鎌倉時代に執権を務めた前北条氏の後の戦国時代の大名、北条氏を後北条氏といいます。藩祖は伊勢新九郎、後の北条早雲ですが、小田原を中心にして5代(早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)に亘り、約100年間繁栄しました。北条氏は関東では土着ではなく、よそ者でした。小田原城という難攻不落の城を築いて武田氏、今川氏、上杉氏と対峙しました、また、他の大名の税制が「五公五民」だったのに対して、「四公六民」といわれる「禄寿報恩」と言われる領民重視の善政をしきました。また荒廃した鶴岡八幡宮を再建して関東の覇権をにぎりました。
しかし、その後、五代目の氏直の時に豊臣秀吉と戦い、敗れましたが、氏直は生き延びて河内狭山藩を貰い、江戸時代から今日まで存続しています。
現当主の北条尚氏は今もご健在です。
なお、北条早雲の末子に北条幻庵がおり、幻庵の玄孫の娘のお万の方は徳川家康の側室となり、結城秀康(越前藩祖)、徳川頼宣(紀州藩祖)、徳川頼房(水戸藩祖)を産みました。江戸時代の徳川将軍には紀州系と水戸系が多数いましたので、早雲の子孫が日本の権力者になったともいえます。
しかし、その後、五代目の氏直の時に豊臣秀吉と戦い、敗れましたが、氏直は生き延びて河内狭山藩を貰い、江戸時代から今日まで存続しています。
現当主の北条尚氏は今もご健在です。
なお、北条早雲の末子に北条幻庵がおり、幻庵の玄孫の娘のお万の方は徳川家康の側室となり、結城秀康(越前藩祖)、徳川頼宣(紀州藩祖)、徳川頼房(水戸藩祖)を産みました。江戸時代の徳川将軍には紀州系と水戸系が多数いましたので、早雲の子孫が日本の権力者になったともいえます。