このブログは、一応、断酒に関するものなのだが、
雑感ということもあり、記事は多岐にわたる。
たまには、本来の断酒に関する記事を。
様々な酒害の経験を経て、断酒に至った人にとって、
最大の問題は、その継続にある。
初期において、再飲酒の危険性が高いのは、いわゆる
積み重ねが浅いからである。
こればかりは一足飛びにというわけにいかない。
一日断酒を、コツコツと積み重ねていくしかない。
初期においては理屈はいらない。ともかくも一年を、
死に物狂いで断酒する。断酒が目的であっても一向に
差し支えない。
事実は、一年継続できるのが20%、2年継続できるのが
さらにその20%である。
つまり、断酒を決意したところで、2年以上
継続できるのはわずか4%ということになる。
ドライドランクであろうと、なんであろうと、
兎にも角にも2年をお酒なしで過ごしたなら、
石の上にも3年といわれる寛解期を迎えることは
容易であろう。
さて、積み重ねというのは、これからである。
寛解というのは完治ではない。
当然ながら再発の可能性を有している。
我々にとっていざという時というのは、
何も酒席に出るとかといった特別なことではない。
深い悲しみや激しい怒り、あるいは大きな喜びも
あわせて、止むに止まれない飲酒欲求に翻弄されて
しまう時というのが必ずある。
そのどうしようもない時こそが、いざという時
なのである。
初期にスリップ、つまり再飲酒してしまうのは、
このいざという時の備えができていないからである。
つまり、練習が浅い中で、試合の本番を迎える
ようなものだ。勝てるわけがない。
要するに、どんな時でも、飲む暇があるなら、
できることを具体的にしていくという積み重ねを
どれだけしてきたかに尽きる。
石にかじりついてでもの断酒を3年。
目的でもなく、手段でもなく、飲む暇があれば、
1ミリでも前へ進むべく動く生き方の積み重ねが、
いつ訪れるともしれない、いざという時を
乗り越えさせてくれるのである。
つまり、積み重ねられた生き方としての
一日断酒は、決して自身を裏切らない
ということなのである。
雑感ということもあり、記事は多岐にわたる。
たまには、本来の断酒に関する記事を。
様々な酒害の経験を経て、断酒に至った人にとって、
最大の問題は、その継続にある。
初期において、再飲酒の危険性が高いのは、いわゆる
積み重ねが浅いからである。
こればかりは一足飛びにというわけにいかない。
一日断酒を、コツコツと積み重ねていくしかない。
初期においては理屈はいらない。ともかくも一年を、
死に物狂いで断酒する。断酒が目的であっても一向に
差し支えない。
事実は、一年継続できるのが20%、2年継続できるのが
さらにその20%である。
つまり、断酒を決意したところで、2年以上
継続できるのはわずか4%ということになる。
ドライドランクであろうと、なんであろうと、
兎にも角にも2年をお酒なしで過ごしたなら、
石の上にも3年といわれる寛解期を迎えることは
容易であろう。
さて、積み重ねというのは、これからである。
寛解というのは完治ではない。
当然ながら再発の可能性を有している。
我々にとっていざという時というのは、
何も酒席に出るとかといった特別なことではない。
深い悲しみや激しい怒り、あるいは大きな喜びも
あわせて、止むに止まれない飲酒欲求に翻弄されて
しまう時というのが必ずある。
そのどうしようもない時こそが、いざという時
なのである。
初期にスリップ、つまり再飲酒してしまうのは、
このいざという時の備えができていないからである。
つまり、練習が浅い中で、試合の本番を迎える
ようなものだ。勝てるわけがない。
要するに、どんな時でも、飲む暇があるなら、
できることを具体的にしていくという積み重ねを
どれだけしてきたかに尽きる。
石にかじりついてでもの断酒を3年。
目的でもなく、手段でもなく、飲む暇があれば、
1ミリでも前へ進むべく動く生き方の積み重ねが、
いつ訪れるともしれない、いざという時を
乗り越えさせてくれるのである。
つまり、積み重ねられた生き方としての
一日断酒は、決して自身を裏切らない
ということなのである。