山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

嵐の女の登場

2015-10-03 04:05:01 | 宵宵妄話

スーパームーンに騒いだのもあっという間のできごとで、今度は爆弾低気圧とかで、台風を凌ぐほどの猛烈な風な吹き、各地で新たな被害を巻き起こしています。我が家でも一応は手当てを施しておいたはずの皇帝ダリアの3本の内の一本が根元から折れてしまい、どうにか助かった2本も風に揉まれて瀕死の状態となってしまっていました。昨年は2本とも強風にやられて折れてしまい、花を観ることが出来なかったので、今年は何としても倒れさせてはならないと思っていたのに、危うくセーフといった感じの朝を迎えたのでした。このところの大自然の暴意は、先の大雨と言い、人間の甘い予想をあざ笑うかの如くです。

そのような出来事の中で、9月の10日には嬉しくも二人目の内孫が誕生し、その後退院して嫁御の実家で母子ともに静養していたのですが、昨日我が家の1階に戻ってきました。一緒に帰って来た1歳半になった上の児は、早速専用の自転車に乗せて、しばらくご無沙汰していた空白を埋めるべく、1時間ほど付近を一回りしたのでした。

昨日は戻って来たばかりでドタバタしていたので、孫娘の顔をじっくりと見る時間も無かったのですが、時々階下から今までとは違う、少し甲高い泣き声が聞こえて来て、ああ、これで倅夫婦の家族も一回り大きくなったのだなというのを実感したのでした。

孫娘はこれで3人となりました。内孫と外孫を差別する気持など更々ありませんが、滅多に会えない外孫に比べれば身近にいる内孫に関心がゆくのは、これはもう仕方のないことです。それでも差別と受け止められることのないように、あまり舞い上がらないように気をつけなければいけない、という家内の警鐘もありました。ジジババというのは、結構自制を求められる存在なのだなと思ったりしています。

さて、その新しい孫娘なのですが、先日の大雨の中での誕生と言い、昨日の朝の大風の日の帰宅といい、これはもう嵐の女の登場だなと思いました。定めし明治・大正辺りなら、嵐子とでも名付けるのかもしれません。でも女の子なので、読み替えて藍子か蘭子と書くようにするのかもしれません。勿論息子夫婦はそんな名前を付けるはずもなく、もっと今様の名前を付けています。プライバシーの姦しい時代ですので、ここでその名を披露することはいたしません。

思えば、これからの世の中は、まさに嵐の吹き荒(すさ)ぶかのような、予想を超える変化の大きな時代を迎えることになることでしょう。その最大のものは、人間が手に入れた新たな知識や技術やツールなどが、それをどう使うのが人間の生き方に本当に有用なのか、その解を見出せないまま、振り回されて生きてゆく、そのような時代を迎えるということでありましょう。今の情報化の時代の人の生きざまの有り様を「携帯を持った猿」と評した方がおられましたが、今の世の中は手に入れた情報過多のツールを、どう扱っていいのか考える間もなく、はみ出した情報に振り回される(或いは振り回す)人の如何に多いことか。その種の犯罪は止まることを知らずに膨れ上がり続けている感じがします。

人間が猿と違うのは、人間社会は猿たちの掟などをはるかに超えた倫理を持っているということだと思いますが、今の世は行き過ぎたツールが倫理を忘れさせ、置き去りにしているかの如き様相を呈しています。倫理を忘れた人間社会は、平和も平等も博愛も安全も安心も存在しない、只の弱肉強食の禽獣の世界になり下がってしまいます。今の世に起こっている様々な事件の根底には、このような嵐の種が潜んでいる感じがしてなりません。

大自然の嵐の中に誕生した孫娘には、これらの雨風を凌ぐ力が備わっているに違いないと思っています。これからその力をしっかりと育て鍛えて、逞しく大きく成長して欲しいと願っています。目元の涼しい黒髪の豊かな赤ん坊が、これからの人間社会を見舞うであろう嵐の中をどう生きて行ってくれるのか、楽しみです。ジジババが、あとどれくらい傍にいることができるのか、見当もつきませんが、生きている間は見守り続けたいと思います。

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