山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

勝者の償い

2011-05-01 02:26:49 | その他

 このところずっと思っていることがあります。東日本大震災の発生のあと、世の中に様々な変化が起こっていますが、被害が一番ひどいのはどこか、などと災厄の大きさを云々するのはナンセンスとは思いつつも、これから先のことを考えた場合、被災地の地域行政の中で最も苦悩の道を歩まなければならないのは、福島県ではないかと思うのです。福島県は今四重苦に喘いでいます。地震による大地や建物の損壊等の甚大な被災、大津波による港の破壊や家屋流失等の甚大な被災、原発事故による各産業への甚大な被害と住民の避難問題、そして一次産業を中心とする各産業に対する風評被害の拡大と言った重篤なる課題の数々です。この福島県の抱える大きな苦しみと課題を中心として、東北各県の大震災による被災のあり様を思う時、過去の我が国の歴史を振り返ると、これらのエリアに対して最も力を入れて支援や救済に当たるべきはどこの誰なのかという、そのようなことをずっと思っています。およそ現代の感覚とは相当にズレた、私的な思いについての話をしようとしています。

 私は今、早乙女貢という作家の「会津士魂」という、幕末の会津藩を中心とした戊辰戦争の顛末を描いた本を読んでいるのですが、往時の(さむらい)(だましい)というものを思い見るとき、革命(或いはクーデターかも)の側と旧体制の中で士道を貫こうとする側とのいずれに正義があったのかと思い迷っています。勿論このようなことは断定的に決められるものではなく、生きている間は己の胸の中で葛藤を繰り返し続けるのだと思いますが、私的には士道というのは革命サイドには少なく、旧体制側により多くあると思っています。例えば、幕末の京都の治安を取り締まって多くの勤皇浪士を処断した新撰組に今でも人気があるのは、往時の市中の平和をかく乱し不安を掻き立てる不逞の者を厳しく取り締まることが、まさに正義であるという信念を貫いたある種の美学に連なっているからだと思うのです。

旧体制側において最後まで士道を貫いたのが会津藩であったことは歴史上明らかなことですが、新撰組を相当にバックアップして京の都の治安に貢献したのに、会津藩のことはその後の歴史譚にも殆ど登場してきません。会津藩の庇護のもとに活躍した小さな組織に過ぎない新撰組の方がはるかに名を為しているのは、妙にして不思議な気がするのです。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということばがありますが、幕末の戊辰戦争において、徹底的に賊軍と決め付けられたのが会津藩であり、それは官軍の中核たる長州・薩摩・土佐の遺恨・憎悪の標的でもあったわけです。本来ならそのようなものは旧体制の幕府のトップである将軍に向けられるべきなのに、こちらの方は士道にそむいて配下を裏切り恭順のジェスチャーに徹した故に軽い扱いで済んだのでした。それに比べ真面目な配下である会津藩の方は、士道に徹したためにその代償目的となって徹底的に痛めつけられる事となったのでした。

私は水戸出身ですが、徳川慶喜という水戸出身(一ツ橋家へ養子に入った)の最後の将軍を名君などとは到底評価できません。名君は会津藩主松平容保公の方だと思います。己の信念を貫いて藩をつぶすような人物は名君ではないなどという考え方からは、この方は評価されないと思いますが、御三家の筆頭でありながら最初から藩や我が身の保身に終始した尾張の殿様などがさしずめ名君となるのでしょう。国や組織が混乱している中では、人物の器量というものが様々な形の行為で顕れ、様々な角度から評価されるのでしょうが、私は士道を貫くというトップを支持します。

話は飛びますが、戊辰戦争においては、奥羽越列藩同盟というものが結成されました。これは会津藩を中心に旧体制の士道を守ることを誓った、まさに今回の大震災のエリアが多く含まれる各藩による同盟組織でした。しかし、戦いの中盤以降は裏切りが多発して同盟は崩壊し、会津の落城で終止符が打たれるわけですが、今回の地震はこのエリアを天が再び襲って災害をもたらしているかのようにも思えます。先年(2004年)の新潟県中越地震と重ねると、まさに戊辰戦争の奥羽越の地形に重なる感じがするのです。あの時の薩・長・土を核とする西軍に代わって、この頃は天の悪意が災厄をこのエリアにもたらしているかの如くです。

勿論これはデタラメの言いがかり的憶測であることは十二分に承知していますが、それでも何かしらの因縁があるように思えてしまうのです。それで、言いたいのは、これら痛め続けられているエリアに対して元官軍の側にいた人たちの子孫は、心して往時の償いを意図しても良いのでないかというこじつけの理屈です。

特に薩摩、長州、土佐に係わる人たち、会津を含む福島県のこれからの長期にわたる苦難に満ちた復興のための長い道に対して、何らかの形で手助けをするという、謂わば勝者を祖先に持つ者としての償いの行為を意識して欲しいと思うのです。更にとりわけて、尾州の人たちは、この際身を乗り出してご先祖様の心変わりの償いの実践を心がけるべきではないかと思います。

とはいっても、往時の中心人物の殆どはその後出身地を出て東京などの大都市に住まいを変えたのでしょうから、故郷にそのまま残った人たちには免責が大きいのかも知れません。

ま、歴史というものは逆戻りのできるものではなく、人の生きる道というようなものも時代の流れの中で少しずつ変化し、140年も超える頃にはもうすっかり変わって、今はもう忠孝仁義などといても、なんだいそれは?で終わるのみです。ですからこのような妄想は真に愚かな痴れごとなのですが、それでもしつこく勝者の償いは必要なものなのだと思っています。

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