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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-6

2023年12月03日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ポッツォ・ディ・ボルゴ家には、ジョセフのように反フリーメイソンになるものもいれば、フリーメイソンの大役になる人もいます。反ナポレオンで有名になった一族が、ナポレオン生誕200年を祝う-同じ家系から出ても、相反するものを支援する人が出るのは当たり前です。

しかし、その中でも「陰謀」にかかわっただろう人もいたのだと思います。

Famille Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

Charles André Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

Joseph Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

 

1928年生まれのローランはマルセイユ生まれで、「ポッツィ・ディ・ボルゴ」名は、母方から。

気になるのは、このローランがおそらく40代の若さでアヴァスの理事長になったり、政治家でないのに、シラクなどと近しかったことです。

Roland Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

フランス語google翻訳:

ローラン ポッツォ ディ ボルゴは、1928 年 12 月 13 日にマルセイユで生まれ、2001 年 8 月 28 日にヌイイで亡くなった、フランスのレストラン経営者、実業家、起業家、パトロンです。

バイオグラフィー

ポッツォ・ディ・ボルゴとして知られるローラン・フェランディーニ=ポッツォ・ディ・ボルゴは、マシュー・フェランディーニとマリー・アンヌ・ポッツォ・ディ・ボルゴの息子であり、古代コルシカ島のポッツォ・ディ・ボルゴ家に属している。

1970 年代にリール通りに Le Bistrot de Paris をオープンし、そこで偉大なレイモンドの息子である若きシェフ、ミッシェル・オリバーを立ち上げました1。 ローランド ポッツォ ディ ボルゴはビジネスで頭角を現し、1982 年に設立した 65 店舗のレストラン チェーン「ビストロ ロマン」で「カルパッチョ食べ放題の王様」となりました。ビストロ ロマンは現在、Flo2 グループの所有物となっています。

彼はまた、1970 年代にはアヴァス・コンセイユ・リレーションズ・パブリックの理事長を務め3、慈善祝賀会が開催されるクロード・ポンピドゥー財団の管理者4、1969 年にはナポレオン・ボナパルト生誕 200 周年記念委員を務めました5。

1994 年、パリ市長のジャック・シラクは、シャンゼリゼ委員会会長のローランド・ポッツォ・ディ・ボルゴと協力して、シャンゼリゼ通りの大規模改修プログラムを開始しました6。 彼はシャンゼリゼ通りの歴史に関する本の著者です。


こちら、「ポッツィ・ディ・ボルゴ」と表示はなっていますが、反ナポレオンだった(実は怪しい?)先祖の日本語版wikipediaです。

ポッツォ・ディ・ボルゴ - Wikipedia

カルロ・アンドレーア・ポッツォ・ディ・ボルゴ(Carlo Andrea Pozzo di Borgo, 1764年3月8日 - 1842年2月15日)は、コルシカ島出身の政治家。

生涯
アジャクシオ近郊のアラタでボナパルト家の遠戚の家庭に生まれ、幼少時はナポレオンの遊び仲間だった。

成長するとピサで法学を学んだ後に弁護士になり、フランス革命が勃発すると立法議会議員となりパスカル・パオリの腹心になった。ナポレオンがパオリと対立するとブオナパルテ家弾劾決議を下し、一家をマルセイユに追放に追い込んだ。

フランス軍がコルシカ島を占領すると逆に追放され、以後反ナポレオン運動の先頭に立つ。ナポレオンは自分のことを熟知していたボルゴを大変恐れていたとされている。

1804年、ウィーンにいたボルゴはロシアのチャルトリスキ公爵の推薦を受けてロシア皇帝アレクサンドル1世の外交顧問になった。ところが、3年後にチャルトリスキ公爵が失脚し、続いてロシアとフランスの間でティルジットの和約が結ばれたことから職を辞してウィーンに戻る。ところが、ナポレオンからオーストリア帝国宰相メッテルニヒにボルゴの引渡し要求があり、身の危険を感じた彼はロンドンに移った。

1812年、再度ナポレオンとの対決を決意したアレクサンドル1世は、ボルゴをロシアに呼び戻した。彼はナポレオン打倒のための外交工作に努め、ウィーン会議ではルイ18世の擁立を支持して、イギリス代表のウェリントン公と連携した。再興されたブルボン朝(王政復古)に駐仏ロシア大使として派遣されたボルゴはフランス本土への連合軍の進駐の短縮とフランスが支払う賠償金の軽減に努めた。その一方で、フランス革命の成果を否定しようとするフランスの王党派やメッテルニヒの動きには強い反感を抱き、リシュリュー公ら穏健派を支援するとともに露仏関係強化に努めた。これに対してシャルル10世やメッテルニヒはボルゴがフランスの自由主義の背後にいると非難をしたが、ロシアは彼をそのまま職に留めた。

(後略)

 

参考:

トリエステの近現代史-7(エミール・デルランジェ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

戦争と通信社-1(Sigmund EngländerとFrédéric Émile, Baron d'Erlanger) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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