このところあれこれと大小の所用が続いており、何かと落ち着きません。多少旅の疲れも出ているようで、仮眠のつもりで早めに寝たのに、そのまま朝方近くまで眠ってしまって、ブログの記事を書くのも億劫になり、だらけてしまうようなありさまです。
旅から戻ると庭や畑の植物が気になり、畑にすっ飛んでいったりしていますが、このことについて、ちょっぴり私の考えを話させていただきたいと思います。
大きく見れば人生も一つの旅であることは間違いないことだと思います。生まれてからあの世に行くまでの間に人は様々な出会いを積み上げ、様々な喜怒哀楽を経験しながら日々を過ごしているわけですが、これらは旅の本質と全く同じものだと思います。
旅の本質というのは、私の考えでは、「出会いと発見のもたらす感動と癒し」ということになります。人生はスケールの大きな旅ですから、出会いと発見は、必ずしも喜びの類だけではなく、苦しみや悲しみの形をしたものが含まれているのだと考えています。私たちが普段の暮らしの中で、旅を旅らしく受け止めているのは、最後のステップとしての「癒し」の部分が大きいものを選ぶからなのだと思います。つまり、日常の暮しの枠からちょっとばかり外に出て、なかなか体験できなかった楽しみを味わい、ああよかったなあという時間を持つことが出来て、心がホッとするというのが普通に言われている旅なのだと思うのです。
勿論私自身もそのような形の旅を望みながら旅に出かけているのですが、この頃は少しばかり旅の考え方というか、暮らしの考え方が変わって来ている自分を感じています。それは、やっぱり人生の全てが旅なのだということを実感するようになって来たことです。つまり、旅というのはキーワードを挙げれば「出会い・発見・感動・癒し」という4つの要素が含まれるわけですが、これはよく考えると日常の暮らしのどこにでも転がっていることなのです。その場をどこに求めるかによって、或いは自分の心のあり様をどこに集中させるかによって、この4つの要素はいつでも満たすことが出来るからです。
私が旅から戻ると、散歩にうつつを抜かし、畑に行って野菜たちを見に行くのも全てこの4つの旅の要素を満たそうとしているわけで、それはとりもなおさず旅をしているということになるのだと思います。畑が旅先になるのか?という疑問には、勿論なりますよ、とお答えしたいのです。散歩が旅になるのですか?という質問にも、勿論です、と答えたいと思います。
畑に行き、土をいじり、草(野菜)を眺め、手を出し、虫を追い払い等などしている間に出会う様々なできごととその発見は、時として甚(いた)く心を揺さぶることがあるのです。そして疑問や謎が解けたときの心の満足は、まさに癒しというものでありましょう。散歩にしても、同じ様な感動が幾つも存在しています。道端の草木だけではなく、歩いているうちに偶然(それは本当は必然なのかも知れません)に出会う、空の雲や風景など、気づけば今までとは全く違った世界がそこにはあり、びっくりさせられるのです。
くるま旅というのは、旅の移動手段の中心に車を使うものだという風に考えていますが、単に車を用いて移動するのを旅というのではなく、その暮らしの中に4つの要素を満たすことが出来て、初めて旅が成就するのだと思うのです。旅の中には動と静のエリアが必ず含まれていますが、私が大切だと思うのは、静のエリアの方です。私のくるま旅も最初は動の世界ばかりだったのですが、この頃は動き回るばかりではなく、目的地に着いたり出会ったなら、しばしそこに足を止めてじっくりその世界を観察したり、その結果に思いをめぐらすことが楽しみとなってきています。それが旅なのだと錯覚して、やたらに車を走らせて仕舞いがちですが、その錯覚行為の中に如何に多くの静の時間を持ち、見たもの聞いたことに思いを馳せることが出来るか、が旅の内容の豊かさにつながるように思うのです。
で、静の世界を重視するという観点から思うのは、家にいる時だって旅をしているのだという実感です。車など動かし回らなくても、出会いや発見、そして感動や癒しは、日々の普段の行為の中に幾らでも転がっているのだということです。「常時在旅」とでも言うのでしょうか。それがこの頃の心境です。
さて、今日はどんな旅となりますことやら。(先日までの旅の記録の整理はまだまだ時間が掛かりそうです)
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