Various Topics 2

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ナポレオンが大物になった背景-2(オルレアン公とカリオストロ)

2023年12月08日 | ペリエ家とオルレアニスム

前回に続き,senjutu.netさんの記事から抜粋。

ナポレオンの初恋とオーソンヌでの学び (senjyutu.net)

抜粋1:

ナポレオンは1785年10月にパリの高等士官学校を卒業しました。

卒業後の進路として海軍に入隊することを勧められますが、母レティシアが反対したためヴァランスのラ・フェール砲兵連隊に配属されました。

高等士官学校時代からの友人デ・マジもラ・フェール砲兵連隊に配属されたため、ナポレオンはヴァランスでもデ・マジとともに過ごすことになります。

抜粋2:

コルシカ島に帰郷していたナポレオンでしたが4月に休暇の終わりが近づくと家族の問題の解決と偽って11月まで休暇を引き延ばしました。

そして1787年9月12日にコルシカ島を離れてパリに向かい、11月22日、ナポレオンはパレ・ロワイヤルで売春婦を買い童貞を失いました。

当時のパレ・ロワイヤルでは警察官は立ち入り禁止だったため、市民が政治論議を行ったりする革命家の溜まり場となっており、売春婦や怪しげな物を売る人で溢れていたと言われています。

1787年12月、ナポレオンは理由を付けてさらに翌年6月まで再度休暇を引き延ばしました。

そして1788年1月1日、コルシカ島のアジャクシオに戻りました。

ナポレオンはこの何度も延長された休暇の間、コルシカ島で以前から構想していた「コルシカ史」の執筆をしており、給料もちゃっかりと受け取っていたと言われています。

 

ナポレオンが1785年にヴァランスに赴任することになったのは、間に誰かが入っていることはなかったのでしょうか。

それはどうあれ、1787年にパリへ行き、パレ・ロワイヤルにおそらく入り浸ったであろうナポレオン。

パレ・ロワイヤルは、フリーメイソングランドマスターのオルレアン公の宮殿でした。

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フランス革命に関わったフリーメイソン達・フリーメイソンも「駒」では? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公) - Wikipedia

オルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョゼフ(仏: Louis Philippe II Joseph, duc de Chartres, puis duc d'Orléans, 1747年4月13日 - 1793年11月6日)は、フランスの王族で、オルレアン派を率いた指導者である。

ブルボン家の分家の一つであるオルレアン家は、フランス王国の5%が領地である有数の富豪であった。公爵はその財力をもって王位を狙う野心家で、高等法院と王権との争いに介入して宮廷と対立し、革命前に最初に国王に逆らったことで自由主義貴族の代表となった。王妃マリー・アントワネットを盛んに中傷し、その政敵であったことでも知られる。

バスティーユ襲撃事件を誘発し、フランス革命が勃発するとこれを支持してフィリップ・エガリテ(Philippe Égalité、平等公フィリップ)を自称した。ルイ16世の死刑にも賛成票を投じたが、同じ年に彼自身も告発され処刑された。 息子はシャルトル公爵およびオルレアン公爵を継承し、七月王政の王となったルイ・フィリップ1世である。

略歴
オルレアン公ルイ・フィリップ1世とコンティ公ルイ・アルマン2世の娘ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティの間にサン=クルーで生まれる。モンパンシエ公、シャルトル公となり、1769年、ルイ14世の庶系の曾孫娘ルイーズ・マリー・ド・ブルボン=パンティエーヴルと結婚し、1785年に父の死によってオルレアン公となった。私生活は放蕩かつ無節操で、民衆に開放した自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなった。

1771年にはフランス・フリーメイソンのグランドマスターとなり、二年後にフランス・グラントリアン(フランス語版)を創設した[1]。

アメリカ独立戦争を支持し、首飾り事件が起こるとそれをマリー・アントワネットを攻撃するのに利用した。

(後略)

 

首飾り事件に関与したという「カリオストロ伯爵」は、シチリアのパルレモ生まれ。

カリオストロ - Wikipedia

彼のフリーメイソンに入会してからの動きはとても怪しいです。(「要出典」がどこにかかっているかは不明。))

Alessandro Cagliostro - Wikipedia

抜粋google翻訳:

1777年4月12日、「ジョセフ・カリオストロ」はロンドンのソーホー市ジェラード・ストリートにあるエスペランス・ロッジ289番のフリーメーソンとして認められた[8]。 1777年12月、カリオストロとセラフィーナはロンドンを出て本土に向かい、その後ドイツの様々な州を旅し、厳守の儀式のロッジを訪れ、カリオストロの「エジプト・フリーメーソン」への改宗者を探した。 1779年2月、カリオストロはミタウ(現在のラトビア)を旅行し、そこで詩人のエリサ・フォン・デア・レッケに会いました。 1780年9月、サンクトペテルブルクでロシア皇帝エカチェリーナ2世の後援を勝ち取ることに失敗した後、カリオストロ一家は当時フランスにあったストラスブールに向かった。 1784 年 10 月、カリオストロ一家はリヨンへ旅行しました。 1784年12月24日、彼らはエジプト・フリーメーソンの儀式のための共同フリーメーソンのマザー・ロッジ、ラ・サジェス・トリオンファンテをリヨンに設立した。 1785年1月、カリオストロとその妻はローハン枢機卿の懇願に応えてパリへ向かった[要出典]。

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