杉原千畝(ちうね)の名前は、以前はあまり知られていなかったかも知れませんが、ナチスドイツの時代に約六千名ものユダヤ人の命を救った世界に誇るべき外交官です。杉原は1900年に岐阜県に生まれました。医者にしたいと願った父親の反対を押し切って彼は上京し、早稲田大学に入学しました。予科を終了した後、外務省からロシア語留学生として選ばれ、ハルピン学院に学びました。
そのハルピン学院には、建学の精神として「自治三決」がありました。
第一 人の世話になるな。
第二 人の世話をしなさい。
第三 絶対に報いを求めてはいけない。
重要なことは、人の世話をしなさい。そしてその報いを求めてはならないということでしたが、杉原は一生、この精神を人生の指針としました。
さてハルピン学院を卒業した後、杉原は外務省の書記生に採用され、満州国外交部に勤務して対ロシア交渉に手腕を発揮しました。そして1935年帰国した時に菊池幸子と結婚しました。後、フィンランド勤務を経てリトアニア国の首都カウナスの日本領事館に移り、リトアニア代理領事になりました。
この頃に、ポーランドから多数のユダヤ人難民が命からがらカウナスに逃げて来て、1940年7月31日の早朝から日本領事館に終結して、日本経由で外国に行くビザの発給を求めました。杉原は日本の外務省に繰り返し発給認可を求めましたが、当時、日独伊三国同盟が結ばれており、ドイツの意向に反する行為に対して本国からの許可は降りませんでした。杉原は悩み抜いた末に、妻に言いました。「幸子、私は外務省に背いて領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」杉原は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。文官服務規程で本省の指示に反して行動すれば昇進停止か馘首が待ち受けているのです。杉原は建物の外に出て、ユダヤ人難民の群に向かって鉄柵越しに「ビザを発行すると」告げました。その時、人々の表情は電気が走ったようになり、その後どよめき、抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親など、皆が喜びを表現したということです。それから杉原は、朝9時から午後5時まで昼食も取らずに毎日ビザを発行し続けました。ソ連からは領事館を退去するよう何回も命令がありましたが一か月の間休むひまも無くビザを書き続けました。しかし遂にカウナスから退去させられる日がきました。彼は行先のベルリンに向かう発車間近の汽車の中でも書き続け、窓からビザを手渡しましたが、とうとう汽車が走り出してビザを手渡すことができなくなりました。杉原は「許してください。私には書けない。みなさんのご無事を祈っています」と苦しそうに言うとホームに立つユダヤ人に深々と頭を下げました。この杉原ビザは六千枚にのぼり、六千名の命が救われたのです。 幸子が詠んだ短歌
走り出づる列車の窓に縋(すが)りくる手に渡さるる命のビザは
終戦の後、7年間収容所生活を送ったのち、1947年に帰国した杉原は神奈川県鵠沼に居を構えました。まもなく勤務先の外務省に行きましたが、明確な説明も無いまま、「既に役職が無い」という理由で復職できませんでした。しかしその後、彼は持ち前の優れた語学力を生かして商事会社に勤務し、活躍しました。
彼の崇高な業績は程なく世に知られることとなり
1985年にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞。
1989年にはADL財団ニューヨーク本部において「勇気ある人」賞を受賞。
1992年に、日本政府は国会で正式に杉原千畝の名誉を回復し、宮沢総理が杉原の功績を称え
ました。
杉原は1986年に86歳で永眠しましたが、杉原が生まれた岐阜県八百津につくられた「人道の丘公園」には記念碑が建立されています。また、リトアニアの現在の首都ヴィリニュスには杉原の功績を称えて「スギハラ通り」があり、記念碑が建てられています。一方、命が助かったユダヤ人は、その恩を決して忘れることはなく、豊かな人は杉原の家族を世界中から支援し、殆どの人が杉原ビザを今も大切に保存しているということです。
杉原幸子著 「六千人の命のビザ」大正出版
そのハルピン学院には、建学の精神として「自治三決」がありました。
第一 人の世話になるな。
第二 人の世話をしなさい。
第三 絶対に報いを求めてはいけない。
重要なことは、人の世話をしなさい。そしてその報いを求めてはならないということでしたが、杉原は一生、この精神を人生の指針としました。
さてハルピン学院を卒業した後、杉原は外務省の書記生に採用され、満州国外交部に勤務して対ロシア交渉に手腕を発揮しました。そして1935年帰国した時に菊池幸子と結婚しました。後、フィンランド勤務を経てリトアニア国の首都カウナスの日本領事館に移り、リトアニア代理領事になりました。
この頃に、ポーランドから多数のユダヤ人難民が命からがらカウナスに逃げて来て、1940年7月31日の早朝から日本領事館に終結して、日本経由で外国に行くビザの発給を求めました。杉原は日本の外務省に繰り返し発給認可を求めましたが、当時、日独伊三国同盟が結ばれており、ドイツの意向に反する行為に対して本国からの許可は降りませんでした。杉原は悩み抜いた末に、妻に言いました。「幸子、私は外務省に背いて領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」杉原は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。文官服務規程で本省の指示に反して行動すれば昇進停止か馘首が待ち受けているのです。杉原は建物の外に出て、ユダヤ人難民の群に向かって鉄柵越しに「ビザを発行すると」告げました。その時、人々の表情は電気が走ったようになり、その後どよめき、抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親など、皆が喜びを表現したということです。それから杉原は、朝9時から午後5時まで昼食も取らずに毎日ビザを発行し続けました。ソ連からは領事館を退去するよう何回も命令がありましたが一か月の間休むひまも無くビザを書き続けました。しかし遂にカウナスから退去させられる日がきました。彼は行先のベルリンに向かう発車間近の汽車の中でも書き続け、窓からビザを手渡しましたが、とうとう汽車が走り出してビザを手渡すことができなくなりました。杉原は「許してください。私には書けない。みなさんのご無事を祈っています」と苦しそうに言うとホームに立つユダヤ人に深々と頭を下げました。この杉原ビザは六千枚にのぼり、六千名の命が救われたのです。 幸子が詠んだ短歌
走り出づる列車の窓に縋(すが)りくる手に渡さるる命のビザは
終戦の後、7年間収容所生活を送ったのち、1947年に帰国した杉原は神奈川県鵠沼に居を構えました。まもなく勤務先の外務省に行きましたが、明確な説明も無いまま、「既に役職が無い」という理由で復職できませんでした。しかしその後、彼は持ち前の優れた語学力を生かして商事会社に勤務し、活躍しました。
彼の崇高な業績は程なく世に知られることとなり
1985年にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞。
1989年にはADL財団ニューヨーク本部において「勇気ある人」賞を受賞。
1992年に、日本政府は国会で正式に杉原千畝の名誉を回復し、宮沢総理が杉原の功績を称え
ました。
杉原は1986年に86歳で永眠しましたが、杉原が生まれた岐阜県八百津につくられた「人道の丘公園」には記念碑が建立されています。また、リトアニアの現在の首都ヴィリニュスには杉原の功績を称えて「スギハラ通り」があり、記念碑が建てられています。一方、命が助かったユダヤ人は、その恩を決して忘れることはなく、豊かな人は杉原の家族を世界中から支援し、殆どの人が杉原ビザを今も大切に保存しているということです。
杉原幸子著 「六千人の命のビザ」大正出版