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ナポレオンが大物になった背景-9(「理性の祭典」~皇帝)

2023年12月15日 | フランス革命・サヴォイア・ユグノー・バチカン

ナポレオン(1世)は大物ではなく、初期は彼はヴァランスのサン=ルフ修道会(アヴィニョン)の力を借りて、ピウルス6世を引きずり下ろし(彼はヴァランスで死亡)、権力にすり寄る人々に利用され、利用しながら大物になっていった・・・そんなところではないかと思えてきました。

ジョセフィーヌが来ているエンパイアドレス(ギリシャ、ローマ神話風ハイウエスト、コルセットなしのドレス)が流行るようになったのは、ナポレオンの皇帝戴冠式(1804年)からかと思っていましたが、このドレスが注目を浴びたのは、1793年からのことのようです。

フランス革命期における非キリスト教化運動 - Wikipedia

抜粋:

ジョゼフ・フーシェによって1793年10月に発せられた墓地令では、共同墓地から十字架さえ撤去されて、死者を見守るのはただ「死は永遠の眠りである」と記された墓碑銘だけとなった[37]。死生観さえも世俗化され、以後、死と葬送は私事の領域へと移っていくこととなる[37]。共同墓地や教会から刈りだされた十字架は火刑の薪となった[37]。告解の場もまた焼却されるか、哨舎に転用された[37]。

非キリスト教化運動と並行して愛国的な市民祭典がさかんに催されるようになった[注釈 5]。そのなかで有名なのが、「理性の祭典」と「最高存在の祭典」であった。

「理性の祭典」は、1793年11月以降、パリのノートルダム大聖堂を中心にフランス全土で開催された祭典であり、ジャコバン派独裁のなか、同派のなかでジャック・ルネ・エベールを中心とするグループ(エベール派)の主導でおこなわれた[35]。国家規模で営まれた公式な祭典はエベールとアントワーヌ=フランソワ・モモロ(英語版)が監修し、企画や運営はピエール・ガスパール・ショーメット(英語版)があたった。

11月10日、ノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置され、神殿のなかからは「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるという趣向で「理性の祭典」が始まった[35][13][42]。祝祭の少女たちは白いローマ風のドレスとトリコロール(3色)の帯を身にまとい、「自由と理性の女神」のまわりを動き回った[43]。

赤いボンネットをかぶった女神は、白いドレスと青いマントを身につけて、手には黒檀の槍を持ちつつ緑色に彩色された玉座に着座する[42]。そこにアジテーターが「狂信はいまや正義と審理に決定的に席を譲った。今後司祭は存在せず、自然が人類に教えた神以外に神は存在しないであろう」というアナウンスで盛り上げると、革命賛歌の歌声が聖堂全体に響きわたった[42]。やがて、群衆が狂喜乱舞する祝宴が繰り広げられるという、きわめて無神論的、ないし無政府主義的な性格の強いものであった[42]。

マクシミリアン・ロベスピエールと公安委員会は、非キリスト教化した者たちこそむしろ革命の外敵であると弾劾し、独自の新しい宗教「最高存在の崇拝」を確立した。霊魂の不滅を信じる清廉潔白なロベスピエールからすれば、革命の祭典はこのような無神論的でアナーキーなものであってはならず、カーニヴァルのような前近代的民俗の再生ではなく、「新しい人間」すなわち共和主義的な公民を創生するための公教育の一環でなくてはならなかった[42]。「単一にして不可分」の共和国の基盤は道徳性を備えた民衆のなかにこそあるというのがロベスピエールの主張であった[42]。その道徳性なるものは信仰心なくして生まれないと考えるロベスピエールは、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったといわれており、キリスト教の「神」に代わるもの、それが「最高存在」なのであった[42]。

こうして、1794年5月7日の法令に基づいて6月8日にテュイルリー宮殿やシャン・ド・マルス公園を中心に「最高存在の祭典」が挙行された[35][13][42]。これはロベスピエール派による理神論的性格の強い市民宗教であった[44][42]。すなわち、「理性の崇拝」を批判しながらも、カトリシズムの「迷信」を排除しようというのがロベスピエールの立場であった[45]。

(中略)

1799年の後半には、司祭は依然として刑罰のため投獄されていたり、植民地に追放されていたりした。迫害は、ルイ=アレクサンドル・ベルティエ将軍率いるフランス軍が1798年の初めにローマを占領し、ローマ共和国の建国を宣言し、1799年8月、フランス軍によって捕らえられた教皇ピウス6世がフランスのヴァランスにて死去したのち、いったん悪化した。フランス優位のもとで、執政官ナポレオン・ボナパルトは政府関係者と新ローマ教皇ピウス7世とのあいだで1年にわたって交渉させ、1801年のコンコルダ(政教協約)によって公式に非キリスト教化運動を終結させ、ローマ教会とフランス国家との関係にかかわる諸規則を確定させた[32]。

「恐怖政治」の犠牲者は2万人から4万人におよぶとされている。ある推計によれば、革命裁判所によって断罪された人の内訳は貴族が約8パーセント、聖職者6%、中産階級14パーセント、労働者・農民は約70パーセントであり、かれらは徴兵拒否、脱走、反乱、その他の罪で処罰された[47]。これらの社会的集団のうち、比率の上で最大の損害をこうむったのはローマカトリック教会の聖職者であった[47]。

 

なお、「理性の祭典」を企画したエベール派に加担したバブーフと一緒に「パンテオン・クラブ」を結成したのが、フィリッポ・ブォナロッティ。資金援助、ジョセフィーヌの元愛人バラス。

フランソワ・ノエル・バブーフ - Wikipedia

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-4 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポール・バラス - Wikipedia

 

参考:

ピウス6世 (ローマ教皇) - Wikipedia

ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠 - Wikipedia

 

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