山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

桑の実を採りに行く

2009-06-07 00:10:29 | 宵宵妄話

梅雨の合間の曇り空の隙(スキ)を窺いながら、桑の実を取りに行きました。数日前、自転車で6kmほど離れた利根川の堰堤をしばらく走ったのですが、その時に桑の木が黒っぽい実をたくさんつけているのを見つけました。梅雨の今頃は、竹の子だけではなく、桑の実も熟れる頃なのを思い出しました。

朝、TVをのスイッチを入れましたら、丁度何処かの地方で、桑の葉や実を使った料理や焼酎漬けなどの様子を放映していました。それで、守谷にだって幾らでもあるぞ、と刺激され、飛び出して行ったわけです。幾らでもあるといっても、守谷の場合は養蚕をおこなっているわけではなく、恐らくかなりの昔に養蚕を止めて、そのまま忘れ去られて原野化した畑の隅に生え残った桑の木が、しぶとく生き残って実をつけているということなのだと思います。したがって、桑の葉の方はよほどの新芽でないと食用には無理だと思います。しかし、実の方は樹全体が真っ黒くなるほどビッシリとついていますから、これはジャムでも、ジュースでも或いは焼酎漬けでも何でもござれというものだと思います。

私は、竹の子や、アケビの芽や、桑の実などなど、今では自然の中に忘れられている野草や樹の実などを食べるというか、体の中に味わって取り入れるということが好きで、これは自分でも何故なのか良く分かりませんが、多分にその昔育った田舎の暮らしの経験を、何とか今に取り戻そうという気持ちがどこかにあり、その衝動が為せる業なのかも知れません。旅に出ているときも家に居る時も、この季節になると、じっと机に向っていたり、植木や庭いじりなどしている時間は殆ど無く、日中は必ず歩きか自転車で外出し、何か獲物を求めてさ迷うのが好きな人間です。この習癖は恐らく生きていて動ける間はずっと続くのだと思います。

ところで、桑の実といえば直ぐに思い出すのが、「赤とんぼ」という唱歌です。三木露風作詞、山田耕筰作曲のこの歌は、小学校の時に学んだのですが、疑いも無き名詞・名曲です。現役を引退し、加齢が次第に進んで来ると、このような身近な懐かしい名曲は、思い出し声を出す度に癒しの力を高めてくれるような気がします。

赤とんぼ

①夕焼け小焼けの 赤とんぼ 負われてみたのは いつの日か

②山の畑の桑の実を 小かごに 摘んだは まぼろしか

③十五でねえやは 嫁に行き お里の便りも 絶え果てた

④夕焼け小焼けの 赤とんぼ とまっているよ 竿の先

ところで、私はこの詞の解釈を長いこと間違えているのに、つい数年前気づきました。それは①の「負われてみたのは」というのを「追われてみたのは」という風に思い込んでいたのです。私は①の歌詞は、てっきりトンボの気持ちを歌っているのだと勘違いしていました。子どもたちに棒切れなどで追い掛け回されている情景を思い浮かべていたのです。しかし、歌詞を良く見ると、「負われて」とあり、それは背中に負ぶさってという意味であり、子守をしてくれたねえやの背中から赤とんぼを見たという情景なのでした。なるほど、そうであれば、歌詞全体の意味がつながるわけです。

これに気づいた時は、もう還暦を過ぎており、真に赤面の至りでありました。この歌の②の中に桑の実のことが入っています。大正時代の暮らしの断片が良く現れている詞だと思いますが、桑の樹はこの時代、日本中の殆どどこの場所でも目に付く樹木だったのだと思います。養蚕のためだけではなく、その時代の人びとの暮らしの中で、桑の木は果実も子どもや老人たちの大きな慰めとなっていたような気がします。三木露風という詩人の、時代に根を張った繊細な感覚が窺えます。

余談ですが、③の十五でねえやは嫁に行き、というのは哀しい話です。当時は小作農家など、下層の暮らしを余儀なくされた人びとは、労働力として、もうこのような年齢で嫁せられたということなのでありましょう。未だ百年も経っていないのに、この国に住む人々の営みは、途轍もなく変化していることがわかります。その変化が、本当に人間として生きる幸せにつながっているかどうか、時として考えてみることが大切なように思います。

その桑の実は、今頃では守谷近郊でそれを摘もうなどと考える人は、もう数えるほどしかいないのではないかと思います。その中には若い人は恐らく皆無でしょう。いそいそと出かけるのは、もしかしたら私ひとりだけなのかも知れません。今は原野と化したような場所に、何本もの桑の大木があって、それのすべての木々が緑の葉を真っ黒くなるほど染めて実が熟れているのに、全く近づく人はいないのです。本気になれば、たちまちバスタブ一杯になるくらい摘めてしまいそうなのに、誰も摘みに来る人はいないのです。

今頃は盛んに自然環境が大切とか、やれエコがどうのとかいわれていますが、大自然の身近にある樹木や野草たちとのふれあいも無しに、二酸化炭素の測定ばかりしていて、本当にエコが達成されるのか、少し疑問に思います。現代人は自然の産物を加工し過ぎるように思います。加工をすればするほど、エネルギーを消費し、その負の遺産として環境を害するものが生み出されるのですから、大切なのは、大自然の産物をそのまま素直に受け入れること、それが原点なのではないでしょうか。

いろいろなことを考えながら、摘んだ桑の実は、特製のジャムとなりました。これも加工のし過ぎの感がしますが、桑の実を忘れないで活用したという点だけは評価されても良いのかなどと勝手に思っています。そのようなことよりも、何よりも大自然の中で桑の実を摘むという、その行為そのものが私にとって最高の幸せなのです。今日も幸せな一日でした。明日も又、新たな幸せの獲物探しに挑戦です。

   

今日の獲物の桑の実。あまりにもたくさん桑の木があり、そのどれもが超豊熟の実をつけていたので、却って摘む元気が途中で止まってしまった。もう一度出直しするつもりでいる。

コメント
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