ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

ゴール

2018年09月10日 | ノンジャンル
人は、先が見えないことに不安を感じるが、
見える先などたかが知れている。

母親の母胎で誕生した時は無論、出生した時の記憶は
ないし、死を迎えて滅びに入れば、今生の記憶も
消滅する。

生がスタートとも言えないし、死がゴールとも
言えない。それは、具体化と潜在化の差だけであろう。

いわゆる正弦波のように、顕在と潜在というものが
あるだけで、波自体は営々として連続しているように
思う。

輪廻転生という事でもなく、永遠の過去より、
永遠の未来に向けて、連続しているという事だ。

正の生も、負の死も、同じ連続の中にあって、
それは始まりとか終わりとかではなく、認識する
もののつける区切りであると思う。

つまり、より良い生き方を実現するうえで必要とされる
区切りや節目という事である。

自然界では、いつ誕生して、いつ死ぬのかは大した
問題ではない。まさに寄せては返す波のようなものだ。

この連続の中にいる事を認識すれば、今を起点に
したところで、前も後ろも見通せるものではない。

そこに、見通しの及ぶ範囲で、区切りや節目をつけて
いるだけである。

不安の裏には、認識がある。
それを消して不安を消すか、それを受け入れて、
今できることをしていくのか。

昔、マラソンの選手が語っていた。
遠い先のゴールを思うと、すぐに走るのを
やめたくなる。

で、あの先の電柱まで走ろう、今度は向こうの
木まで走ろうと、細かく目標の区切りをつけて
走ると、なんとか最後まで走り切れると。

我々の人生というマラソンも同じ事であろう。
様々な区切りや節目を目途に、現実の今日を
生きている。

だが、そのゴールは死であるかもしれないが、
それもまた節目であり、終わりではないと
思うのである。