Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

『ミュンヘン』から『ボルサリーノ』そしてアルジェリアとコルシカ-1

2023年11月23日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

映画『ミュンヘン』とイスラエル-番外編(ルイとパパはアルジェリア系フランス人) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の中で、「ルイとパパが、アルジェリア出身フランス人で、おそらくコルシカ系、アルメリア系マフィアと繋がりがあるのだろう」ということを書きました。

そして、この映画でジャン・ポール・ベルモンドの映画が出てくることから、彼の父親もまたアルジェリア出身フランス人(元は、イタリアのピエモンテ出身の家系)であったことも。

実は、ジャン・ポール・ベルモンドと人気を2分したアラン・ドロンがプロデュースした映画でも、

アラン・ドロンが1976年に作った“フランスのユダヤ人迫害映画” - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

主人公のロベール(アラン・ドロン演)の母方の祖母をアルジェ出身に描いています。

そして、アラン・ドロンの元妻だったナタリー・ドロンは、本人はモロッコ生まれですが、父親がアルジェリア出身。

ナタリー・ドロン - Wikipedia

 

アルジェリアから一旦離れますが、アラン・ドロンが企画して、彼とジャン・ポール・ベルモンドが共演した映画『ボルサリーノ』。

映画『ボルサリーノ』予告編 - YouTube

ボルサリーノ (映画) - Wikipedia

抜粋:

1930年のマルセイユ。若いチンピラのロッコ・シフレディが刑務所から出所する。彼は恋人ローラを探すため、キャバレーのオーナー、ダンサーを訪ねるが、彼が自分を裏切って刑務所に送った人物であると確信し、キャバレーに火を放つ。ダンサーの指示でローラを見つけるが、シフレディが服役している間に彼女は同じペテン師のフランソワ・カペラという人物と付き合っていた。

殴り合いを経てシフレディとカペラは友人となり、力を合わせていく。魚市場で悪徳商人を排除してきた彼らは、もっとできることがあると気づき、一緒に街を征服することを決意する。マルセイユの食肉を扱うレストランのオーナーであるポーリと、地下カジノのオーナーであるマレーロという2人のゴッドファーザーを相手に、無節操で想像力豊かな彼らが活躍する。何者かの裏切りにより、ポーリの食肉倉庫への破壊工作は失敗し、撤退を余儀なくされる。彼らはすべてから逃れるために田舎に行き、新しい仲間を集め、新しい武器を買い、復讐の準備をする。そしてマルセイユに乗り込み、レストランの前でポーリを機関銃で殺害し、マルセイユの名士に名を連ねることに成功する。

マレーロの弁護士リナルディが市の助役への立候補を表明したとき、シフレディは彼を排除しようとするが、カペラは自分たちが真っ先に疑われるから当分何もしないようにと忠告する。しかし、リナルディは何者かに殺害され、カペラはシフレディが自分に黙ってこの攻撃を行ったと考え、彼に説明を求める。その直後、リナルディが病院で殺害される。ダンサーはシフレディに彼のナイトクラブを焼かれたときから彼を憎んでおり、2つの犯罪組織の間で彼を始末しようとしていたのだった。しかし彼はカペラの一味に暗殺される。

マレーロはカペラの親族を殺させる。カペラとシフレディは、マレーロのカジノに乗り込み、カペラがプレイしている間にシフレディが目立たないようにマレーロを暗殺する。その直後に自分たちの一味がカジノに強盗に入って混乱を起こし、自分たち二人は他の客と一緒に強盗の被害者となることで殺人のアリバイを作る。この企みは成功し、二人はマルセイユの闇社会を完全に支配するに至る。

シフレディは二人の成功を祝うレセプションを開くが、カペラはいずれ二人が必ず争いになり殺しあうと考え、マルセイユを出ることにしたと告げてその場を去るが、その直後に何者かに銃殺されてしまう。その死を看取ったシフレディのその後の消息を知るものはいないという字幕が出て物語は終わる。

このロッコ・シフレディ(アラン・ドロン演)のモデルとなったのは、

マルセイユ生まれのフランシス・スピリト。

François Spirito - Wikipedia

フランソワ・カペラ(ジャン・ポール・ベルモンド演)のモデルは、コルシカ出身のポール・カルボーネ(カルボーン)。

Paul Carbone - Wikipedia

抜粋google翻訳:

Paul Carboneは1894年にコルシカ島南部の村プロプリアノで生まれた[4]。 彼はナポレオンの乳母イレリア・カルボーネの子孫であった[5]。 カルボーネが幼い頃、家族はマルセイユ郊外の貧しいパニエに引っ越しました。 彼はそこの学校に通い、勤勉な生徒でした。 カルボーネが 12 歳のときに父親が亡くなり、母親と 2 人の弟を養うために学校を辞めました。 彼は家族にお金をもたらすためならどんな仕事でも引き受けた[4]

カルボーネは15歳くらいのとき、エジプトのアレクサンドリアに移り、そこでポン引きを始めた。 彼が稼いだお金の多くはフランスにいる母親に送金されました。 彼の成功は一部のライバルのポン引きを怒らせた。 1913年、3人のポン引きがカルボーネを誘拐し、砂漠の砂に首まで埋もれたままにした。 3日後、彼は3人のポン引きがバーで自分たちのやったことを自慢しているのを聞いたフランソワ・スピリトによって救出された。

カルボーネとスピリトは生涯にわたる友情とビジネスパートナーシップを築きました。 スピリトはポン引きでもあり、女性をパリからエジプトの売春宿で働かせるネットワークの一員でもあった[1]。 試練から立ち直ると、カルボーネはエジプトを離れたいと考え、スピリトを説得して一緒に上海に行った。 そこで二人はアヘンの密輸に巻き込まれた。

これは第一次世界大戦が勃発するまで約1年続き、その後彼らはフランスに戻って兵役に就いた[1]。 暴行容疑で逮捕された後、カルボーネはバット・ダフ部隊に送られた[6]。 (バト・ダフはアルジェリアに本拠を置くフランス軍部隊で、犯罪歴や重大な規律上の問題を抱えた男性で構成されていた[7]。) 西部戦線で勤務している間、カルボーネは将来のサイモン・サビアーニ(後のマルセイユ市長)と出会い、友人となった。  カルボーネは紛争中の勇気を讃えられ勲章を授与された[4][1]。

参考:

Battalions of Light Infantry of Africa - Wikipedia

Simon Sabiani - Wikipedia

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「小さい家」を建てるなら | トップ | 『ミュンヘン』から『ボルサ... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク」カテゴリの最新記事