卑弥呼の邸宅があったとされる奈良・纏向遺跡から多数の桃の種が発見されました。過日、この種に対して科学的な年代測定(放射性炭素法)が、名古屋大学などの複数の団体で行われ、紀元135年から230年とわかりました。この年代は、種々の研究により卑弥呼の時代とされています。こうなると、卑弥呼畿内説は一層、有力になったのではないでしょうか。纏向遺跡の近くにある箸墓古墳は、卑弥呼の墓ともいわれていますので、ここの発掘が許可され、金属製の中国からの渡来品などが発見されれば、卑弥呼と中国の交流が証明され、邪馬台国畿内説は確定する可能性があるそうです。なお、中国から渡ってきた桃は魔よけの呪力があると考えられており、纏向遺跡に大量にあったということは、祭祀用に使ったとも考えられます。
最新の画像[もっと見る]
-
徳川慶喜公の書 3週間前
-
霊雁泉 良寛の書 4ヶ月前
-
慈恩塔に題す 荊叔 4ヶ月前
-
成都 杜甫草堂 石川忠久 4ヶ月前
-
李白の墓 石川忠久 4ヶ月前
-
クイズ 解答篇 5ヶ月前
-
クイズ 問題篇 5ヶ月前
-
漢詩 石川忠久 石原裕次郎記念館 5ヶ月前
-
漢詩 石川忠久 聖堂老梅 5ヶ月前
-
趙治勲 1600勝 達成 6ヶ月前
1 コメント
コメント日が
古い順 |
新しい順
- Unknown (Unknown)
- 2018-06-24 16:15:15
- 古代の祭と政は本来同じものです。桃の種が多数出土するのは、そこに政治宗教都市が有ったと考えても問題はないと思います。ですがそこが邪馬壹(臺)国だった、卑弥呼の宮殿だったと考えるのは早計だと思います。魏志倭人伝には倭国には矛や鉄器があり内乱があったそうです。しかし巻向遺跡には首がない人骨、鏃が刺さった人骨は無いそうです。墓には殉葬もありません。棺はあっても槨は無しとありますから箸墓古墳には対応しません。おまけに周溝から鐙が出土してます。倭国は交易で栄えていたとありますから舶来品(漢鏡等)が豊富に出土しなければなりませんが巻向遺跡にはほとんどみられないそうです。外来土器の大半は東海由来で一大率が置かれていた伊都国を含む北九州由来の土器はほぼありません。これはものすごい矛盾ではないでしょうか?
- 返信する
規約違反等の連絡