辻村伊助は園芸家、登山家。明治(1886年)に小田原の素封家の二男として出生。開成中学、一高、東京帝国大学理学部と進み、農業化学科を卒業した秀才です。一高時代に日本山岳会に入会し、日本アルプスの登山をしましたが、1913年には渡欧して、スコットランドやスイスの山に挑みました。1914年1月、スイスの名峰、ユングフラウ、メンヒに厳冬期の初登頂をして世界に注目されました。ついで8月1日に、近藤茂吉や2人のガイド(フォイツ、ヘッスラ-)と共に、グロ-ス・シュレック・ホルン(大恐山、4078m)の登頂に成功しました。ところが下山の途中に雪崩に遭い、一行、全員が重傷を負いました。近藤茂吉とヘッスラ-は足を骨折、辻村伊助とフォイツは全身打撲でした。辻村はインタ-ラ-ケンの病院で療養しましたが、この時に出会ったナ-ス、ロ-ザ・カレンは辻村の生涯の伴侶になりました。帰国した辻村は箱根の広大な土地に高山植物園を作るなど事業も順調に進み、3人の子息にも恵まれ幸福の絶頂にありました。しかし、1923年9月1日に起きた関東大震災で、裏山が崩壊し、一家5人もろとも土砂に埋没しました。後に掘り出された遺骨は比叡山延暦寺に納められました。登山家の槇有恒は後に、「生涯を温かい家庭と友との中に山を思ひ山に登りそしてまた山の美しい植物を友として送られた」と辻村を追悼しています。辻村伊助の著書には、『スウィス日記』と『ハイランド』がありますが、特に『スウィス日記』は名著で、今日までアルピニストのバイブルになっています。(下 写真」)
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