山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

パラリンピックを讃える

2010-03-21 04:43:31 | 宵宵妄話

今年は冬季オリンピック開催の年でした。カナダバンクーバーでのオリンピックの本番は終了し、日本の選手たちは期待通りだったのか、或いはそれを超えたのか、裏切ったのか、ウインタースポーツにさほど関心のない私には、その結果を云々する気持ちなど全くありません。ただ一つ印象に残ったのは、オリンピックを個人の好き勝手に参加できるゲームの一つだとのくらいしか自覚のない、お粗末な奴が選手の中に紛れ込んでいたことと、それを紛れ込ませてもさほどの反省もない、そのような参加集団に過ぎなかった連中の、一時的なお騒がせ期間だったということぐらいです。

その続きとして現在パラリンピックが開催されています。ところが、マスコミはその結果だけを恰も自分の手柄であるかのように報道していますが、そのプロセスや実況については殆ど放送していません。この報道の有り様に関しては、明らかに障害者に対する報道の差別ではないかと感じています。マスコミのご都合主義は今に始まったことではなく、明治以前の江戸時代から大衆に迎合し、或いは権力に迎合して常に匙加減を図りながら、そのニュースの最も販売利益があることだけを強調して活動しているようです。

オリンピックとパラリンピックの報道のあり方を見ていると、明らかにその差の大きさに気づきますし、表面では障害者に対するきれいごとを盛んに言っていても、その実、障害者に対する健常者たちの社会意識は、底が浅いのだということを思わされます。私はパラリンピックの実況放送があまりにも少ないことに腹を立てています。NHKも少ないのですが、民放といったら実況などは皆無で、ニュースの一部でメダルの結果くらいしか放送していないのは、実に情けなく、コマーシャリズムの歪みと偏向を思い知らされているような感じがします。

私は障害者の方の持つハンディの大きさは、健常者には理解できないほど大きなものなのだということを、亡き畏友安達巌の生き様を通して教えられ、それを乗り越えるために彼が発揮したエネルギーの大きさに圧倒されたのでした。両手を失った人が生きてゆくために使わなければならないエネルギーは、健常者が普段に意識もせず当たり前と考えていることをこなすためにさえも、絶大なものとなります。例えば衣服の脱着、食事の摂取、洗顔・入浴等々を一人で日常的にこなせるようになるまでには、ものすごい努力が必要なのです。私はそのことを安達巌から教えられ、愕然としたことを今でも覚えています。両手を使わずにそれを実現しようと、実際に自分でやってみましたが、何一つ出来ることはありませんでした。しかし、安達巌は健常者と変わらないほどに、それらの難事をこともなげにこなしていたのです。

その時に初めて、人間として生きるということの意味を教えられたような気がしたのです。人間の持つ可能性の大きさとそれを実現する命がけのパワーの凄さというものを知ったのでした。そして同時に、健常者である自分自身が普段当たり前と考えていることの大切さとありがたさにも気づかされたのでした。

世の中の多くの人たちは、もっともっと障害者の生き様から学ぶべきだと思っています。五体満足であることのありがたさに少しも気づかず、徒(いたずら)に不平不満の愚痴ばかりを並べ立て、我慢や忍耐などという言葉も行動も忘れ果てて、その日だけの自分勝手な幸福らしきものを求めている人が溢れているような世の中には、危機感を覚えずにはいられません。

私はパラリンピックがオリンピックと異なるのは、オリンピックの本質がショービジネスの延長線上にあるというのに対して、パラリンピックはそれらを超越した人間の可能性の限界への挑戦であるように思えるのです。オリンピックよりもパラリンピックの方にこそ、クーベルタンの思想を超えた、ゲームへの参加意義を感ずるのです。

如何なるチャレンジにも勇気が必要ですが、パラリンピックに参加されている方の勇気は、二重構造になっているのではないかと思っています。一つは身体的ハンディを乗り越えて、自分なりのくらしを作りあげるという勇気。そして更にはそのくらしの中からスポーツやゲームの一つを選び、それにチャレンジするという勇気です。パラリンピックに出場する前に、ハンディを乗り越えて生きるという自信を持つことがどれほどの勇気に支えられているかを思わずにはいられません。

様々な事情があって障害の身となられたのだと思いますが、その出発はパラリンピックなどではなく、どうやってこの人間社会の中で健常者に伍して生きてゆくか、にあったのだと思います。そのことに自信が持てるようになるまでには、様々なチャレンジがあり、それを支える勇気というエネルギーが必要だったに違いありません。そしてその成果を元にしたスポーツやゲームへの参画があり、更にそこで発揮した健常者の層倍の勇気とエネルギーがパラリンピックの中で花を咲かせているのだという風に私は理解しています。

だからパラリンピックは、彼らの二重の勇気の発露の場であり、それを世の中のより多くの人が目にして、そこからその生きるための勇気とエネルギーの欠片(かけら)を拾うべきなのです。単なるショーとは違う大切な何かがパラリンピックにはあるのです。

パラリンピックはまだ開催中ですが、今回の様々な競技の中で最も感動的なのは、アイススレッジホッケーのチームの活躍ぶりです。日本人のチームが世界最強のカナダを破り、アメリカと優勝を争うなんて、こんな快挙はありません。パラリンピックだから実現できるのであって、オリンピックだったらとても無理、などという比較野次馬的コメントの感慨を持つ人が多いように想像しますが、それは明らかに認識の誤りです。オリンピックもパラリンピックも条件は同じというべきでしょう。今回の日本チームの凄さは、抜きん出ているように思います。メンバー個々人のパワーと知力だけではなく、チームとしての総合力が実に素晴らしいと大感動です。心の底からエールを送っています。

しかし残念なことに、ゲームの実況は見ることも出来ず、ずっと遅れて短時間の結果を知らせるニュースで知るくらいなのです。マスコミは、記事が売れれば良いということだけに関心を振り向けているだけで、パラリンピックの報道の優先順位は遙かに後方に置き去りにしているようです。オリンピックでは見たくもないようなニュースをごてごて飾り付けて無理に報道している感があり、少しも面白くなかったのですが、パラリンピックにおいては、優勝を争うというのに、アイススレッジホッケーのゲームなどは実況放送などは皆無のようです。いずれ終ってから、これは商売になるなどと考えてどこかが特別番組などを考えているのかも知れません。

と、文句をいいながらTVのスイッチを入れましたら、NHKが早朝の実況放送をしていました。いやあ、文句が届いたようです。これから興奮しながら決勝の一戦を観戦し、双方に大きなエールを送りたいと思います。パラリンピック礼賛です。

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