ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

名を売る

2018年09月18日 | ノンジャンル
ドラマの役柄が、おかしなおばあちゃんという事で、
てっきり本当におばあちゃんだと思っていた。

名前からして、悠木千帆という、当時でもババクサイ
芸名であった。

何か別の番組に出ておられて、まだ若いお姉さんだと
知って驚いた記憶がある。

芸能人ともなれば、名を売るのが常だが、いわゆる
世間一般で言われる売名行為でなく、本当に
自身の芸名を売ったのもこの人だった。

実際は、番組のオークションか何かで、
オークションにかけるものがないからと、自身の
芸名を売ったのである。

それ自体、前代未聞だが、売った後につけた
新しい芸名が、樹木希林。

見方によっては、「き」だけでできた芸名で、
わざわざ新しい名前をこんな変なものにしなくても
よいのにと思った記憶もある。

年を経るに順って、相変わらず変な雰囲気は
色濃くなったが、不思議に透明度が増していった
ように感じていた。

もっとも最近、彼女を見かけたのは、CMでの、
おばあちゃんの幽霊役だった。

ああ、きっとこの人は、亡くなってもこんな感じ
だろうなと思わせるものだった。

実際に亡くなってみると、残念とか、悲しいとか
ではなく、何となく寂しいような、そんな気が
している。

人間、いつかは死ぬことは決まっている。
彼女は、飾らず、繕わず、あるがままの姿で、
その時を静かに迎えたに過ぎない。

だが、なかなかそうはいかないのが
世の常である。

ほほをすっと撫でて過ぎ去っていく風のような、
そんな清々しささえ感じた。

ある意味、理想的なこの世の越し方ではないか。

私もそうありたいものである。

謹んで御冥福をなどと言うと、そんなことは
やめてくださいと彼女は言うだろう。

過ぎ去った風のやわらかさをのみ、心に留めて
おくことにする。





積み重ね

2018年09月16日 | ノンジャンル
このブログは、一応、断酒に関するものなのだが、
雑感ということもあり、記事は多岐にわたる。

たまには、本来の断酒に関する記事を。

様々な酒害の経験を経て、断酒に至った人にとって、
最大の問題は、その継続にある。

初期において、再飲酒の危険性が高いのは、いわゆる
積み重ねが浅いからである。

こればかりは一足飛びにというわけにいかない。
一日断酒を、コツコツと積み重ねていくしかない。

初期においては理屈はいらない。ともかくも一年を、
死に物狂いで断酒する。断酒が目的であっても一向に
差し支えない。

事実は、一年継続できるのが20%、2年継続できるのが
さらにその20%である。

つまり、断酒を決意したところで、2年以上
継続できるのはわずか4%ということになる。

ドライドランクであろうと、なんであろうと、
兎にも角にも2年をお酒なしで過ごしたなら、
石の上にも3年といわれる寛解期を迎えることは
容易であろう。

さて、積み重ねというのは、これからである。

寛解というのは完治ではない。
当然ながら再発の可能性を有している。

我々にとっていざという時というのは、
何も酒席に出るとかといった特別なことではない。

深い悲しみや激しい怒り、あるいは大きな喜びも
あわせて、止むに止まれない飲酒欲求に翻弄されて
しまう時というのが必ずある。

そのどうしようもない時こそが、いざという時
なのである。

初期にスリップ、つまり再飲酒してしまうのは、
このいざという時の備えができていないからである。

つまり、練習が浅い中で、試合の本番を迎える
ようなものだ。勝てるわけがない。

要するに、どんな時でも、飲む暇があるなら、
できることを具体的にしていくという積み重ねを
どれだけしてきたかに尽きる。

石にかじりついてでもの断酒を3年。
目的でもなく、手段でもなく、飲む暇があれば、
1ミリでも前へ進むべく動く生き方の積み重ねが、
いつ訪れるともしれない、いざという時を
乗り越えさせてくれるのである。

つまり、積み重ねられた生き方としての
一日断酒は、決して自身を裏切らない
ということなのである。



視点

2018年09月15日 | ノンジャンル
芸能人や人気商売の人は、世間に顔が知られて
いる以上、事件やスキャンダルが大々的に
取り上げられる事は仕方がない。

一般の人ならニュースにもならないような事でも
まるで大事件のように扱われる。
そしてそれが生計を立てている仕事を失う
ことにもなる。

我が身は凡人で良かったと思うが、今回の
飲酒運転、ひき逃げ事件では、後に事故の
様子の動画を見て違和感を感じた。

どの番組も突っ込んでくる車両と、事故後
加速して逃走する点を強調していた。
飲酒運転については、我が身を振り返れば
偉そうな事は言えない。

事故こそ起こさなかったが、よくぞ事故を
起こさなかったものだと、思い返せば
冷や汗が出ることも多かった。

もし同じように事故を起こしていたなら、
逃げていたろうとも思う。

飲酒運転で事故を起こして、ひき逃げするなど
運転手が100パーセント悪いに決まっている。
ひかれた人達が軽傷であったのが幸いだったが、
その場にいた他の人達が、何も無かったように
普通に横断して行く姿の方がゾッとした。

一人は自転車ごと倒され、一人は歩行者で
同じく倒された。
側にいて、事故に巻き込まれなかった人達は
倒れた人達を見ながら、そのまま横断して
いった。

私はむしろ、その場面に薄ら寒い思いをした。
同時に、人の視点を操作することの容易さが
見て取れた。

事故そのものよりも、ある意味すごいなと
感じた場面であった





切れ目

2018年09月13日 | ノンジャンル
金の切れ目は縁の切れ目というように、この世の
人の関りは、とかく利害に絡んでいる。

利となる関り、害となる関り。

無論それは物質的なものに限らず、精神的な面に
おいても同じである。

毒にも薬にもならない、空気のような関りは、
互いに対等でいて、しかもそれぞれ大切な存在で
あるという点で理想ではあるが、稀有な関りで
あるといえる。

お金の切れ目は無利となり、お酒の切れ目は、
無害となる。

利もなく、害もなくというのは、人の関りに
おいては、その関係を強化するものではない。

ただ、一個の自立した人として、その人の
生き方が、関りを変えていくことは明らかだ。

利に近づき、害から離れるのは至極自然な
生き方だが、他を害さず、他を利する
生き方もある。

自身が無利無害、あるいは無利有害となった時に
変わらず空気のようにそばに寄り添う人が
多くいるのは、後者のような気がする。

要するに、財産も失い、健康も失い、命さえ
失わんという時に、誰がそばにいたかという事だ。

飲酒によって、離れていったものは多い。
断酒によっても、離れていったものは多い。

だが、そばにいたその人は、間違いなく、
今なお笑顔でそばにいるのである。
そして、昔も今も、その人は一個の人間として、
屹立しているのである。





空港閉鎖

2018年09月11日 | ノンジャンル
台風による、まさに想定外の事故と冠水で、
関西空港がほぼ機能していない。

連絡橋は、鉄道は不通、道路は片側のみ通行可能で、
対面通行としているが、もちろん一般車は乗り入れ
できない。公共のバスなどのみである。

2番ターミナルが復旧されたものの、ごく限られた
便数のみで、機能としては地方空港と変わらない。

想像を絶する台風の威力ではあったが、大阪の
表玄関ともいえる国際空港が長期的にマヒするなど、
予想だにしなかった。

帰国したのは、台風のわずか2日前。現地での状況に
よっては帰国日がずれていたかもしれなかった。

これまで数えきれないほどの渡航を繰り返しているが、
不思議と欠航という憂き目にあったことがない。
遅延はよくあるが、欠航で翌日便となるような
ことはなかった。

預けた荷物も、載っていなかったという事は
あったが、行先不明という事は一度もない。

息子が生まれる直前だったから、もう24年も前に
なるが、名古屋からマレーシアに渡航するのに、
前日に名古屋空港で墜落事故が起きた。

当然、空港は閉鎖となり、その後、航空会社と
連絡を取って、博多から渡航することになった。
電話がなかなかつながらず、結局、徹夜で
博多出発の段取りを組んだ。

それでも、予定当日に現地入りできたことになる。

今では、新しいセントレア空港となっており、
これからの渡航については、しばらくは
名古屋からとなるだろう。

台風接近の当日のフライトを予定していて、
欠航を前提に、最悪でも翌日のフライトで渡航する
段取りにしていた部下が、結果的に最悪を越える
空港閉鎖という憂き目に遭い、空港難民となって、
台風翌日の深夜、ようやく帰還することができた。

空港に置き去りにされた多くの人達のうちの一人と
なったわけだが、リスク管理という点では
減俸処分ものである。

空港での大変さはわかるが、翌日のフライトを
見越すなら、欠航になった時点で、せめて連絡橋は
わたって空港を出るべきだった。

我々の業務の特質上、なんの裏打ちもない
「なんとかなるだろう」は厳に廃さねばならない。

天祐を期待するのは、人事を尽くしてこそ
なのである。