コルシカ人という、フランスから見て「2流市民的:だったナポレオン・ボナバルトがフランスの英雄になりました。
コルシカではナポレオンの父親の上司だったのが、コルシカ独立を目指したパスカル・パオリ。
パスカル・パオリまたはパスクワーレ・パオリ(仏: Pascal Paoli, 伊: Pasquale de Paoli, 1725年4月6日 - 1807年2月5日)は、コルシカ独立戦争あるいはコルシカ民族主義の指導者で、政治家、軍人である。フルネームはフィリッポ・アントーニオ・パスクワーレ・ディ・パオリ(Filippo Antonio Pasquale di Paoli)。コルシカ独立運動の英雄であり、フランス側についた一族の出身であるナポレオン1世よりは現在でもコルシカ島では崇められている。
(中略)
フランス革命後、フランス政府の許しを得て、コルシカに帰還。パオリはコルシカの独立を心から望んでいたが、一方で、君主制主義者であり、8月10日事件で王制を打倒したのみならずルイ16世を処刑するに至った革命を嫌悪した。フランス軍の中尉となっていたナポレオン・ボナパルトは、初めこの英雄パオリを崇拝していたが、彼は王制を打倒した革命(政権)を受け入れる立場で、次第に路線の違いが明らかになっていった。パオリとその腹心ポッツォ・ディ・ボルゴらはイギリスの間接統治を主張するパオリ派を形成したことから、リュシアン・ボナパルトがトゥーロンで告発演説を行い、1793年、国民公会はパオリ逮捕命令を発した。しかしこれに従う者はおらず、アジャクシオで騒乱があって、パオリ派の支配する議会はボナパルト一族を島から追放した。
1794年、パオリはイギリス統治を受け入れ、アングロ=コルス王国を成立させるが、副王ギルバート・エリオットと対立し、1795年にはイギリスによって島から出るように命じられ、3度目の亡命を強いられた。イタリア軍司令官となっていたナポレオンは、1796年にコルシカを再占領して奪回する。パオリはそれを亡命先のロンドンで知り、二度と島の地を踏むことなく、1807年に亡くなった。
このパスカル・パオリの腹心となったのが、映画『最強のふたり』のフィリップ役のモデルの先祖でした。
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フィリップ役のモデルの祖父になると、コルシカをでてパリに住むようになっていましたが、彼は、コティ社やロレアル社の創業者と同じ、反ユダヤ、反共産主義者となりました。コティはコルシカ出身です。
スタヴィスキー事件-3(映画『最強のふたり』のフィリップのお祖父さん) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
Joseph Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)
抜粋フランス語google翻訳:
ジョゼフ・ポッツォ・ディ・ボルゴはクロワ・ド・フの指導者の一人であり、フランスのレジスタンス戦士であり、1890年11月10日にパリで生まれ、1966年5月12日にパリで亡くなった。彼はカグールに所属していた疑いがある。
参考:
ロレアル社創業者と娘婿とファシストグループ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フランソワ・コティ-3(「コティ」の名を勧めたエマニュエル・アレーネ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フィリッポ・ナルディ-3(国際組織) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フィリッポ・ナルディ-2(ヴィンセンツォ・ボレッリとビアジオ・ナルディと「カルボナリ」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
フィリッポ・ナルディ-番外編(カルボナリの創設者の一人は画家ロセッティの父) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)