山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

年賀状風景雑感

2022-01-07 09:26:25 | 宵宵妄話

 長引くコロナ騒動の中で3回目の新年を迎えた。この間に自分は傘寿を迎えたと思ったら、たちまちそれを一つ乗り越えてしまった。

 今年も多くの知人からの年賀状が届いた。それらを読みながら、様々な思いと感概が胸に幾つもの風景を描いて過ぎった。それらを少しく書いてみたい。

 自分は年賀状を3つに分けて整理している。①は親戚・学友関係

②は旅関係の知人、そして③は元勤務先関係の知人である。これは受信者の区分なのだが、発信の方は2種類の文面で一つは①と②を対象としたもの、もう一つは③を対象とした文面である。全部同一の文面でもいいのかも知れないけど、やはり35年近く勤務した会社生活の知人が圧倒的に多いので、自分の近況消息を伝える意味で別の文面が相応しいと考えている。年賀状には近況報告と現在の所感などを書いて印刷し、少し空欄を作って、そこに一言書きこむようにしている。

 年賀状には目出度いなどという決まり文句は一切書かない。自分は賀状ではなく、年が改まるというチャンスに自分の現状を知らせる、年に一度の挨拶だと思っている。だから謹賀新年などと云う文句は不要なのだ。賀状を頂いていつも思うのは、去年の賀状を見ながら一言を書くのではなく、今年の賀状を頂いた後に賀状を出す方が、ずっと相手方に届く文句が書けるのに‥‥、という思いである。それと、年末に服喪の挨拶を受けた方にも挨拶なのだから、賀状を出しても構わないのではないかという思いもある。でも、どちらにしても一般の世情ではやはり礼を失することになるので、踏み止まっている。

さて、今年頂いた賀状からは幾つかの似たような風景が浮かび上がったその最大のものは、自分が老人になっているという実感である。それはすなわち知人も又老に近づいているということだ。

親戚・学友については、普段会う機会もあるので、さほどの感慨はないのだが、旅の知人や元勤務先の知人については、それほど会えるチャンスはないので、便りを見て驚くことも多い。

旅の知人の多くは同世代の人たちなのだが、年々減少しているのを感じている。特にここ3年はコロナのことなどもあって、旅先での再会が叶わなかったので、この間に消息が分からなくなったり、或いは不幸にも逝去された方などもあって、知己は数年前と比べるとかなり少なくなっている。旅の知人はご夫婦との付き合いが多いので、そのどちらかが亡くなられたという話を聞くと、残された人の悲しみや孤独の思いがひしひしと伝わってくる。そして、その現実がいずれ遠からず自分たちにもやって来るのだという予告にも聞こえるのである。哀しい思いと共に生き残っている幸せを大事にせねばという思いも強まるのである。

元勤務先関係の知人は、20年ほど前に会社を辞めた時には300人以上の方から賀状を頂戴していたのだが、今はその半分以下となっている。仕事上の付き合いは、仕事を離れれば自然と薄くなって行くのは世の常というものなのであろう。逆らう気持ちはない。

辞めた当時は、皆まだ若者世代だと思っていた人たちが定年で会社を退職しただとか、或いは1世代位下だと思っていた人が、後期高齢者となりました、などと書かれた賀状を見ると、驚くと共に、彼が歳とったのかと思うそれ以上に、我が身自身がその分だけ老を増しているのだと気がつくのである。老が進むにつれて、嬉しい話よりもその反対の話題が増えるのを実感している。

ところで、今年も何人か今年限りで賀状を出すのを辞めるという挨拶の便りが入っていた。中には終活の一環としてこれをとらえている人もいて、何だかがっかりしてしまう。

本来賀状のやり取りなどというものは、若い時ほど不要なのであって、歳をとるほど必要性を増すものではないのかと思うのだが、その逆を行く人が多いのには、その思い違いを諫めてやりたいような気持に駆られるのである。全世界70億人もいる人間の中でたった1000人足らずの出会いを保ってきた人との繋がりは、本来は歳を経るほどその価値を増す筈なのに、人生の終り近くになって、わざわざその繋がりを放棄するというのは、何という愚行ではないか。米寿の先輩の方からそのような賀状を頂くと、これからこそがその繋がりが大事さを増すのにと、気の毒を通り越して可哀想という気持ちになってしまう。

又、今頃はやたらに終活などという考えを喧伝する人がいて、それに絡むグッズなどが販売されたりしているけど、自分は断然、決して終活などという愚かな行為は取り入れない。死ぬ前の準備などという愚行は、己自身の自殺行為ではないのか。そのようなことを考える暇があったら、残りの人生をどう生きれば納得できる死を迎えられるのか、その生き方を考え実践することの方が遥かに大切ではないのか。そのように考えるのである。とにかく人間は、その人生は、「生きていてなんぼ」なのだ。死ぬまで生きるのを考えるのが、人間の本来の使命なのではないか。自殺行為は人間の冒涜であり、犬や猫のような動物にももとる行為なのではないか。彼らは自然のままに生かされ、精一杯生きているのである。人間だけが生き物としての本来の姿をゆがめているのは、一体どうしたことなのか。

現今の死の考え方は間違っている。死の前に目一杯生きることを考えてこそ、死が本物となるのではないか。

賀状を見ながらあれこれと思いを巡らした次第。

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