yoshのブログ

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大奥筆頭御年寄 瀧山

2011-07-06 05:48:03 | 歴史
瀧山は文化二年(西暦1805年)、武家 大岡権左衛門の長女として生まれました。名は多喜でした。16歳の時に江戸城大奥に上がり、13代将軍家定公、14代家茂公、15代慶喜公と三代の将軍に仕えました。30年間の忠勤を経て46歳で御年寄になり、58歳で筆頭御年寄に昇進しました。大奥における筆頭御年寄は、将軍の正室、御台所に次ぐ地位であり、大奥一千人を統率する重役であり、臣下としては大奥の最高の地位に昇りました。NHKの大河ドラマ「篤姫」では稲森いずみが好演していました。慶応二年八月に十四代将軍家茂公が逝去した時に瀧山は、靜寛院和宮(家茂公の正室)に大奥から下がることを願い出ました。和宮は強く翻意を促しましたが瀧山の決心は固く、とうとう引き留めることができず、翌年十月になってようやく瀧山の宿下がりが実現しました。瀧山62歳、女の幸せを全て擲って将軍家のために励んだ忠烈な人生でした。その瀧山の宿下がりの行列は盛大なものであったそうです。その時乗った朱色の駕籠は今も保存されています。その後、瀧山は武蔵国川口に落ち着きましたが、大奥から退去して僅か半年後の慶応四年四月に、江戸城無血開城により大奥は終焉を迎えました。瀧山が大奥の幕引きを見守ったという話も伝わっています。(確か、大河ドラマ「篤姫」でもそのようになっていました。)瀧山は川口で、「人生でやり残した」と考えたことを実行しています。養女みね(五歳)をもらい受け、後に結婚させて瀧山家を創家しました。その子孫の瀧山宣宏氏(五代目)は川口市に今もご健在です。瀧山は、明治九年に71歳で他界しました。墓は、真言宗の名刹、錫杖寺にあります(写真下・参照)。なぜか錫杖寺の紋は徳川家と同じ葵です。
瀧山の戒名は「瀧音院殿響誉松月祐山法尼」であり、墓の裏面には次のように刻まれております。

東京府士族 東京南伊賀町住 七代目主 大岡権左衛門長女 徳川家大奥老女 俗稱
瀧山 行年七十一歳。

下の錫杖寺の写真は、さいたま市に住む知人のKさんから提供していただきました。

    




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