池上四郎は、会津藩士、池上武輔の四男です。若松が政府軍に攻められた時は12歳で、白虎隊に入隊を志願したのですが、年齢が若いため入隊を認められませんでした。そこで、剛胆にも鶴ヶ城内で凧を揚げ、味方の士気を鼓舞したというエピソ-ドがあります。その後、会津藩は青森の斗南藩に流罪になり、生活は窮乏を極めました。その中で、父、武輔は、四郎に「困苦にあっても武士の道は刻苦、忍耐、魂の錬磨である、日新館の安部井帽山(ぼうざん)先生や高津淄川(しせん)先生の教えを忘れずに勉学に励め」と諭しました。四郎は精励努力をして、後に政府で頭角を顕し、6代目の大阪府長にもなって大阪府の発展に尽力し、不世出の大阪府長といわれました。現在、天王寺公園にある銅像が下に示す写真です。六女の紀子(いとこ)さんは、後に内閣統計局長となった川嶋孝彦氏と結婚しましたが、孝彦氏の孫の紀子(きこ)様は、秋篠宮文仁親王(皇嗣)の妃となられました。
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