明治31年(1898年)の夏、東京帝大の2年だった柳田國男(後に民俗学者)は愛知県渥美半島の突端の伊良湖岬に1か月滞在しました。岬に隣り合う恋路が浜で、風の強かった翌朝に黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ流れ着いたのを発見しました。そして岬付近の潮の流れから見て「日本民族の故郷は南洋諸島である」と確信し、これを親友の島崎藤村に話しました。この浜を訪れたわけでもない藤村は、この話から詩想を得て、椰子の実の漂泊の旅に己の憂を重ね、名詩「椰子の実」を詠みました。
流れ着いた、たった一つの椰子の実から、民族学者は日本民族の起源を思い、文学者は名詩を着想しました。
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子の実ひとつ
故郷(ふるさと)の 岸をはなれて
汝(なれ)はそも 波にいく月
旧(もと)の樹(き)は 生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた 渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
あらたなり 流離の憂ひ
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる 八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか 国に帰らむ
後に、昭和11年 日本放送協会の依頼で大中寅二が曲を付けて以来、「国民歌謡」として
広く親しまれ、日本の抒情歌謡の代表的な作品になったばかりでなく、伊良湖岬の名も有名
なりました。
なお、藤村の詩の最後の句、「いづれの日にか 国に帰らむ」は杜甫の漢詩「絶句」にある「何レノ日カ 是レ帰年ナラン」と同趣です。
流れ着いた、たった一つの椰子の実から、民族学者は日本民族の起源を思い、文学者は名詩を着想しました。
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る椰子の実ひとつ
故郷(ふるさと)の 岸をはなれて
汝(なれ)はそも 波にいく月
旧(もと)の樹(き)は 生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた 渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば
あらたなり 流離の憂ひ
海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる 八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか 国に帰らむ
後に、昭和11年 日本放送協会の依頼で大中寅二が曲を付けて以来、「国民歌謡」として
広く親しまれ、日本の抒情歌謡の代表的な作品になったばかりでなく、伊良湖岬の名も有名
なりました。
なお、藤村の詩の最後の句、「いづれの日にか 国に帰らむ」は杜甫の漢詩「絶句」にある「何レノ日カ 是レ帰年ナラン」と同趣です。