がして来たから、時勢の流れって、面白いわネ」
傍らをけばけばしい二人の少女が話しながら通り過ぎてゆく。』

私の父親も、昭和21年頃だったか、「復員したら(知らない)ばあさんから石を投げられた」と、(昭和40年前後に)話してくれました。

5月2日
大垣発東京行き列車の中
『車中、北朝鮮よりの引き揚げ民数名あり、男、女髪蓬々(ほうほう)として顔垢に埋まり眼のみ白く光る、衣服も乞食のごときもの。幼児すらその顔に悲愴なる暗き皺刻セリ。--隣の五十くらいの女は北朝鮮の状を語る。北朝鮮に日本の処女なしとは事実なるごとし。集団のソ連兵なれば眼前の事なるも黙認するより外なき由。脱出の苦悩を思えば内地の将来によし如何なること待つも耐え得という。
大垣出でしは7時16分。東京に三日、朝五時過ぎにつく。』

藤原ていの「流れる星は生きている」、「旅路」を思い出します。

5月4日
『東京へ来ても依然巷の声は絶望的である。真に真に絶望的である。・・・日本人は、ひもじい腹をかかえ、夕闇の中にぼんやり立って、小さく溜息と共にこう呟くだけである。「負けたんだから、仕方がねエや・・・」』

今後、昭和22年以降の日記を順次電子書籍で購入し、読んでいくことにします。
コメント
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