山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

筑波山登山の記(第10回)

2013-12-06 02:13:16 | 筑波山登山の記

<第10回 登山日 2013年12月5日(木)>

 中4日を置いての登山となった。今回は男体山への登山なので、ご来光を期待せず、出発も少し遅くして、足元の明るい時間帯での登山となった。それでも出発は5時45分であり、夜明けまでにはまだかなりの暗さの時間帯での車の運転となった。いつもの梅林駐車場に着く頃にようやく東の方に淡い「かぎろい」が見られるといった状況だった。丁度筑波山神社の少し上にある登山口に差し掛かった時、傍にあるモミジの樹の枝の間から、神社の本殿脇から上る日の出を見ることが出来た。それなりの荘厳さがあったけど、やはり山頂で迎えるそれには及ばないなと思った。その荘厳さを味わうためには、2時間近く早く登山を開始しなければならないのだなということを、改めて実感した。

     

筑波山神社脇の山もみじの樹間の日の出。紅葉したモミジに包まれた太陽は、いかにも温かそうに見えた。

さて、そのあとはいつものコースを淡々と頂上を目指して歩を進めたのだが、今日はその歩きの中で感じた登山というものの本質というのか、その歩きについて、気づいたことを書いて見たい。

先ず、登山というのは哲学の道を歩むのと同じだなと思うようになった。ものを考えるという行為は、机に向かっている時ではなく、歩いている時がベストなのだと思う。それは自分自身40歳の終わり頃に気づいて、通勤時間帯などを使ってずっと歩きを継続して来たので、疑いのない事実だと思っている。会社勤めの中で、何か解決を求められている事項や、新しいヒントが欲しい時は、歩くのが一番だと思ってやって来た。それは自分にとって大きな力となった。会社の中で机に座って、さも考えているらしい顔をしているのは、働くゼスチャーに過ぎない感じがしたのは、当たっている様な気がする。

今は特に目的的な仕事があるわけではないので、歩くのは楽しみを拾うためだと割り切っている。今年は今のところ万歩計での毎日の平均歩数が15200歩を超え、総計では500万歩を少し超えたレベルにある。これらの歩きは皆楽しみを拾うために不可欠なので、歩きが嫌になるとか負担を感ずるとかいうことは無い。現在、楽しみのテーマが幾つかあるけど、その最大のものはやはり老計である。老計とは如何に老いるかということである。もう一つ死計があるが、これはどのような死に方をするかということであり、老計と死計とはセットになっている。死計を決めるのは老計であり、老計こそが人生の締めくくりの最大の課題なのだと思っている。いま、それをあれこれと考えるのが楽しい。そして、考えないことも又楽しい。だから、とにかく歩くのが楽しいのである。

さて、少し煙に巻いたところで、登山に戻って、これは哲学の道を歩くのと同じだなという話。学者が思索にふけりながら歩く哲学の道があるけど、学者でなくても自らに哲学を課す道が登山のように思えてならない。山に登るというのを、よく人生の有り様に例えられるけど、それは苦楽入り混ざっての頂上を目指すプロセスが、まさに人の生きざまに似ているからなのだと思う。しかし、実際の登山の中では、人はその一歩一歩を噛みしめながら、意識・無意識的に己の生き様の哲学を追及しているのではないか。敢えて苦を伴い、頂上を目指すのは、一歩一歩に己の生き様の思いを込めるからであり、それこそが本物の哲学行為のように思えてならない。

さて、今日、この哲学の道を歩いた結果解ったことが一つある。それは、「人生は障害を乗り越えて行けば、障害が味方となり、力となる」いうこと。

筑波登山では、登山道の至る所に大小無数の石が転がり、樹木の剥き出しの根が這い茂って、登山者の前進を邪魔している。これらは全て障害物だった。少なくとも5回目くらいまではそう思いながら歩を進めたのだった。しかし、現在は受け止め方が変わってきている。これらの岩石や根っこは実に巧みに登山の足場を確保してくれている、実に歩きやすくしてくれていると思えるようになったのである。2~3の小石は別として、その他の障害物が動いたわけではなく、今まで通りの位置なのだけど、天の配剤と思えるほど、それらは巧みに登山者の足場を作ってくれているのである。このことに気づいた時の感動は大きかった。

今まで自分が体験して来た人生の喜怒哀楽に絡む様々な出来事も同じだなと思った。そこには必ずといっていいほど何か障害物(邪魔)があったのである。そして、その障害物を乗り越えた時に、自分は僅かなりといえども本当の喜びを知り、成長することが出来たのだと思う。障害物を障害物として放置し、避けている限り、人は先に進めない様に思える。登山道の邪魔物も邪魔というレベルで扱っている限りは、楽しみは濁り続けるのである。そんな風に思った。

人は皆、いつも何かに試されているのではないか。そのように思えてならない。何かが、障害物をその人に与えて、それをどう乗り越えるかを試しているのである。その試練に気づかず、或いは気づいていても避けている間は、その試練は決して味方とはなってくれないようだ。しかし、試練に耐えそれを乗り越えた時、その障害は味方となり、その人に力を与えるのである。

このことに気づいて、登山の楽しみが層倍した感じがする。一歩一歩が楽しくなるのである。一歩一歩を楽しみながら登り続ければ、必ず頂上に辿りつけるというのも楽しい。勿論、楽しさの中には汗をかく苦しみが多少は混ざっているけど、それが混ざっているからこそ、登山の楽しみや喜びが本物となるのである。ケーブルカーやロープウエイとは違った、哲学の味わいを持った登山が出来るのである。大きな収穫のあった一日だった。

     

今日の男体山御本殿の様子。周辺の樹木の葉も落ちて、約871mの山頂は間もなく本格的な冬を迎えようとしている。

 

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