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山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

春の嵐からの脱出

2010-03-15 02:33:12 | 宵宵妄話

しばらく続いた春の嵐の中に身を潜めていました。先月の半ば、突然我が家を襲った春の嵐は、今ようやく収まりつつあり、私の心も平静を取り戻しつつあります。馬の骨にもかけがえのない大切なものがあり、それが危機に面したときには、とてもブログを書き続けることなど出来ないことがわかりました。ま、そのことは措くとして、今日からは元に戻ってブログを続けさせて頂くことにします。

先週1週間はブログを休み続け、実質は先月半ばから日記以外は殆ど何も書くことをしないという有様でした。この間のブログのアクセス数などを見ますと、毎日500件を遙かに超えるという驚くべき数となっており、これは一体どういうことなのだろうかと、故知らぬ圧迫感を感じ続けてきました。このような、ややイジけたジジイにも何かを期待されているのかと思うと、何時までも春の嵐の中に身を潜めてはいられないなと思った次第です。

ところがようやく気持ちの切り替えが出来そうだと思ったのですが、気がついてみれば、一年の中で最も厳しい花粉の季節の真っ只中に突入していたのでした。毎日花粉情報の予報を見ながら、このようなものを見ても見なくてもこの季節の樹木たちの人間どもへのしっぺ返しは、避けては通れないのだと、半ば諦めて薬を飲み、マスクをして外出の最小化を思うばかりなのです。

最近では花粉症の研究も進んで、1日1錠飲むだけでかなり症状が治まり、軽減される薬が処方されるようになりましたが、それでも治療の限界を超える日が何日か必ずあり、その時は鼻を赤くしながらとにかく時の過ぎるのをじっと待つだけの時間を過ごすことになります。

というようなわけで、真に冴えない毎日なのです。何を話材にブログを再開しようかと考えたのですが、やっぱり花を取り上げようと思いました。花粉というのも文字通り花に関連が深いものですが、春の花といえば悪さをするようなものではなく、百花繚乱の妍を競うというのが本来の姿であったと思います。それがこの頃は杉や檜などの目に見えない花の粉にまぶされてしまって、泪で本来の花たちの美しさを直視できないほどになってしまうなんて、半世紀前の少年時代では想像も出来ない途方もない変化のように思います。

マスクにメガネというのがこの季節の私の外出の正装(?)スタイルですが、とにかく糖尿病の身には歩くことが不可欠の課題のため、万難を排して歩くことに努めています。その中で春の到来を印象付けてくれた花を二つだけ取り上げたいと思います。花といえば私の感覚では圧倒的に野草たちが優先されるのですが、今回は野草たちではなく、通り道で出あったどなたかの庭先に見つけた花二つです。

その一は、守谷に越して来てから毎年少しずつ樹木が生長し、それにつれ咲く花の枝ぶりも膨らんできているお隣のIさん宅のミモザの花です。丁度側道を包むように枝が広がっているミモザの木は、2月の半ば過ぎに黄色く色づき出し始めて、只今が開花の最盛期です。私は守谷中を歩きまわっていますが、これほど見事なミモザの花を見たことがありません。守谷には古い農家が多く、このような外来種の樹木は殆ど植えられていないようです。Iさんも私たちとそう変わらぬ時期に越されて来ていますが、この木を選ばれたのには、それなりの感慨がおありだったのだと思います。毎日春を実感できる一本の樹木がお隣にあるというのは、真に有難く嬉しいことです。 

   

青空に映えるミモザの花。これだけを見ていると花粉の塊のようにも見えてくるが、この花は悪さをしない。 

もう一つの花は、散歩の途中に突然目に飛び込んできた、通りすがりの道端に接した庭のクロッカスの花です。クロッカスにはいろいろな花の色揃えがあるようですが、私が一番好きなのはやっぱり濃い紫色の花です。クロッカスはサフランの仲間で、サフランは秋咲きですがこちらは春の花です。サフランはそのおしべが薬用になるのだと、その昔今は亡き父が裏庭に何株かを植えていたのを思い出しますが、クロッカスには薬効があるのかどうか私には解りません。そのようなことはともかくとして、ぼやぼやとした陽気の中でも、凛として濃紫の花を咲かせているクロッカスは、花粉症の憂鬱をいっぺんに取り除いてくれるような存在感を私に与えてくれたのでした。今年の春一番の嬉しい花との出会いでした。これで春の嵐からの脱出が図れそうな気分になりました。

  

 冬の眠りから一気に目覚めたクロッカスの花たち。体全体が花といった感じで、春の到来を宣言している。

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安達巌鎮魂の旅(7)(最終回)

2010-03-07 02:47:15 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

第7日 <9月27日()>(最終日)

道の駅:富士吉田→(R138R139R20)(都留・大月・八王子経由)(R16から五日市街道へ)TACOS(五日市街道・青梅街道・保谷街道を経由して大泉から外環道へ)→(草加ICからR4)(春日部にてR16)(野田から県道にて守谷方面へ→自宅  <176km>  総走行距離:1,483km

一晩中降り続いた雨は、明け方になってようやく小降りになり、やがて止んだ。しかし、今日も天気はご機嫌がよろしくなさそうである。旅の最後の夜を過ごして、今日は家に帰るだけである。大月から甲州街道に入り、八王子でR16に入って、ついでだからSUN号の購買先であるTACOS社に立ち寄って挨拶して帰ろうと思う。8時過ぎ出発。

富士のお山は、全く見えない。大月に向う富士吉田の市街を走る道は、ず~っと下り坂だ。かなりの標高なのだろうか、三つ峠などの山なのか雲海の果てに顔を出している山が幾つか見えて、なかなか雄大な景色である。雨模様でなかったら、もっともっと素晴らしい眺望があるのであろう。今度は晴れた日を選んで、近々忍野の富士を見に来ようと思った。邦子どのも思いは同じようである。

比較的順調な流れで、TACOSの店に着いたのは、11時少し前だった。田代社長、浩子さんに挨拶し、少し歓談をした後、出発。途中国分寺市の郊外で珍しく外食をとったのだが、このときは再び雨が本降りとなっていた。東京の郊外から都心に入り、練馬の大泉ICから高速の外環道に入る。ところが、どこかで事故があったらしく、見当違いの大渋滞で、低速道となってしまった。草加ICから一般道に入り、守谷の自宅に着いたのは、15時30分だった。雨はすっかり上がって、青空が覗いていた。安達さんの魂にも、少しは自分たちの思いが届いたのかも知れない。青空を見ながらそう思った。

<旅から戻って>

一週間の旅だった。どうしても大阪に行き、安達さんの魂を慰めなければならないと思った。幽界にいる人を慰めるなんぞというのは、本当はおこがましい、この世に生きているものの身勝手な妄想なのかも知れない。つまりは自分自身のための鎮魂ということなのかも知れない。そのような反省をしながら、安達巌という、とてつもなく大きな生き様を残した人物の来し方を思った。

とてもその全てを知ることなど出来るものでもなく、その本当の心のありかを訪ねることなど出来るものではない。安達巌は、人間の限界を生き、人間の可能性を証明した人だ。いつの日か(といっても、自分に残されている時間はそれほど多くは無いということは承知している)安達巌のことを書きたいと思っている。そのタイトルはもう決まっている。「いのちの絵」がそれである。安達巌の絵は、自分のいのちを削って描かれたものだと思っている。彼の絵を見る度に、彼のいのちの脈動が伝わって来るのである。それは自分の中では、永遠に消えないものであろう。  (了)

 

お知らせ:

明日からしばらくの間掲載を休ませて頂きます。たくさんのアクセスを頂戴しておりますのに、誠に申し訳ありません。どうしても書けない事情があり、ご容赦頂きたいと思います。(馬骨拝)

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安達巌鎮魂の旅(6)の2

2010-03-06 01:22:21 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

(昨日の続き)

この自ら命を絶とうとした死の淵からの生還の時から、彼の本当の凄まじい生への挑戦の人生が始まった。世に認知されて生きて行くためには、何としてもその命を維持するための生業を得なければならない。それからの彼は、怖さも恥ずかしさも投げ捨てて、自分を使ってくれる、雇ってくれる人を探し続けたという。もともと鉄工所を経営する家に生まれ、父も同じ系統の仕事についていたこともあってなのか、巌も又そのようなところ選んで、飛び込みで仕事をさせて欲しいとお願いして歩き続けたという。しかし、殆どの経営者は、彼の身体を見て、彼が何でも出来ます、やれますと、どんなに言っても、本気にとり合ってはくれなかった。

実際その頃の巌少年は、身の回りのことは健常者と殆ど変わらぬほど、何でもこなすことが出来たし、ハンディを持つことで鍛えられた身体は、むしろ健常者以上に逞しいものであった。自転車にも乗れるし、泳ぐのも走るのも決して健常者に引けをとることはなかった。

懸命の努力の結果、やがてようやく彼を使ってくれる雇い主にめぐり会うことが出来たのである。そこも小さな鉄工所だったが、社長はとにかく働いてみろといって、彼を使ってくれたのである。それからの彼は使い走りから始まって、出来る仕事は何でもこなしたという。仕事が出来る嬉しさは、彼を元気付け勇気付けたに違いない。人間というものは、そのような励みが見つかったときは、自分でも気がつかない、とてつもないパワーを発揮するものである。その時の巌少年もそうだったに違いない。

やがては使い走りから、溶接の仕事までこなし、資材管理の責任者まで任せられるようになったという。この間の巌の努力は、常人の見えないところで、もの凄いものがあったに違いない。そして、やがて世間もそれを見過ごすほど愚かではなかったのだと思う。少なくとも巌を雇った社長には、巌の、その生きる姿勢と仕事への直向な努力がしっかりと目に映ったに違いない。

生きる基盤の無い放浪の生活から脱却して、巌は鉄工所の狭い屋根裏部屋に住まわせて貰いながら、絵を描く情熱を失うことは無かった。来る日も来る日も、鉛筆を口にくわえてデッサンに励んだ。しかし、色付けをしようと思っても絵の具を買うことができない。最初から絵の具を買うのは諦め、自然界の中から使える色を探して使おうとしたこともあった。桜の季節には、桜の花びらを集めて、それを潰して色付けを試みたりもした。口に咥えた棒で擂り潰すと、かすかに桜色が紙に滲みるのである。赤い色は赤い花びらから、黄色い色は黄色い花びらからという風に、いろいろと工夫してチャレンジを続けたのだった。

やがて、絵の具を1個ずつ買うことを思いつき、食費を削ってお金を貯めた。1個10円のコッペパンをすら一食ではなく2食目に回すこともあったという。伸び盛りの一番食べたい時期に、それを我慢することはどれほど辛かっただろうか。それでも描いた絵に色をつける喜びに勝るものは無かったのだった。

このような血の出るような努力の中で、書き上げた絵を出品するチャンスが来た。布施市(現在の東大阪市)の美術協会展に、知人とスケッチに行った和歌山の双子島の絵を出品したのだった。それが見事に入選を果たしたのである。汚れてボロボロの作業服を着ていた巌青年は、恥ずかしさもあって、展覧会を見に行く勇気も無かった。入選の知らせを受け取った時も、彼はその喜びを素直に実感できなくて、何だか夢の世界の中に居るような感覚だったという。時は昭和37年(1962)、安達巌、23歳の時だった。そして、その絵を知り合いの散髪屋さんのご主人が買い上げてくれたのである。

ここから先が巌青年の常人と異なるところである。その大金(彼にとっては)を得て、彼が行なったことは、絵の制作に必要な絵の具を買うためのお金を残して、残りのお金の全てを、匿名で市の福祉に役立てて下さいと寄付してしまったのである。決して売名行為などではなく、それは天国の母からの伝言だったと思う。 「……たとえ障害者であろうと、世の中にはお前よりも、もっと不幸な人がいるのだから、巌は大人になったら男としそのような人を助けるように、強く生きなさい……」という、あの母の遺言だった。どんな時でも巌はそれを忘れなかった。母もまた忘れさせなかったのだといえよう。

このできごとが世に知れて、新聞記者が押し寄せ、巌は一躍美談の主となった。このことが、彼が世に出るきっかけとなったことは、間違いない。しかし、どんなにマスコミに騒がれようと、巌は決してそれに浮かれることはなかった。その後も弛まず絵の勉学・修業に集中し、今までの我流だけではなく、美術学校にも席を置いて、工夫・研究を怠らず精進を重ねて行ったのである。

昭和39年には東京オリンピックが開催されたが、その終了後初めて開かれた世界障害者競技大会(現在のパラリンピック第1回目)に出場した巌は、エントリーした全ての種目(水泳で金、陸上競技では幅跳びと短距離走で夫々銅メダル)でメダルを獲得するなど、絵以外の世界においても、その非凡な才能を発揮したのだった。思えば、この時期は彼の人生における華々しいデビューの時であった。往時の彼に関するエピソードを、多くの新聞記事を見ることによって、窺い知ることが出来る。

長い長い辛苦の末に、花は一気に開いたのだったとも言えよう。そして世の中もようやく障害者にスポットを当てる行政の基盤が整備されつつあったのかもしれない。彼のデビューを心から祝福したい。

安達巌の回想はここまでとしたい。

デビュー以後の彼の活躍は、決して順風満帆とは行かなかった。けれども彼の歩んだ道は、彼と労苦を分かち合った昌子夫人と共に、確実なる人の道だった。永遠に光り輝く人の道だった。

私は、安達巌の人生は、自ら切り拓いた画家としての道を歩み出す前にこそ重いものがあると受け止めている。その重さは、突然ジャングルの中にたった一人放り出された少年が、己の生きる術を探しながら、血みどろになってあらゆる困難と闘いながら成長して行く状況よりも、もっと過酷ではなかったかと思っている。人間社会という得体の知れないジャングルは、植物たちよりも時に過酷であり、毒を撒き散らす。そして時に優しい。安達巌がその過酷な人間ジャングルの中を、母の残した言葉を忘れることなく生き抜いたことは、卓越した冒険家でもあったということかもしれない。たった一人の畏友が、今冥界で何を思っておられるのか、この短い旅の中では、やはり見当もつかない。

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安達巌鎮魂の旅(6)の1

2010-03-05 04:41:29 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

第5日 <9月25日()

道の駅:吉野路黒滝→(R309R370R24R370)→(大淀・五條・橋本・九度山経由)→高野山駐車場(和歌山県高野町)(金剛峰寺から奥の院御廟まで徒歩往復)→高野山駐車場→ (R370)→道の駅:宇陀路大宇陀→(R370R369)→東名阪道・針IC →(東名阪道)→亀山IC(R1R23)→みえ川越IC(伊勢湾岸道)→刈谷SA(東名)→岡崎IC(R1にて豊橋へ) → (R259)→道の駅:田原めっくんはうす(泊)  <347km

知らず眠りに就いた昨夜だったが、22時ごろまで外で話しをしている者が居て、時々想念を乱されたりしたし、又明け方前に隣に入ってきたトラックがエンジンを掛けたまま仮眠を始めたらしくて、思ったよりも騒々しい一夜となった。車での泊りは、このような騒音の運不運が常に付きまとうものだと諦めてはいるけど、実際は我慢ならないことが多いのである。

今日は、高野山に参詣してご冥福を祈念する予定である。昨日は神社、今日はお寺ということで、日本に住む日本人である以上は、これは当たり前のことだと思っている。

少し早めに出発して、吉野川に沿って、五條、橋本から九度山の坂を登って高野山へ。総本山金剛峰寺前の駐車場にSUN号を停めて奥の院まで歩くことにする。

思えば、高野山はまだ我々が川崎に住んでいる時、安達さんに櫻池院を紹介して頂いて来山したのが初めてだった。そのご縁で、私の両親が亡くなった後、仏壇の購入やご先祖の回向などで櫻池院にお世話になり、遂にはその檀家のようなものとなってしまった。もし安達巌をモデルにした話を書き上げることが出来るとしたら、その最後の稿は、櫻池院の宿坊で仕上げたい。それも安達さんに対する供養の一つになるのではないかと思っている。

そのような訳で、安達さんは、我々と高野山との関係に深く関わっておられると思っている。今日は、奥の院に参詣し弘法大師廟の前で、ご冥福をお祈りしたい。

今は、お彼岸なのだが、9時を少し回ったばかりで、さすがに高野山でも人出はまだ少ない。あと1時間もすれば、大型バスや一般の参詣の車でこの広い駐車場も満杯となるに違いない。

奥の院の入口まで少し歩いて、そこからは無数とも思える墓石や墓標の間を歩く。戦国時代の信長の墓も秀吉の墓もそしてその後の時代の歴史を賑わした超有名人の墓が、こともなげに随所に並んでいる。あの世へ行けば、この世での争いなどたちまち浄化されて、想像もつかない平穏な世界が横たわっているのかも知れない。この墓地は、それを暗示する無秩序の平和をレイアウトしているのかも知れない。墓石や墓標を眺めるばかりなのに、飽きもせずにやがて奥の院へ着いた。般若心経を誦してご冥福をお祈りした後、地下を巡り建物の奥にあるご廟にもお参りした。

高野山に来ると、理屈抜きに心が洗われる様な気がする。高野槇を初め杉などの大木が、あの世の人びとの魂を鎮めるだけではなく、この世の人びとの心に溜まったストレスをたちまちに浄化してくれるのであろうか。戻り道は、さすがに疲れを感じながらも、安達さんのためにも、そして自分達のためにもここへ来てよかったなと思った。

車に戻る途中の道は、やはりかなり混んでいて、駐車場に行って見ると、最早満車の状態だった。再び来た道を戻って九度山を降りる。この道は曲がりくねった同じようなカーブがうんざりするほど続いていて、かなり運転に神経を使わされた。五條の町の中の柿の葉寿司の店で、今回の最後となる昼食用の寿司を買う

高野山の参詣が終われば、後はひたすら帰途に就くだけである。今回の旅は物見遊山のつもりは全く無いので、立ち寄るところも無い。但し、無理をせずにあまり急がないようにして安全に帰宅する考えなので、高速道はなるべく使わずに、1日くらい余分な時間をかけても構わないと思っている。今日はこれから、とにかく東名阪道に入り、行けるところまで行って、適当なところに泊まる考えである。先ずは、大宇陀の道の駅に行って、昼食休憩とする。

東名阪道に入ったのは、15時頃か。その後は来た時と略同じコースを辿って、伊勢湾岸道のみえ川越ICから高速に入り、東名の岡崎で降りてR1へ。だんだん暗くなってきて、結局来た時と同じ、田原の道の駅に今日もお世話になることにした。19時を少し過ぎた頃到着。夕食の後はいつもと同じ。

その後の巌少年の生き様を再び思う。地獄とも比べ得るどん底の生活環境の中で、絵に慰められながらとは言え、成長するにつれ、少年はことばでは決して現わせない、無数の厳しい凄絶な体験を積んだに違いない。嬉しく楽しいことよりも層倍の哀しく惨めな体験が多かったに違いない。特に思春期といわれる感じやすい成長期には、生きることすらもその理由を見出すのが難しかったのではないか。ある時、死を決意したという述懐を聴いたことがある。

小学校3年生の大怪我の後、巌は学校へは殆ど行かなかった。行かないというよりも行けなかったというのが実態であろう。当時の教育体制・環境といえば、社会的にも貧しく、障害者を専門的に受け入れるような状況からはほど遠いものだった。聾唖者や視覚障害のような特殊な障害者の場合は、僅かながらもそれを受け入れる体制は敷かれてはいたものの、両手を失った者を受け入れる仕組みなど、放置され忘れられていたといってもいいのではないか。通常の学校でさえも、大怪我の後の子供の教育の心配を何処までフォローするかを考える体制、余裕は無かったのではないか。 母を失い、父親は育児を放棄しているような家庭を心底心配して、何とか面倒を見てあげようというような先生は居なかったのであろう。

後年になって、ご本人が「私は、小学校中退なんです。……」と微苦笑しながら話されるのを聴いた時、往時の世の中の厳しさ、貧しさ、酷さを巌少年が、どれほどの思いを持って受け止めていたかを思わずにはいられなかった。学校へ行くことも出来ず、文字を教わることも出来ず、巌少年は電柱の広告や看板などから一字ずつ漢字を覚えていったという。何という世の中、何という虐げられた環境だったのであろうか。自分というものに目覚め、自立しようと思えば、あまりに酷い状況に、どれほど無念で悔しく情けない思いを抱かなければならない少年時代だったであろうか。昔の友達は普通の姿で小学校を終え、中学校を卒業して、就職或いは進学の道を辿っているのに、巌少年は就職しようにも履歴書を書くことも、書く内容も無く、親身になって相談に乗って貰える人もなく、唯々孤独と絶望の中で、生きている意味を見出せなくなったのであろうか。

気がついたら生まれた土地の、大正区辺りの鉄道の線路を歩いていたという。人は死を思ったときには、無意識に誕生の地を目指すなどといわれているが、巌少年も絶望の果てに死を決したとき、そこを選んだのかも知れない。これは後年の彼の述懐でもある。

線路に頭を乗せ、横になっていると、やがて列車の近づいてくる音が耳に伝わって来た。その音は次第に大きくなって迫ってくる。ああ、これで母の元に行けるんだと思ったという。何よりも巌のことを大切に考えてくれた母。そのために命を失ってまで尽くしてくれた母。その大好きな母の元へ行けると思うと、巌には死ぬことの怖さはさほど無かったのかもしれない。

しかし、やがて轟音が迫ってきたとき、なぜか分らないが、列車に轢かれる前の一瞬時に、自ら撥ね飛んで、気づいたら線路脇に居たという。一瞬前までは、もう直ぐ母の元へ行けると願っていた少年が、気づいたらそれが出来なかったというのは、彼の恐怖心から来る弱さだったのであろうか?否、断固としてそのようなことは無いと思う。彼の意思の限界を超えた、何かの力が働き、それが彼の死の世界への誘いを断ち切り、引き戻したのだ。天が彼を死なせなかったのだと思わずには居られない。

……たとえ障害者であろうと、世の中にはお前よりも、もっと不幸な人がいるのだから、巌は大人になったら男としてそのような人を助けるように、強く生きなさい……」という母の声が天に通じて、巌を再び現実の世界に引き戻したに違いないように思う。母のこのことばは、今までの彼の生き様を支える柱となっていた。どんなに辛く惨めなときでも、彼の心の中のどこかで、この母の遺言が彼を元気付け、根性が曲がるのを支えてくれたのではないか。そのことばは、巌少年にとっては、どんな奇跡でも起こすほどの力を持っていたように思う。そして、事実彼の一生において、そのことばは、その力をずっと発揮し続けたのだった。

(以下明日へ) 

 

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安達巌鎮魂の旅(5)の2

2010-03-04 03:01:22 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

第4日 <9月24日()

道の駅:大和路へぐり→(R168R25R169)→大神(おおみわ)神社駐車場(奈良県桜井市)(バスにて天理まで行き、歩いて石上(いそのかみ)神宮へ)→山辺の道散策(石神神宮から大神神社まで約13km徒歩)→大神神社駐車場→(R169R309)→下市温泉明水館(奈良県下市町) → 道の駅:吉野路黒滝(奈良県黒滝村) ()  <65km

(昨日の続き)   

一休みの後、温泉に入ろうと桜井市を抜け、吉野川の橋を渡って、下市町にある明水館という所に向う。今日は、この温泉の少し先の黒滝村にある道の駅に泊るつもりである。まだ日は高く温泉に着いたのは、15時少し過ぎだったが、早めに道の駅に行ってゆっくりしようと考えた。いい湯だった。さほど疲れてはいないが、温泉に入ったことで、疲れは完全にどこかに飛んでしまったような感じだった。

道の駅:黒滝は、本当はあまり好きではない所(前回初めて来たときに水を汲むことで不愉快な思い出があった。ここも水を汲ませる設備が皆無なのである)なのだが、車も少なく静かな場所なので、ゆっくりするのには都合がいい。16時半には到着していた。休日とあって、近郊からの行楽客でかなり車も混んでいたが、17時を過ぎると潮が引くように車は消え去り、やがて殆ど誰も居なくなって、今夜の泊りは、SUN号と他に1、2台の車を残すだけとなった。やがて四方を山に囲まれたこの地は夕闇の帳(とばり)に包まれた。

眠りに就くまでの間、再び辛い厳しい安達巌の回想が始まる。頼みの綱の母が亡くなってからの巌少年には、それからは想像を絶するほどの悲惨な人生が待っていた。母に代わるはずの庇護者の父親は、妻の親戚との折り合いが悪かったらしく、家を留守にすることが多かったという。家を留守にするということは、巌の面倒を見ることを放棄するということと同じになるわけだが、この父にはあまり肉親の情というものが無かったのかもしれない。両手を無くしたわが子を不憫に思うよりも、期待を裏切ったわが子を疎ましく思う気持ちの方が強かったのかもしれない。いずれにしても厄介者として母の姉妹の家に残された巌の存在は、想像以上に厳しいものであったに違いない。無駄飯を喰わせて育てている甥は、世に言う不具者なのである。しかもその親は、その子供をほったらかして年中殆ど不在なのである。可哀想にと愛情をかける気持ちよりも、何で自分達がこの厄介者を抱えなければならないのか、という思いの方が上まったと考えるのは、難しいことではない。

今でこそ障害者の立場はかなり守られるようになったが、その当時の世間一般では、五体満足でない限り、差別の扱いは当たり前のように行われていたのである。肉親の側からも愛情薄い扱いを受け、世間からも最早両手の無い片端者という冷たい視線を受けなければならなかった巌少年の思いの辛さ、情けなさ、恨めしさ等々は如何ばかりであったろうか。同じ様に戦災で家や全ての財産を失い、疎開先に近い開拓地に入植して、食に事欠く貧乏を経験したのだが、健常者として両親の庇護の下に何事も無く育った自分のような者には、彼が乗り越えてきた生きるための壮絶な闘いの厳しさを、本当に理解するのは到底無理なのかもしれない。

そのような環境の中で、巌少年は甘えを捨て、必死に自立の道を見出そうと努力し始めた。自立といっても伯母の家を出て行くことではない。先ずは必要最小限の身の回りの処理が他人の手を借りずに出来るようになることだった。辛うじて残された左の二の腕を使って衣類の脱着や食事の仕方をはじめ、ありとあらゆる生活の基盤となることがらへの対処方法を何としても身につけようと、身を捩(よじ)りもがき、脂汗を垂らしながら、工夫し、挑戦した。恐らくその内のどれ一つ採ってみても、そこには心血を注いだ彼の凄まじい努力があったに違いないと思う。その結果その目的の殆どを達成できるようになったという。実際、その事例の幾つかを聴いたことがあるが、ズボンやパンツの上げ下げ、スプーンを使った食事の仕方、包丁を使っての調理等など、健常者にはごく普通の無意識で行っていることが、両手を失った者には、想像を絶する努力によって、初めて可能への道が開かれるのである。ズボンへのホックの取り付けのための、口を使った縫い針への糸通しの話を聞いた時は、背筋が寒くなるほどの感動を覚えたのだった。人間というのは恐ろしいほどの可能性を秘めているものだと、薄っぺらな口先だけの教えではなく、身をもってそれを実践した人間を目の当たりにした時、自分はこの人にもっともっと多くのことを学ばなければならないと思った。

それにしてもこれだけの逆境を生き抜くということは「凄い」の一言に尽きる。学校へ行くこともままならず、伯母の家に居候のまま、その後の巌少年がどのような生活を送ったのかは、自分も知らないし、彼もあまり語ろうとはしなかった。しかしまさに世間からも肉親からも見放されたような孤独の中で、少年は普通の人間が到底潜れるものではない悲惨ともいえる体験を積み上げながら、強靭な生命力を知らず知らずの内に育てていったように思う。

そして絵に行き当たった。学校へも行けず、孤独と絶望に打ちひしがれた暮らしの中で、少年は唯一の慰めとして、口に鉛筆をくわえ、絵を描くことを知ったという。チビた鉛筆を口にくわえて、紙に初めての線を引こうとした時は、だらだらと流れ出る涎(よだれ)が止まらず、紙はたちまちに濡れて尽くしてしまったという。何度チャレンジしても涎はなかなか止まってはくれなかった。人間の生理的な働きは本人の意思とは無関係に、口に入れたものを消化の対象として反応してしまうのであろう。これを克服するまでには、巌少年は、どれほど多くの時間を要したのであろうか!

しかし、遂に彼はこれを克服したのだった。曲がりくねった線しか描けなかったのが、やがては直線や円も自在に描けるようになっていった。巌少年は、命懸けでそのことに集中し、やがては口にくわえた鉛筆でデッサンをものにしていったのである。それは、我々が気休めに書く落書きのようなものとは、本質的に違うものだった。描く一本の線の中には、彼が抱え、彼を囲んでいる、深い深い絶望の深淵にある孤独を慰める一筋の希望の光が籠められていたのである。それは彼の命を刻んだ一本の線でもあったのである。思うにこれは天が彼を見放さなかった証拠だったのかも知れない。

 

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安達巌鎮魂の旅(5)の1

2010-03-03 00:11:50 | くるま旅くらしの話

途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

第4日 <9月24日()

道の駅:大和路へぐり→(R168R25R169)→大神(おおみわ)神社駐車場(奈良県桜井市)(バスにて天理まで行き、歩いて石上(いそのかみ)神宮へ)→山辺の道散策(石神神宮から大神神社まで約13km徒歩)→大神神社駐車場→(R169R309)→下市温泉明水館(奈良県下市町) → 道の駅:吉野路黒滝(奈良県黒滝村) ()  <65km

朝起きると、いい天気だった。長距離を歩くには少し暑いかなとも思ったが、意外と爽やか空気なので汗をかいてもさほど苦になることはあるまい。昨日、今日、明日は今回の鎮魂の旅の大切な時間である。今日は山辺の道を歩き、明日は高野山に参詣することにしている。安達巌を偲ぶ時間である。

山辺の道は、奈良から明日香の方まで続いているが、今日は、天理の石上(いそのかみ)神宮から桜井の大神(おおみわ)神社までの約13kmを歩くことにしている。駐車場の関係で、大神神社の駐車場にSUN号を置き、バスで天理まで行ってそこから歩いて石上神宮まで行き、散策開始の予定である。

平群から1時間ほどで大神神社に到着。その後は予定通りバスに乗って、石上神宮に着いたのは10時20分頃だった。早速本殿に参拝し、安達さんのご冥福とご残されたご一家の安全と健康そしてご多幸を祈念した。

山辺の道を歩くのはこれで2度目である。前回は2年前の晩秋に、今回と反対の大神神社からのコースを辿った。柿とミカンが色づく、のどかな大和路を歩いたのだが、その時の天気は荒れ模様で、晴れていたと思ったら、急に時雨空から雪が吹き荒れたりして、印象に残る歩きだった。今日はどのような歩きになるのであろうか。安達さんのことを思いながらじっくりと歩いてみたいと思った。

天理市は文字通り天理教の本拠地であり、市の中心部に入ると他の都市とは違った異様な雰囲気を感ずる。しかしその異様さは必ずしも心地悪さにつながるようなものではない。オームのような邪悪なものではなく、随所に人びとの善意が感ぜられるのが安心である。石上神宮は、天理の中心街を横切った山の手の取り付き口辺りにある。行く途中からリュックを背負った中高年の人たちが増えてきたが、皆さん手に手にビニール袋を持っての歩きであり、今日はどうやらクリーン作戦のようなイベントが開催されているらしい。最近は、山辺の道のウオークは一段と人気があるようだ。不心得者が汚した道辺のごみなどを回収するのもいいアイデアだなと思った。

大木に囲まれた中にある本殿に参拝してから、歩き出す。大勢の人たちが一緒なので、何だか調子外れの感がする。静かに安達さんのことを偲びながら歩こうと思ってきたのに、ワサワサ大勢の人たちと歩くのは思いもかけない出来事だった。どこまで行っても人の列は続いていて、何だか我々もイベントに参加してハイキングをしているような感覚に囚われる。それでもさすがに年配の方が多い所為か、ワイワイ騒がしい歩き方が少ないので救われた。

永久寺跡を過ぎて坂道を上り下りしながらやがて平らな田んぼ道や畑道を歩く。時々小さな集落の中や脇を通って、道は幾つもの歴史に名を留める場所を左右に配置しながら続いている。山辺の道は奈良時代から続く要路の一つだった。奈良時代の日本の人口がどれほどのものであったのかはよく知らないが、1千万人にはほど遠い少なさであったに違いない。そのかなりの人口がこの大和地区に集中していたのではないか。何といってもその当時ここは都であり、日本の中心地であったのだ。

歩くということは考えることであると思っている。京都には哲学の道があるが、京都ならずともヨーロッパや中国にも同じような道があるに違いないと思っている。人間の思考というのは、座して瞑想することも重要だが、意外と歩きながら考えるというのが有効なような気がする。木立に囲まれた閑静な道を歩くと、忘れていた大切なことを思い出したり、新しい想念が湧いてくることがある。

その昔、この山辺の道を歩きながら、人々はたくさんの人生ドラマの材料を拾ったに違いない。個人の思いだけでは無く、様々な出会いもあったに違いない。もしかしたら、自分が安達巌に出会ったのと同じように、千年を超える昔に、我がご先祖と安達巌のご先祖がこの道で邂逅していたのかもしれない。人間の先祖を幾何級数的に辿ってゆくと、三十数世代で人類の始祖に到達するという。現在六十数億人の人間は、僅か四十世代にも至らぬ歴史と時間しかもっていないのであるから、自分と安達巌のご先祖が、この山辺の道ですれ違ったということは充分に可能性があることのように思う。

全ての人間が祖先を同じにしているということは、不思議な真実である。しかし、殆どの人はそのことを知らない。世界中で民族という名の集まりや信教という名の集りなど、様々なグループや単位で争いが起こっているのは、そのような真実を知らないからだと思う。始祖を同じとするなら、人類という生き物は、自らの根元を忘れ果て、枝葉同士が互いに殺傷しあうほどの争いを演じていることになる。世界の平和というのは、人類がその始祖を一にしていることを本当に自覚しない限り、実現できない課題なのかもしれない。少し横道に逸れてしまった。言いたいのは、人間というのは皆、始祖を一にする存在であり、広義の身内なのであるということ。

現実には、人間はその本質を忘れた現象の世界で、自分を主張するあまりに、弱い立場の他人を貶(おとし)めがちである。差別やなどという問題は、まさにこの人間の危険な弱点がもたらしたものだと思う。安達巌は、少年時代に事故で両手を失い、この枝葉・現象の世界に翻弄されながら、生きて生き抜いた人だと思う。志半ばにして逝ってしまったが、彼の立派な仕事は永遠に残ってゆくと思う。又残さなければならないと思う。

山辺の道は、心地よい。あれこれと安達さんのことを思い浮かべながらも、道端に広がるミカンや柿畑の風景が自然に心を慰めてくれる。大和のこの地が、わが国のミカン栽培の発祥の地であることを知ったのも、前回ここを歩いた時だった。千年を超える昔からの、この地での人びとの営みが、わが国の原点になっているのかも知れない。道端の無人売店に並べられている青いミカンを買って頬張りながら歩いている内に、13kmを難なく歩いてしまった。ゴールの大神神社では、何か知らないが例祭のようなものが開かれていて、朝はガランとしていた駐車場は身動きできないほどの混み具合になっていたのに驚かされた。改めて拝殿にてご冥福を祈った。

(以下明日へ)

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安達巌鎮魂の旅(4)

2010-03-02 02:15:56 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います

<9月23日()

道の駅:御杖 → (R369R370) → 道の駅:大宇陀(奈良県宇陀市) → (R370R166R165) → 道の駅:當麻(奈良県當麻町) → 安達さん宅(大阪府柏原市) → (R25R168) → 道の駅:平群(奈良県平群町)(泊)  <98km

 

昨夜は、辛い想いを辿りながらも、いつの間にか眠ってしまった。目を覚ますと、御杖の道の駅は静かな朝を迎えていた。どこか近くの山に登るのであろうか、登山の用意をした人たちが何人か立ち寄って、朝食をとっていた。今日は安達さん宅にお伺いして弔意をお伝えする日である。午後一番でお邪魔することにさせて頂いているので、先ずはこの山道を降りて、榛原から桜井の方へ向うことにする。

途中御杖トンネルを抜けると、沢から清水が流れている所があったので、車を止めて水を汲むことにした。きれいな水だが、飲むには少し不安がある。とりあえず洗物用にと40Lほど汲む。近くに秋の山野草(ミズヒキ、ツリフネ草、フウロ草、アザミなど)がたくさんあった。邦子どのは少し摘んでいたようである。

その後、棚田の縁に群生する彼岸花などの写真を撮るなどしながら道草を楽しんだ後、桜井市手前の道の駅:大宇陀に立ち寄る。関西方面へ来たときには必ず立ち寄るお気に入りの道の駅である。今日は休日の所為か、かなりの車で混雑していた。車を置いて、少し古い町並みを散策する。ここには古い日本の風情を偲ばせる町並みが残っているのが嬉しい。造り酒屋の前を通ったが、酒を買うのは止めた。お昼の柿の葉寿司をゲットして出発。

ここからは桜井、橿原、大和高田、香芝を通って、柏原市の手前の当麻町にある道の駅へ向う。12時半ごろ着いたのだが、ものすごい混み様で、駐車できず、やむなく近くのコンビニで昼食休憩となる。着替えなどした後、安達さん宅へ向け出発。

道に迷うかと配しながら行ったのだが、何回かお邪魔しているおかげで、迷うことも無く、ちゃんと予定通りに到着。

奥さんは思ったよりもお元気だったので少しホッとした。でも、自分の気持ちは決して明るくはなれない。長女のお嬢さんが産後の静養もかねて在宅されていたので、気が紛れるということもあるのだろうと思った。挨拶の後、お線香をあげさせて頂く。声には出さず、般若心経を唱えた。アトリエの小さな仮設の仏壇に、「浄彩光巌信士」と書かれた位牌があり、その奥の写真の安達さんは、いつもの変わらぬ好いお顔の安達さんだった。その安達さんに、これからはもう写真でしか逢えないということが未だに信じられない。今、直ぐにでも、「やあ、どうも。」といつもの笑顔でドアを開けて入ってこられるような気がして、何だか仏壇がドラマのセットのような気がしてならなかった。

その後、奥さんからいろいろとお話を伺った。遺骨の軽さの話を聞いた時は、凄まじい生き様をした人の証というのは、骨までもが燃え尽きるほどに生命(いのち)を削ったのだろうと思った。哀しいというよりも凄さを感じた。安達さんの絵は、命の絵だと思っている。

奥さんの苦労話にもいろいろ考えさせられることが多かった。人間というのはそれほど強い存在ではない。建前と本音があるように、どのような人でも表と裏に当てはまるものを持っているのだと思う。斯く言う自分だってとんでもないインチキ者なのだ。もともと人間には完全な本物の人物などというのは存在しないのかもしれない。思うに人間というのは、本ものと偽ものの間を行き来しながら生きているのではないか。

安達巌の気性の激しさは、時として昌子夫人を困惑させたのかもしれない。しかし、倒れる前に感謝のことばを聞かれたというのは、心の深いところで巌さんが吐いた真実の愛のことばではなかろうかと思った。愛というのは、結局は感謝であり、深謝である。自分を本当に支えてくれた者に対する深いお詫びとありがとうの気持ちが最終的な愛なのだと思う。世の中でちゃらちゃら扱われている愛の形は、その殆どが未熟なもののような気がしてならない。

何人かの弔問のお客様が見えられ、随分とお邪魔してしまった後、安達家を辞した。弔問客の中には小学校時代の知人もお見えになっており、今後安達さんの昔をお伺いできるというのは心強く、又ありがたいなと思った。その時が来たら是非お伺いしたいと思っている。何よりも先ず、奥さんに平常の時間が戻って、ご自分の足で前進されてゆくことを祈念したいと思った。

安達家を辞した後は、大淀町の道の駅辺りで泊ろうかと考えていたのだが、道を間違えて王子町の方へ来てしまったので、急遽予定を変更して平群町の道の駅にお世話になることにした。明日は、鎮魂の思いを込めて山の辺の道をゆっくり辿りたいと考えている。近くであれば何処へ泊っても支障はないのである。40分ほどで到着。長い夜が始まる。

奇跡的に命を拾った巌少年のその後は、傷が癒えるまでの厳しく長い時間と癒えた後の辛い人生の始まりがあったのであろう。彼にとって何よりありがたかったのは、両手を無くしての不自由を、母が懸命にカバーしてくれたことであろう。父は、息子が事故によって障害者になってしまったことに落胆し、自棄的にもなっていたというから、母の巌に対する思いは、愛情の限りを尽くしたものであったに違いない。巌少年にとっても又、母は絶対的な万能の神のような存在であったに違いない。大怪我がようやく癒えたとはいえ、時々疼く痛さに悲鳴を上げる少年とそれを労わり面倒を見る母親。この両者の間に両腕を無くしたという厳しい現実があることを認めることが、どれほど辛かったであろうか。そして、そのことに本当に気づくまでには、巌には、何度も何度も絶望を通り越える試練があったに違いない。それを想うだけでも心が痛む。

その時にも伯母の家に寄寓していたというから、母の立場は肩身が狭いものだったろうと思う。夫はあまり家に寄り付かず、両手の無いわが子を抱えていては、働きに出ることもままならず、母子居候のような形で、ひっそりと生きざるを得なかったのではないか。当時の経済状況からは、何処の家も食べるのがやっとという状態だったから、居候ということになれば食べることもままならぬ毎日が続いたのだと思う。母は自分の食を割いて子供に食べさせたに違いない。そのような状態が長く続けば、どうなるのであろうか。

そのような境遇の中のある日、巌を抱きながら、……「たとえ障害者であろうと、世の中にはお前よりも、もっと不幸な人がいるのだから、巌は大人になったら男としそのような人を助けるように、強く生きなさい」……と言いながら、その母は突然力を失ってもたれ掛かってきたのだった。その直前までの話は、母が渾身の力を振り絞って巌に伝えた遺言だったのだ。

今の時代では完全に死語となっているが、当時は栄養失調ということばが日常的に使われていた。現代では、栄養のバランスが取れていない身体の状態というような意味にとられるかもしれないが、当時の栄養失調といえば生きてゆくのに必要な最低限の食べ物が食べられずに、身体を維持できなくなっている状態という意味であった。それが限界に到達したとき、人は生きて行けなくなるのである。巌の母も限界を超えてしまったに違いない。そのまま帰らぬ人となったのだった。

その時の巌の困惑は如何ばかりだったろうか。人は極限状態になったとき、痴呆状態に近い心境に至るとも聴くが、悲しみも感じ取ることの出来ないほどの、まさに茫然自失といった状態だったに違いない。……「真に不遜なことではあるが、母が亡くなったという悲しみよりも、これからどうしてご飯を食べようか、トイレにどうやって行こうかということが心配だった。」とは、その時の偽らざる心境だったとご本人から聞いたが、恐らくやその時の巌少年には、事故で両手を失って以来、甘えに甘えてきた母の突然の死という恐ろしい現実が、生きて行く上で自分がしなければならないことを、これからどうやって行けばいいのかという厳しい課題を与えたことを瞬時に悟ったのではなかったか。巌少年は母に甘えながらも、感性の鋭い少年であったに違いない。

怪我をしてから母が亡くなるまでの間の母子関係の中で培われたものは、その後の巌の人生を貫く信念の柱となっているように思う。母から教えられたもの、感じ取ったものが、安達巌の生き様や絵を支えてきたのではないか。今流に言えば一種のマザコンといえるのかもしれないが、安達巌に母の教えが無かったら、今のような絵はかけないと思うし、もっと功利的な生き方をしたに違いないと思う。安達巌の中では、母は偉大な存在であり、絶対神であったと信じて疑わない。

 

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安達巌鎮魂の旅(3)

2010-03-01 03:27:22 | くるま旅くらしの話

※途中からお読みになられた方で、安達巌のことについて知りたい方は、2月27日の記事をお読み頂ければ幸甚に思います。

第2日 <9月22日()

道の駅:田原めっくんはうす→(R259・県道)→グロ-バル社・本社工場→(県道・R1)→岡崎IC→(東名・伊勢湾岸道)→刈谷SA→みえ川越IC (R1)→(四日市・亀山経由)→(亀山から上野まで東名阪道)(R368)→道の駅:伊勢本街道御杖(奈良県御杖村)(泊)    <214km

道の駅:田原めっくんはうすには、今回で2回目のお世話となるのだが、前回のことはよく覚えていない。朝、周辺を少し歩いてみたが、前回にはなかったと思う大きな病院(渥美病院)が建っており、巨大な駐車場が隣接していた。この辺りは豊橋の工業地帯のベッドタウンの機能も持っているエリアなのだろうか。その昔聞いたことがある東海メガロポリス構想は、知らず知らずの間に着実に前進しているようだ。

今日は、豊橋にあるSUN号の製造元のグローバル社に立ち寄って、電動ステップとエアコンのファン調整スイッチの不具合を見てもらおうと思っている。安達さん宅は明日お邪魔する予定でいる。その旨奥さんにもお伝えしてある。

朝食をとった後、会社の始業に合せてゆっくり時間を過ごして出発。9時半過ぎグローバル社に到着。早速見て貰う。午前中に修理可能であれば待っていても敢行して貰うことにして、先ずは診断して貰う。その結果、大丈夫、午前中に完了できるということなので、来た甲斐があったと安心する。12時まではかなり時間があるので、少し暑いけど付近を散策することにした。1時間ほど歩いたが、どうにも暑さに我慢できず近くにあったうどん屋に入り、涼をとりながら少し早めの昼食とすることにした。食べたのはうどんではなく、味噌カツ定食だった。

社に戻ると、既に修理は完了していた。ちゃんとステップが動くようになり、ファンスイッチも正常に動くようになって安心した。これでSUN号の不具合は後部カーテンの補修を残すのみとなった。カーテンの不具合は、安全走行上は大した問題ではない。

12時15分グローバル社を出発。今日は奈良近くの何処かの道の駅に泊るつもりでいる。時間的に名古屋の通過は高速道に頼らざるを得ないと判断し、岡崎ICから東名に入る。少し行くと豊田のICのところに伊勢湾岸道という案内板があった。この道は通ったことがない。よく分らないがどうやら四日市の方へ行くらしいので行ってみることにした。少し走って刈谷SAというのがあったので立ち寄り、伊勢湾岸道というのがどういうコースなのか地図を貰って確認する。新しい道で、名古屋港の辺りを通って伊勢方面へはかなり便利な道なのがわかった。四日市からR1に入ることにして、それには三重川越ICで降りれば良いというのが分った。

その後は順調な流れで、巨大な陸橋を幾つも通って、初めての名古屋港を見下ろしつつ、あっという間に四日市へ着いた。現代の道路建設技術は凄いものだなと改めて感心した。

四日市では道の選択を間違えて、かなりの渋滞に悩まされたが、ようやくそれを抜け出して亀山から東名阪自動車道へ。今日の泊りは温泉のある伊勢本街道御杖(みつえ)という道の駅(奈良県御杖村)にすることにして、上野ICで降りて、名張経由でそこに到着したのは17時半少し前だった。名張から先は、離合がやっとの細い道となっていて、国道といっても随分の格差があることを改めて思い知らされた。

御杖の道の駅は、温泉もあって、静かでいい所だ。温泉も満足できるレベルだった。欠点は、水の補給が出来ないこと。トイレを除けば、一切水道栓は見当たらず、公園もない。道の駅に是非とも有料でいいから水汲み場を設けて欲しいと思うのだが、行政の姿勢はそのような希望とは正反対で、部外者には一滴の水も汲ませないという意向がありありと見えるところが多い。ここもどうやら同じようである。ゴミは一欠けらも入れさせないぞ、というゴミ箱排除の発想と同じである。もっとお互いが賢く出来ないものなのだろうか。嘆かわしい。

家を出てからの走行距離は既に500kmを超えており、少し疲れもあるので早めに寝床に入る。眠る前に安達巌のその後を想った。

運命のその日のことは、何度も反芻して思いを馳せているので、今では本人以上にその大事件を思い浮かべることが出来るような気がする。辛(つら)い、厳しいできごとだった。自分が、まさか両手を失うなどということを想像できる人間はいない。

子供たちの間で、小鳥を飼うという流行があっという間に広がるというのはよくあることだ。巌の学校でなくても、小学校の低学年でそのような話題は思い出せば懐かしい。あの小さな鳥達と交流したいという願望は、人間が人間以外の生き物に対する愛情を注ぎたいという原始的な欲望の一つなのかもしれない。裕福であれば親にねだって手乗り文鳥やカナリヤなどを飼うことが出来るかもしれないが、あの戦後の貧しい時代では、それが叶う子供など殆どいなかったと思う。だから、少し知恵と冒険心のある子供は、身近にいる雀やカラスなどの雛を捕まえて飼ってみようと考えるのは、その当時であれば普通のことであったと思う。

 大人には無謀ということばがあるが、子供にはそのようなことばは当てはまらない。なぜなら賢い大人ほど、かつて無謀な冒険などをした体験を多く持っているからだ。無謀なことを一つもしないで大人になった人間には、魅力が少ないのは周知のことである。しかし、少年の無謀は時としてとんでもないできごとにつながることがある。巌少年は、まさにそのとんでもないできごとに関わってしまったのだ。その勇気の種類がどのようなものであれ、子供の世界では、リーダーシップのある者ほど目的に向ってひるまず敢行するのがその特徴であろう。巌は、極めて勇気に富んでいたが故に、他の子供がしり込みするのを抑えて、変電室の屋上にある雀の巣の雛を捕ろうと一人よじ登ったのである。3万3千ボルトの高圧線がどれほど危険であるかなど、知る由もなかった。現在ならば変電室の管理は如何なる部外者も入室を許さない安全対策が講じられているであろうし、仮にそこで子供の感電事故などが起きたら、100%その責任は変電室を管理する会社に課せられるに違いない。しかし、往時は、世の中全体が安全に隈なく手を掛けるほどの余裕は無かったのである。

巌少年が弾む胸を高鳴らせて、目的の雀の子を見つけ、手を伸ばしたと同時に、悪魔が彼の小さな手を吸いつけたのであった。高圧電流は、近くのものを吸い付けるのである。100ボルトの電流でも吸い付けるのであるから、その30倍以上の電圧であれば、それこそあっという間のできごとであろう。想像するだけでも身の毛のよだつできごとである。なまじ勇気があったが故に、巌は、99%は確実に死ぬであろう凄惨な事故に巻き込まれたのであった。

強烈な高圧電流は巌少年を吸い取った瞬間、その身体を跳ね飛ばした。頭をコンクリートの壁に打ち付けられて血を流しながらも巌は、気丈に立ち上がったという。死んではいなかったのだ。1%にも満たない僅かな生への可能性が彼を救ったのである。立ち上がって「お母ちゃん、堪忍え!」と泣き叫んだという。これは本人が、後になって友達から聞いたということだが、最早その時は彼の意識はそのことを自覚できるような状況ではなかったのであろう。それでも母に対する詫びの意識はしっかり残っていたということなのだろうか。

その後のできごとは凄まじい限りである。意識の混濁する中で、筵(むしろ)に包まれて病院の土間に置かれていたこと、父母の必死の懇請を聞いていたこと、両腕を鋸で切り落とすその音を聴いていたことなどなど、僅かに10歳にも満たない少年であっても、生死をさ迷いながらも、人間というのはこのような残酷な状況に耐えてゆけるのであろうか? ……ことばもない

  

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