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フランソワ・コティ-2(子孫から見る「コティ」)

2023年05月06日 | ベルナール・アルノー~ベルンハイム~ドレフュス

Coty logo - Coty (entreprise) — Wikipédia (wikipedia.org)

これはコティ社のロゴです。

「1904年に創業した「コティ」」というのを使うことは、コティの子孫にとって名誉なことのようです。

François Coty Association | (francoiscoty.fr)

 

確かに、経営者が変わっても、製品や技法が引き継がれていくのであれば、子孫だけでなく消費者にとっても「消滅」するよりは良いので当然でしょう。

が、創業者フランソワ(一応、反ユダヤ、反フリーメーソン、ナショナリスト、保守的、反共、ムッソリーニへの協力、だけどドイツ嫌い)を知るほどに、彼があの世で「「コティ」は乗っ取られた」と思っているのではないかと、想像してしまいます。

彼から見れば不幸なことに、現代は「1904年創業コティ」の看板は魅力的でも、「極右の創業者フランソワ・コティ」はできれば陰に隠れてほしいキャラクター。

 

子孫が作るウェブサイトにも、彼の政治的活動についての記述は非常に控えめです。

François Coty | (francoiscoty.fr)

Google翻訳:

天才調香師、「近代調香の父」、「調香界のナポレオン」…輝かしい短い人生の中で、調香に名声をもたらした男に数々の名誉ある称号を与えました。

フランソワ コティは、1874 年にコルシカ島のアジャクシオで生まれ、ジョセフ マリー フランソワ スポトゥルノと名付けられました。 1898 年に兵役を終えると、彼はコルシカ島の政治家エマニュエル アレーヌ (1856-1908) の側近としてパリに移りました。

グラースの Chiris 施設でのトレーニングの後、Coty は熟練した「鼻」になりました。 1904 年、彼は最初の香水「ラ ローズ ジャックミノ」の販売に成功しました。これは、ロリガン、アンブル アンティーク、ジャスミン ド コルス、シプレなど、いくつかの素晴らしい作品の最初のものです。1917 年に作成された、新しい香りの家族の最初のものです。 エメロード、パリ、レマン…

その時までにフレグランス革命は最高潮に達し、3次元に形作ることができました:

組成の芸術 : コティのすべての香水は、純粋な成分と合成化学物質の学術的で博識な混合物を取り入れています。

マーケティング : ひとつの香りを中心に、米粉、ヘアケア、フェイスケア、ボディケア…

製品のプレゼンテーションとディスプレイの芸術: フランソワ・コティはルネ・ラリックと非常に密接に協力して香水ボトルを作成し、当時の他の偉大な芸術家と共に、貴重な香りのボトルが置かれる崇高な香水箱を作成しました。

1906 年の時点で、コティはアメリカ、ロシア、イギリス、そして世界中にオープンしました。 1920 年代の終わりまでに、一流の産業グループの長として、彼は最も強力な起業家の 1 人であり、フランスで最も裕福な人物でした。

1920 年代の終わりに向かって、コティは、1929 年の株式市場の暴落、破滅的な離婚、そして彼の政治活動に飲み込まれた莫大な金額など、いくつかの偶然の出来事に追い越されました。 1934 年 7 月 25 日、彼は脳卒中の犠牲者となり、ルーブシエンヌの自宅で亡くなりました。

21 世紀になっても、彼の香水製造における天才的な遺産は、香水流通の世界的リーダーである産業グループ Coty Inc と彼の伝説的な香水を通じて存続しています。 

 

なお、フランソワ・コティの終焉は、日本語版ウィキペディアには、「女ったらしで妻に愛想をつかされ、慰謝料が重すぎて落ちぶれたフランソワ・コティ」と言うようなことが書いてあるだけです。(英文Wikipediaも似たようなもの。)

フランソワ・コティ - Wikipedia

抜粋:

コティは先のイヴォンヌと結婚し、ローランとクリスティアーヌの2人の子をもうけた。しかし毎晩のように多数の愛人に囲まれて生活しており、愛人たちの間にも子供がいた[1]。コティの香水販売が成功し、拡大してゆく一方、イヴォンヌとの関係は年々冷え切って行った。

その一方でコティは1906年にブローニュの森の近くにあるロンシャン城を買い取り、自身の開発した香水、ビン、包装と広告を設計する研究所として投資を続けるなど、香水で得た売り上げ金を湯水のように使った。

両者は1929年に離婚。コティが3度にわたる分割払いにおいて、イヴォンヌに対し数百万フランもの慰謝料を支払うことで、離婚和解は規定したが、コティは1931年の最後の支払いを履行しなかったため、イヴォンヌは離婚裁判所へ訴えた。これが認められると、コティの財産を大部分を差し押さえると共に、コティ社の経営権ならびに先出の2紙の新聞社の経営権の所有を認めた[3]。


フランソワ・コティのことは、フランス語版Wikipediaがおすすめです。

François Coty — Wikipédia (wikipedia.org)

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