yoshのブログ

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グリンデルワルドと日本人

2021-02-03 05:51:24 | 文化
スイスの山岳リゾ-ト、グリンデルワルドと日本人には多くの交流があります。スイスのグリンデルワルドから見えるウェッタ-ホルン(3701m)は、アイガ-(3970m)の西にあり、グリンデルワルドのシンボルとも言える山です。(下 写真) 因みに、ウェッタ-ホルンは、標高3701メ-トルのハリスユングフラウと、3704メ-トルのミッテホルンと3689メ-トルのロ-ゼンホルンの3峰の総称です。
1854年にイギリスのA・ウィルスが初登頂し、1929年には日本の浦松佐美太郎が西南稜からの初登頂に成功しました。ウェッタ-ホルンは「天気の角(つの)」という意味です。頂上に雲がかかる事が多いのですが、この雲を見て天気予報ができるそうです。また、1921年に槇有恒は3人のガイドと共に、アイガ-のミッテルレギ稜(東南稜)からのアイガ-初登頂に成功しました。これを記念して、槇有恒はスイスに1万フランを寄贈しました。グリンデルワルドのガイド連盟はこの基金を元に1924年にミッテルレギヒュッテを建設しました。(下 写真)
次に、あまり知られていない話ですが、大正15年(1926)、昭和天皇の弟君の秩父宮雍仁殿下は、マッタ-ホルン(4478m)に登頂されました。お供は槇有恒、松方三郎、松本重治等でした。一行はまずグリンデルワルドに入り、ウェストンの出迎えを受けた後にツェルマットに移動して、マッタ-ホルンの登攀に成功しました。不肖が敬愛するエッセイスト、アルプニストの佐貫亦男教授は、第二次世界大戦の頃からヨ-ロッパ・アルプスを巡り、グリンデルワルドも訪れ、親交のあったガイドのエミ-ル・シュトイリが経営するホテル・ベルビュ-を常宿としました。槇有恒は後に日本山岳会の会長、マナスル登山隊長を務めています。現在、長野県松本市はグリンデルワルドの姉妹都市になっています。後に『スウィス日記』を書いた登山家、辻村伊助は、1916年に近藤茂吉とグロ-ス・シュレックホルンに登り、下山中に雪崩に巻きこまれて重傷を負いました。辻村は入院先のナ-ス、ロ-ザ・カレンと結ばれ、帰国後、小田原で暮らしましたが、1923年の関東大震災の土砂崩れに遭い、夫人を始め3児と共に惜しくも落命しています。
  



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