山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

安達巌鎮魂の旅(6)の1

2010-03-05 04:41:29 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

第5日 <9月25日()

道の駅:吉野路黒滝→(R309R370R24R370)→(大淀・五條・橋本・九度山経由)→高野山駐車場(和歌山県高野町)(金剛峰寺から奥の院御廟まで徒歩往復)→高野山駐車場→ (R370)→道の駅:宇陀路大宇陀→(R370R369)→東名阪道・針IC →(東名阪道)→亀山IC(R1R23)→みえ川越IC(伊勢湾岸道)→刈谷SA(東名)→岡崎IC(R1にて豊橋へ) → (R259)→道の駅:田原めっくんはうす(泊)  <347km

知らず眠りに就いた昨夜だったが、22時ごろまで外で話しをしている者が居て、時々想念を乱されたりしたし、又明け方前に隣に入ってきたトラックがエンジンを掛けたまま仮眠を始めたらしくて、思ったよりも騒々しい一夜となった。車での泊りは、このような騒音の運不運が常に付きまとうものだと諦めてはいるけど、実際は我慢ならないことが多いのである。

今日は、高野山に参詣してご冥福を祈念する予定である。昨日は神社、今日はお寺ということで、日本に住む日本人である以上は、これは当たり前のことだと思っている。

少し早めに出発して、吉野川に沿って、五條、橋本から九度山の坂を登って高野山へ。総本山金剛峰寺前の駐車場にSUN号を停めて奥の院まで歩くことにする。

思えば、高野山はまだ我々が川崎に住んでいる時、安達さんに櫻池院を紹介して頂いて来山したのが初めてだった。そのご縁で、私の両親が亡くなった後、仏壇の購入やご先祖の回向などで櫻池院にお世話になり、遂にはその檀家のようなものとなってしまった。もし安達巌をモデルにした話を書き上げることが出来るとしたら、その最後の稿は、櫻池院の宿坊で仕上げたい。それも安達さんに対する供養の一つになるのではないかと思っている。

そのような訳で、安達さんは、我々と高野山との関係に深く関わっておられると思っている。今日は、奥の院に参詣し弘法大師廟の前で、ご冥福をお祈りしたい。

今は、お彼岸なのだが、9時を少し回ったばかりで、さすがに高野山でも人出はまだ少ない。あと1時間もすれば、大型バスや一般の参詣の車でこの広い駐車場も満杯となるに違いない。

奥の院の入口まで少し歩いて、そこからは無数とも思える墓石や墓標の間を歩く。戦国時代の信長の墓も秀吉の墓もそしてその後の時代の歴史を賑わした超有名人の墓が、こともなげに随所に並んでいる。あの世へ行けば、この世での争いなどたちまち浄化されて、想像もつかない平穏な世界が横たわっているのかも知れない。この墓地は、それを暗示する無秩序の平和をレイアウトしているのかも知れない。墓石や墓標を眺めるばかりなのに、飽きもせずにやがて奥の院へ着いた。般若心経を誦してご冥福をお祈りした後、地下を巡り建物の奥にあるご廟にもお参りした。

高野山に来ると、理屈抜きに心が洗われる様な気がする。高野槇を初め杉などの大木が、あの世の人びとの魂を鎮めるだけではなく、この世の人びとの心に溜まったストレスをたちまちに浄化してくれるのであろうか。戻り道は、さすがに疲れを感じながらも、安達さんのためにも、そして自分達のためにもここへ来てよかったなと思った。

車に戻る途中の道は、やはりかなり混んでいて、駐車場に行って見ると、最早満車の状態だった。再び来た道を戻って九度山を降りる。この道は曲がりくねった同じようなカーブがうんざりするほど続いていて、かなり運転に神経を使わされた。五條の町の中の柿の葉寿司の店で、今回の最後となる昼食用の寿司を買う

高野山の参詣が終われば、後はひたすら帰途に就くだけである。今回の旅は物見遊山のつもりは全く無いので、立ち寄るところも無い。但し、無理をせずにあまり急がないようにして安全に帰宅する考えなので、高速道はなるべく使わずに、1日くらい余分な時間をかけても構わないと思っている。今日はこれから、とにかく東名阪道に入り、行けるところまで行って、適当なところに泊まる考えである。先ずは、大宇陀の道の駅に行って、昼食休憩とする。

東名阪道に入ったのは、15時頃か。その後は来た時と略同じコースを辿って、伊勢湾岸道のみえ川越ICから高速に入り、東名の岡崎で降りてR1へ。だんだん暗くなってきて、結局来た時と同じ、田原の道の駅に今日もお世話になることにした。19時を少し過ぎた頃到着。夕食の後はいつもと同じ。

その後の巌少年の生き様を再び思う。地獄とも比べ得るどん底の生活環境の中で、絵に慰められながらとは言え、成長するにつれ、少年はことばでは決して現わせない、無数の厳しい凄絶な体験を積んだに違いない。嬉しく楽しいことよりも層倍の哀しく惨めな体験が多かったに違いない。特に思春期といわれる感じやすい成長期には、生きることすらもその理由を見出すのが難しかったのではないか。ある時、死を決意したという述懐を聴いたことがある。

小学校3年生の大怪我の後、巌は学校へは殆ど行かなかった。行かないというよりも行けなかったというのが実態であろう。当時の教育体制・環境といえば、社会的にも貧しく、障害者を専門的に受け入れるような状況からはほど遠いものだった。聾唖者や視覚障害のような特殊な障害者の場合は、僅かながらもそれを受け入れる体制は敷かれてはいたものの、両手を失った者を受け入れる仕組みなど、放置され忘れられていたといってもいいのではないか。通常の学校でさえも、大怪我の後の子供の教育の心配を何処までフォローするかを考える体制、余裕は無かったのではないか。 母を失い、父親は育児を放棄しているような家庭を心底心配して、何とか面倒を見てあげようというような先生は居なかったのであろう。

後年になって、ご本人が「私は、小学校中退なんです。……」と微苦笑しながら話されるのを聴いた時、往時の世の中の厳しさ、貧しさ、酷さを巌少年が、どれほどの思いを持って受け止めていたかを思わずにはいられなかった。学校へ行くことも出来ず、文字を教わることも出来ず、巌少年は電柱の広告や看板などから一字ずつ漢字を覚えていったという。何という世の中、何という虐げられた環境だったのであろうか。自分というものに目覚め、自立しようと思えば、あまりに酷い状況に、どれほど無念で悔しく情けない思いを抱かなければならない少年時代だったであろうか。昔の友達は普通の姿で小学校を終え、中学校を卒業して、就職或いは進学の道を辿っているのに、巌少年は就職しようにも履歴書を書くことも、書く内容も無く、親身になって相談に乗って貰える人もなく、唯々孤独と絶望の中で、生きている意味を見出せなくなったのであろうか。

気がついたら生まれた土地の、大正区辺りの鉄道の線路を歩いていたという。人は死を思ったときには、無意識に誕生の地を目指すなどといわれているが、巌少年も絶望の果てに死を決したとき、そこを選んだのかも知れない。これは後年の彼の述懐でもある。

線路に頭を乗せ、横になっていると、やがて列車の近づいてくる音が耳に伝わって来た。その音は次第に大きくなって迫ってくる。ああ、これで母の元に行けるんだと思ったという。何よりも巌のことを大切に考えてくれた母。そのために命を失ってまで尽くしてくれた母。その大好きな母の元へ行けると思うと、巌には死ぬことの怖さはさほど無かったのかもしれない。

しかし、やがて轟音が迫ってきたとき、なぜか分らないが、列車に轢かれる前の一瞬時に、自ら撥ね飛んで、気づいたら線路脇に居たという。一瞬前までは、もう直ぐ母の元へ行けると願っていた少年が、気づいたらそれが出来なかったというのは、彼の恐怖心から来る弱さだったのであろうか?否、断固としてそのようなことは無いと思う。彼の意思の限界を超えた、何かの力が働き、それが彼の死の世界への誘いを断ち切り、引き戻したのだ。天が彼を死なせなかったのだと思わずには居られない。

……たとえ障害者であろうと、世の中にはお前よりも、もっと不幸な人がいるのだから、巌は大人になったら男としてそのような人を助けるように、強く生きなさい……」という母の声が天に通じて、巌を再び現実の世界に引き戻したに違いないように思う。母のこのことばは、今までの彼の生き様を支える柱となっていた。どんなに辛く惨めなときでも、彼の心の中のどこかで、この母の遺言が彼を元気付け、根性が曲がるのを支えてくれたのではないか。そのことばは、巌少年にとっては、どんな奇跡でも起こすほどの力を持っていたように思う。そして、事実彼の一生において、そのことばは、その力をずっと発揮し続けたのだった。

(以下明日へ) 

 

コメント
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