旅から遠ざかってのかなり長い時間が経っています。この頃は毎日しっかりとジジバカをやっています。毎日16時を過ぎる頃になると、バカジジはジジバカの準備でソワソワし出します。その準備とは、KC号で市中見回りに出かける用意をすることなのです。
9月10日の嵐の日に妹が生まれて、今はこの姫の入浴時間が16時半過ぎとなっています。これは勿論嫁御が担当するのですが、二人の子供を同時に面倒をみるのは大変だろうと気を回し、上の児を自転車に乗せて出かけることにしたのです。ま、嫁御の手助けのためといえば少し格好いいですが、実のところは、孫を一人占めする時間が確保できたというわけです。
孫はただ今1歳と7カ月です。ヨチヨチながら歩きの方は少しずつ安定性を増して来ていますが、ことばの方は、かなり長いのを発していても、殆ど意味不明で「○▽×?+-◇△÷?」と言った具合です。とにかく、自分の思いを伝えようとして目一杯これらのことばを発しているのですが、英語やドイツ語よりも難しくて、調子を合わせるのに一苦労です。
それらの中で確実に意味が判るのは、「ママ」と「ウマイ」と「バイバイっす」ということばです。「ママ」はこの世代の世界標準語ですから、よく解りますが、「ウマイ」というのはジジババが教え込んだことばなのかもしれません。ビスケットなどを与えると絶妙の笑顔になるので、「ウマイ!」などと調子を合わせて言っていたら、それが沁み込んでしまったのかもしれません。ネガティブでない、良いことばだと思うので、ジジババは満足しています。
その三つのことばの中で、彼が一番しっかり身につけ、発しているのが「バイバイっす」ということばです。1歳を過ぎた頃から、両親に「どうも」と言いながらお辞儀をする動作を教えられ、それと併せて「バイバイ」という動作も教えられたようなのですが、「どうも」の方はお辞儀の所作だけを身につけ、「バイバイ」の方は両手を振る所作だけではなく一緒に声を発することも身につけてしまったようなのでした。
自転車の前かごに乗せて、市中を見回る時には、犬を連れた散歩の人を見かけると「バイバイっす」と手を振り、買い物などをする時でも、レジの人に「バイバイっす」とやるので、皆さんちょっと驚いたあとで笑顔を見せて下さいます。それが嬉しくて、出会いの度に「バイバイっす」となるようです。
それらの所作を見ていて気づいたのは、彼にとっての出会いはすなわち別れなのだということでした。「サヨナラだけが人生だ」ということばがあります。いろいろな人がこのことばを言っていますが、その中では何といっても井伏鱒二の于武陵の「勧酒」の妙訳でしょう。
この盃を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐の例えもあるぞ
「さよなら」だけが人生だ」
(本来はカタカナ表記)
この詩は酒のみの一場面に人生の有り様を見事に詩い込んだものですが、我が孫の「バイバイっす」の出会いの所作は、何かこの詩に通うものがあるように思ったのでした。
1歳半ばを過ぎたばかりで、早や、出会いが別れの始まりであることを悟ってしまっているということなのかもしれません。ま、これはかなりオーバーな捉え方になるのでしょうが、恐らく我が孫だけでなく、どこの児もこれくらいの時期には皆同じような所作をするのでしょうから、してみると人間というのは誰でも生まれて間もなく「さよならだけが人生だ」を無意識に悟っているということになるのかもしれません。
バカジジはそのようなことを考えながら今日もいそいそと市中見回りに出かけたのでした。それにしても「バイバイ」の後に「っす」と付けるのはどういうことなのか?不思議です。「オッす」という体育系の挨拶の先取りならば、これはもう体育系に間違いないのか?などと、孫の将来に思いを巡らしたりしています。何はともあれ、元気に逞しく育ってほしいものです。
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